中国ウルトラ・ナショナリズムを批判する(二)
- 2021年 12月 15日
- 評論・紹介・意見
- 柏木 勉
ロシア革命も中国革命もアジア的専制の延長だった。
アジア的専制と闘った共産党が権力を握ったソ連や中国では、一見したところではロマノフ王朝の打倒と10月革命、或いは清朝打倒後の対日戦、国内戦での勝利によって政治権力を奪取し、その後経済的には近代化をはかり工業化を進め、なおかつ社会主義的レトリックをまきちらしたので、両者はアジア的専制から脱却したかのようにみえたのです。ですが、それは全くのあやまりであり、その政治・社会の体制全体の底流と心性・メンタリティーの骨格はアジア的専制のままだったのです。
この点、最初にロシア革命につき二、三点だけ触れておきますと、ゴーリキーはすでにロシア革命直後について、また革命前の旧制度について以下のように述べていました。
「旧制度は物質的には破壊されたが、精神的にはあいかわらず、我々の仲間、我々の内部に生きている。無知、野蛮、愚行、怯懦、卑劣の百頭のヒュドラは殺されてはいない・・・・」。
「下劣な地獄の責苦を思わす学校で育てられ、拳骨、鞭、コザックの皮鞭で教育されてきた民族は優しい心を持つことができない。警官に踏みつけられてきた民族は、自分の番が来たら他人の体を踏みつけていくのである。邪悪がこれほど長く支配してきた国で、今日明日に、正しい権力を実現することは困難である。公正を知ってこなかった者に、公正を求めることはできない」
(ボリス・スヴァ―リン「スターリン・上」、教育社1989年)
レーニンは、ネップの段階において「半アジア的な非文化的状態」にある農民(国民の大多数を占める)に対する計画として、次のように文化革命を提唱しました。
「・・・・・出発点として我々は真のブルジョワ文化で満足すべきであろう。出発点として、我々は粗悪な前ブルジョア的文化、例えば官僚的文化や農奴的文化などから抜け出せれば喜ぶべきであろう・・・・・」「全国民が文化的発展の一時期を経過しなければならない・・・・・」(M.レヴィン「レーニンの最後の闘争」岩波書店 1969年)
さらに、「最後の発作に倒れる寸前、彼(レーニンー筆者)は、ソビエト機構が「旧国家の生き残りであり、ほんの表面を軽く塗りなおしたものにすぎない」と述べた」(柄谷行人「at3号」太田出版 2006年)。
その後、レーニンの深い懸念は現実のものとなりました。スターリン時代を通して「粗悪な前ブルジョア的文化、例えば官僚的文化や農奴的文化」はむしろ一層強化されて、それがスターリン体制を支えることになりました(ただし、レーニンの組織論、国家論にも問題がありました。「マルクスのロシア的受容」です。レーニンにもアジア的専制の影響がありました。またゴーリキーとスターリンの関係も紆余曲折があり複雑でした)。
低い民度が代行主義を生む
ロシア革命の敗北・ソ連の崩壊については、70年の間に起こったそれこそ様々・諸々の要因が挙げられます。ですが、ひっくるめて一言でいってしまうと、民衆と共産党員の「民度」が低かったということに帰結します。
ロシア革命の出発点では、アジア的専制のもとで読み書きもろくにできない農民が8割をしめていました。そして後進国ロシアのアジア的専制の心性・精神風土においては、民衆(大多数が農民)は古来の家父長的な権威・温情主義に融合しそれに依存したままでした。個人としての意識、自律した個人のエトスを持つことはなく、自我の確立から遠い存在でした。要はロシアの民度・文化が低かったわけです。これがロシア革命が最初から抱えていた重大な与件でした。
これが意味するところをごく簡単にいえば、互いに個々人が意見を交換しあって合意をつくっていくという意識など殆どなかったということです。
ボリシェヴィキの権力奪取の後は、穀物調達による食糧危機、列強の干渉、国内戦と飢餓状態、短いNEP、恐るべき農業集団化とテロルとカオス、そこからのテロルの日常化・大粛清・大量の流刑、収容所群島化、さらにはナチとの世界大戦が続きました。最初から民度が低く、更にはこの様な暴力的闘争・戦争状態が長期に続いたのですから、社会主義をめざす主体の形成は不可能でした。社会主義をめざすうえでは大前提として相当程度の「民度」の高さが不可欠です。「民度」が低ければ、民衆(人民)が主人公になっていく過程や民衆(人民)が主人公になった段階を考え、それを模索し、めざして行くというスタンスは生まれません。民衆は操作の対象でしかなく、全てをもっぱら党のごく一部が「指導し統制する」=代行主義が現実になるのは必然です。これはアジア的専制の天下二分への逆戻りです。
スターリン体制の確立を支えたアジア的専制の心性
スターリン体制の確立と農民の関係につき少しだけ触れると、セルゲイ・エシコフによれば、農村・ミールにおける諸問題への方針決定は、伝統的な挙手による全員一致でした。これは少数意見を疑わしいものとして嫌悪し、排除するものでした。責任も全員でとるのですから、「個人」は存在しません。
ミールの世界はこのような伝統的メンタリティーにもとづくものでした。そして、このメンタリティーはボリシェヴィキ党内の論争、少数派の異議申し立て・意見不一致の議論に対しても疑わしい目を向けさせ、無論意見対立の内容など理解するはずもなく、例えば少数派の右翼反対派弾劾キャンペーンに積極的に参加し、右翼反対派を非難しました。これは逆説的な反応でしたが、異論や反対を受けいれないという点で、変質した党の上層部はもちろん党全体と農民の意識が一致していたことを意味します。これが分派禁止の継続強化、「理論」の教条化、鉄の規律の順守を党外から支え、ひいてはスターリンの独裁・個人崇拝に連なっていったというべきです。
また、スターリン体制確立の転換点になった農業集団化は、農村・ミールに対して残虐・非道の大打撃を与えましたが、一方では、農民の「ミールによる農地所有」という観念は私的所有を否定するものでした。これは集団化をになう党の活動家と農民の一定部分を接近させることとなりました。すなわち農民下層部は国の集団化・国有化の実行部隊となることで、国からの食糧配給等での優遇措置を得ることを期待したのです。それは伝統ロシアの家父長的温情主義、またミールの農地所有と私的所有の否定という、農民のメンタリティーの底流と合致したからです。これら農民の伝統的心性もスターリン体制確立をささえた柱の一つだったのです。(セルゲイ・エシコフ「穀物調達危機と中央黒土農村における社会政治情勢(1927-29年)」 奥田央・編著「20世紀ロシア農民史」 社会評論社 2006年所収)
スターリンの個人崇拝について云えば、それは残存する伝統的ツアーリ崇拝の浮上という側面をもっていました。ツアーリ崇拝は、土地も農民もツアーリに直属することが本来のありかたとするもので、中間に介在し農民を苦しめる貴族を排除すべきというものでした。この意識は、スターリンが仕組んだ大量処刑・大粛清、密告、大量逮捕が相次いだ時にも民衆の間に浮上しました。それは「我々民衆を酷い状態に陥らせているのは、GPUのヤゴダ、エジョフ、ベリアやその他のスターリンの取り巻きどもで、スターリンは知らないだけだ。悪いのは取り巻きどもで、スターリンが知ってくれさえすれば」というもので、いわゆる中間に介在する君側の奸を排除せよという心性であり、ツアーリ崇拝と同じでした。同時に「悪い党官僚主義をスターリンが粛清によって打破している」との錯誤を生みました。
ついでに云えば、このアジア的心性は日本の戦前の皇道派と同じものです。2.26事件は君側の奸を排して、天皇の赤子たる国民が天皇と直結することをはかったものでした。
段階の乗り越えは不可能だった
しかし、スターリンの農業集団化をはじめとした「行政的措置」の強行は、「無知で白痴みたいだ」(ブハーリン)といわれるほど、あまりに粗暴で残虐でした。一層暴力化した穀物調達・財産没収と大規模化をめざした農業集団化は、ミールにおける農地の割替とも対立し、私的所有を否定する農民との一致などすっとんでしまうほど残虐なものでした。
農民の絶望的混乱と抵抗、大量の死者で農業生産は大幅に減少し、それは一方の重工業化にも波及して動員される労働者にも甚大な犠牲を課すことになりました。農民は精神的に荒廃すると共に、都市、工業地帯へ流入し、そこから都市の農村化が促進され、帝政ロシア=アジア的専制の精神的・文化的基盤、生活様式が都市化、工業化の流れに浸透しました。さらには、党員の質(民度)も低下する一方でした。すでに思想なき官僚化=下されたどんな命令にも忠実に実行するだけで、それを喜び美徳とする非人間化(党アパラチキへの転化)が進んでいましたが、集団化の際のテロルはその後の行政措置において通常の方法となっていき、これらの流れは社会経済的に巨大なカオスをつくりだして、官僚制もおおきく動揺し混乱するに至りました。
その後のソ連は、いわば胴体・手足は「重工業化・近代化の促進」でしたが、しかし頭は「ロシア的後進性、伝統意識への退行」となり「ロシア的野蛮」が噴出して、前述したようにテロル、連続する粛清=大量処刑は普通のことになり(ラーゲリ(収容所)群島はその悲惨な結果です)、極点に達した国内の緊張で手いっぱいとなって、「一国社会主義」のもと(すでに「世界革命」は打ちすてられていました)、ナチとの戦争はナショナリズムにすがって「大祖国戦争」を戦うしかありませんでした。農業集団化は長く深刻な影響をもたらし、自分も他人も腐食させるコルホーズでの「指示待ち、すねかじり根性」、つまり自発性の完全な喪失、さらに強制収容所の「ラーゲリ精神」が浸透・蔓延して、その結果「ノーメンクラツーラと物言わぬ大衆」という天下二分体制が形成されました。しかし、それは停滞の長期化をもたらしたあげく体制を崩壊させるに至りました。
ツアーリの政治警察と徹底して闘うため、最も厳格な秘密活動に従事し、最も厳格に選抜されたレーニンの職業革命家グループは、スターリンの個人崇拝・個人独裁に行き着きました。革命は破壊されました。結局、トロツキーの「段階の乗り越え」は不可能であった。それがはっきりしたわけです。
(続く)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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