ドイツ通信第185号 新型コロナ感染の中でドイツはどう変わるのか(26)
- 2022年 2月 22日
- 評論・紹介・意見
- T・K生
春まだ遠い2月のドイツ
ドイツのオミクロン株感染はピークを迎え、これから3月末から始まるイースター休みを目途に社会のコンタクト規制の段階的な緩和に向かいます。コロナ感染からちょうど2年目の節目に当たります。
規制からの自由を羨望する一方で、EU他国から伝わるコロナ規制解放で沸き返る市民の興奮した姿を傍目に、「これで大丈夫なのか」と先行きへの不安を隠し切れないのもまた事実です。
「峠を越えた」といえるかと思いますが、他方で不確定な要素を含むこのへんの現状をいろいろな角度から見ていきます。
12月から1月の中旬にかけて「子ども接種」を2人で担当することになりました。ドイツの捗らない接種キャンペーンの一つの原因が、5歳から11歳の子ども接種が遅れていることで、それが託児所、保育園での感染拡大の要因になり、仕事を抱えた両親の大きな精神的そして経済的な負担になってきていました。
私たちは、注射をいやがる子どもの気分転換になればとFFP2マスクの上に動物とアフリカ系模様の絵柄が描かれた布生地(注)を縫い合わせて、子ども来れば「これ見て、見て!カッコいいよね!」と気をそらし、その隙間に接種をという作戦でしたが、子どもはあまり関心を向けてくれなかったです。
(注)友人のスーダンの画家の作品です。
問題は両親の子どもへの対応であるのがはっきりしていました。不安なく来て、接種を済ます子どもは、両親が時間をかけて辛抱強く家で子どもと話しあってきたといいます。しかし、説得できない家庭は、子どもが部屋に入ってくるなり泣き出し、接種を強引に拒みます。両親はどうしていいかわからず、途方にくれます。
「接種を受けないと、学校へ行けないよ」「友達にも会えないよ」「スポーツもできないよ」等々、手を変え品を変え何を、どう説得してもダメですから、私が子どもを連れてすでに済ませている他の子どもに「インタヴューしよう」といって、手をつないででかけました。
「どうだった」「痛かった」「不安があった」等々、聞かれた子どもは「全然!」と無関心に応答し、すでにスマホ・ゲームに夢中になっていました。
それを聞いて私たちの子どもが、「まあ、いいだろう(Na, gut!)」と何気なくつぶやいたのを契機に、どうにか接種を済ませました。
子どもは子どもから学ぶという一つの実例でしょうか。その機会を奪ったのがコロナ感染であったともいえるのです。その負担が先生方、両親にのしかかってきているというのが現状だと思います。
せっかく苦労して改良したマスクですが、子どもたちには受けずに、センターの仕事仲間には好評だったのが慰めです。
EU他国と比べてドイツの接種率の低い原因が、青少年・少女の接種が進まないことです。もう一つの原因は、60歳以上の高齢者の300万人がまだ接種を受けていないことによります。
2月18日現在の統計でみると、2回接種75%、1回接種76.2%、ブースター接種55.9%、これにいまだに高率の非接種23.8%が加わります。
スペイン、ポルトガル、イタリア、デンマーク等の85~90%以上の接種を済ませ、規制を解放した諸国との格差が浮き彫りにされドイツは慎重にならざるをえず、そこで段階的な規制緩和になります。
低学年の子どもを抱える若い母親と仕事の休憩時に話す機会があります。「子どもが学校で長時間マスクを強制されるのは、見ていても耐えられない。子どもへの大変な(精神的身体的-筆者注)負担であるから、すぐにも規制は解除してもらいたい。また言葉は、顔の表情から学んでいくものである」と。
こんな内容の話を聞きながら、しかし、オミクロン感染のいってみればホット・スポットが学校現場になっている現状を顧みれば、「では、どうするのか」という反論が私にはあり、日本でした自分の公衆衛生経験を話します。さらに感染症状が軽症に進んでいるとはいえ、〈Long Covid〉の長期にわたる影響も予測され、そういう議論がすでに専門学者の間で議論され始めています。最後は、各国の教育、文化の違いの大きさに気づかされ、それは当然のこととはいえ、そこからの議論がなかなか進まないことに歯ぎしりしています。
一面では確かに母親の気苦労は理解できますが、他面では母親(両親)の子ども可愛さあまっての心象投影ではないかと思われもするのです。それがまた、子どもへの負担となり接種にきて泣き出す心理的な背景の一つにもなるのではないかと思われてなりません。
以下に単純な疑問を書いてみます。
自分の経験では、接種(注射や飲み薬)などは学校で一括して実施していたはずです。大仰な手間がかからず、費用も低額で済んでいました。「ドイツでもそうだった」と連れ合いは言います。だから、接種を健康上の理由からできない、あるいは個人の意思で拒む生徒は、コロナ・抗原テストを受ければ、子どもたちそして研究室(ラボ)および保健所の負担が軽減できるのではないかと考えるのですが、「それが難しくなっている」といいます。
この言葉のなかに、重要な問題が含まれていると思われ、これを書いています。
一つ言えることは、ここには時代の変化がみとめられます。その基本概念を取り上げれば基本権、自由、個人の権利への意識が変化してきたということでしょう。市民の視点からみれば、個人の自己意識が自立、確立され、強化されてきた過程でもあります。そして今、この用語が、声高に語られます。しかし、元をただせば時代の変化にどう対応してきたのかは深く時間―歴史をさかのぼって議論されることがあまりにも少なく、それが社会の連帯ではなく四方八方に個人の意見が分裂していく現状を招いているように思われてなりません。エゴ意識が生まれてくる背景です。
学校教育とコロナ感染は、子どもと両親の問題でもありますが、現場が政治から見放されているという批判の根本は、実はこのあたりにあるのではないかと考えています。
年齢が下がればさがるほど、授業前の自分でのテストを嫌がります。大人でもそうですから、それは理解できます。現在、ヘッセン州の学校では2日に1回(週に3回)のテストが義務づけられています。さらに陽性反応が出た場合はPCR検査の必要性が出てきますが、ドイツの現在のPCRテストの許容数は週に250万件で需要に追いつきません。そこで高齢者、医療・介護関係者、そして基礎疾患を持つ人たちに優先権が与えられ、一般市民、子どもたちへのPCR テストは後手に回ることになり、「見放されている」状態に陥ることになります。
この問題の解決に向けてはオーストリアのケースが、一つの参考になるのではないかと思われます。鼻やのどの綿棒による検査を避けて唾液による試薬キットが開発され、これによってオミクロン株の感染も摘発できるといわれています。一括した検査と分析結果が可能になり、ラボと保健所の負担は軽減され、デジタルによる感染経路の追跡もシステム化されてきます。ドイツの現在のPCR検査料金は、自己負担する場合が50~60ユーロですから、安上がりになります。
これによってオーストリア市民の社会への参加活動は、活発になっていると聞いています。
なぜ他国の経験から学べないのか? 答えは簡単です。検査方法を変えることによって出てくるラボの経済的損失を避けるためには、従来のシステムに固守しなければならないからです。2年前のコロナ発生当初にも同じ問題がありました。すでに書いたように時間と手間、そして費用のかかるPCR検査の必要性を残しながらも、なぜ試薬キットによるスピード・テストを導入するのに長い時間を費やしたのかは、ラボの抵抗のあったことから明らかです。今回も同じ轍を踏んでいます。
これはあくまで私たちの個人的な見解にすぎませんが、的を外してはいないと思われます。
もう一度言いますが、ドイツはこの2年間に何を学んできたのか?
はっきりしてきているのは、公共の医療・健康をめぐっては、市民の生命を秤にかけてあちこちに資本(製薬企業)と医療施設の利権が張りめぐらされているということです。それが現在の〈経済システム〉という意味です。
次に、経済利益と市民の健康という問題を、ギリシャの例からもう少し具体的に検討してみます。
EU諸国のなかでギリシャは、現在、もっともCovid-19感染による死亡率が高いといわれます。それを紹介しているジョンズ・ホプキンズ大学の資料(注)によれば、1月初旬から感染数は低下してきているが、他方で、死亡率が高くなっているといいます。統計で見れば1月末から2月初めの2週にかけて100万人当たりの死亡者数はギリシャで141人になり、それを上回るEU 諸国はブルガリアの167人、クロアチアの182人、ドイツはそれに比べて22人となっています。
その原因にギリシャの保健大臣は、高齢化を指摘しています。全人口の23%が65歳以上の高齢者が占め、加えてまだ多数の高齢者が接種を受けていないのが現状です。その結果が2月の第1週にコロナ感染で亡くなった人の70%が、70歳以上の高齢者だったとエピデミック学者は語ります。
(注)Frankfurter Rundschau Mittwoch,9.Februal 2022
以上は、厳とした現実です。問題は、医療制度が本来の重要な使命の一つに挙げる高齢者、基礎疾患を持つ人たちの救済と援助、そして治療活動が不可能な状態になっていることです。ではなぜ、公共の医療制度が崩壊してしまったのか。
ギリシャ国家財政崩壊――ユーロ危機を受けて2010年から始まったドイツ主導の「緊縮財政政策」が今の現状をもたらしたことが、今にして明らかにされます。当時のドイツ首相メルケルと財務大臣ショイブレ(ともにCDU)は、ギリシャ財政の絞れとれるところは無慈悲に絞りとり、その後8年間はこうして財政緊縮を強いられました。当時、メルケルをヒトラーになぞらえたプラカードが市内の集会、デモで掲げられたのは皆さんも目にされ、記憶に新しいはずです。
日常生活面といわず公共機関、特に医療・病院関係では治療に必要な包帯、ゴム手袋、注射器等が不足していきます。また医療器具の手入れ・検査もなされず、医師たちは国外に流失していきました。
この状況は今日に至っても回復することなく、集中治療ベッド数を人口10万人当たりで比較するとギリシャは7、ドイツが35、オーストリアが26になると、ギリシャ医師会のメンバーが死亡率の高い背景を指摘しています。
「ショイブレには経済が理解できない」と反対したポルトガルは、緊縮から公共投資に切り替えた政策で、コロナ禍のなかで「ヨーロッパのオアシス」を実現し、2022年1月31日に行われた選挙では40%強の得票率で、首相アントニオ・コスタ(社会民主主義党)が再選を果たしています。
ドイツと連携したIMFの経済学者(Olivier Blanchard)は、この誤りを今になってやっとのこと認め、次のように語っています。(注)
「緊縮政策が及ぼす景気そして労働市場へのカタストロフィーな帰結を過小評価していた。」
(注)Frankfurter Rundschau Donnerstag,17.Februal 2022
この記事を読みながら、数十年も前から言われだした「経済学の終焉」という言葉を思い出していました。金融・財政機関が救済される反面、市民の生命と経済生活はカタストロフィーに陥れられる経済学とは何か? しかも、その経済政策の結末を見通せない経済学が未だにはびこっていることこそが、現代の最大のカタストロフィーというべきでしょう。
さて、私たちの日常ですが、ここにきて身近な人たちの感染が見聞されるようになってきました。2年間友人、知人、親戚、仕事関係者等の誰からも感染の報告が聞かれることなく、「このまま、もうしばらく!!」と注意を怠ることはなかったのですが、1月末頃からどこで、どう感染するのか、「ポジティブになった」という連絡が入ってきます。
一方でオミクロン株の感染爆発はピークを越し、1週間前から感染数の低下傾向が示されながら、他方で周囲に注意を払いながらも、次からつぎに「ポジティブ」になっていく現状が今のドイツといっていいでしょうか。
しかし、接種キャンペーンは進みません。否、むしろ後退しているというか、接種から遠ざかりつつ距離を置き、このまま静かにコロナ以前の生活に戻ることを期待しているような節が認められ、現在の危なさは、実に、ここにあるように思われてなりません。
〈コロナは、まだ終わっていない〉ことへの確認が、政府、専門学者から呼びかけられます。差し当たり3月15日からは医療・介護関係者への接種が義務付けられます。昨年の12月に国会で決議された法案です。
その直前になってバイエルン州(CSU党首Markus Soeder)は、「従えない」と法案実施にストップをかけ、しかも一部の州政権を握るCDUからもそれに同調する声明が出され、政治は混乱してきます。
ここにはいくつかの重大な問題が指摘されます。
1.自らも投票参加した国会決議を、いとも簡単に反故にできるのかという、民主主義手続きをめぐる問題です。さらに、一党派の利害絡みで法案実施を拒否することは、議会制民主主義の破壊につながります。メディアからは、「ポピュリズム、コロナ規制反対派にエールを送るもの」と批判され、更に憲法学者からも批判見解が出され、その後両党はトーンを落としてきているとはいえ、政治混乱と社会分裂は避けて通れなくなってきました。
2.なぜ、CSU/CDUが批判を承知で単独決定に踏み込んだのかという背景ですが、今年3月から始まる4つの州議会選挙を控えて、政府のコロナ規制と接種義務に対抗することによってポピュリズムの集票を見越しているからです。社会を分裂させることによって、自派のポジションを確保するためです。
3月27日ザーランド州、5月8日シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州、5月15日ノルト ライン・ベストファーレン州、そして最後に10月9日ニーザーザクセン州と立て続けに日程が入っており、事前選挙予想(注)ではSPDが頭一つ抜け出るか、あるいは横並びの接戦になっていることからCDUの苦戦が予想されています。緑の党は15~18%ですから、昨年の連邦議会選挙と同様な結果が予想されます。
(注)アンケート調査機関には保守派、リベラル派、左派の色合いがはっきりしていて、 調査機関間の相互批判も公然化しています。従って、あくまで一つの指標にすぎません。
〈信号連立政権〉に対する戦略・路線論争を仕掛けるのではなく、CSUの存在意義を示さなければならない状態に陥り、バイエル州の「国家中国家」を印象づけることです。コロナ禍2年間にCDUにさえ対抗したCSUの単独行動が目立っていましたが、それにCDUが歩調を合わせなければならないほどに政権への執着の強い両党の危機意識が強まってきていることの一つの証左だといっていいでしょう。
これが一面だとすれば、別の面はCDU/CSUは各州でSPD、緑の党、FDPとの連立政権を組んでいることから、単独行動に足枷がはめられています。CSU 党首が大風呂敷を広げてみても、中身は空っぽといういつものパターンが繰り広げられているのですが、その社会的影響力には細心の注意を払う必要があります。
3.ここでその根拠らしきものを取り上げて検討してみます。しかし、この問題は一党に限らず社会全体に当てはまる事柄だと思われます。以下に要点を整理してみます。
・感染のカーブが下降傾向を示している
・集中治療用ベッドに空きが認められる。逼迫状態が緩和されてきている
・接種を受けない医療・介護従事者が確認されることから、人員に空きができてしまう
これだけを聞けばもっともらしいのですが、ZDF(第二公共放送局)の定時ニュースである シュトゥットガルト病院の医学教授へのインタヴューを聞いていると、問題の本質が別のところにあることがわかります。記憶によりますが、概略以下のような内容です。
「私たち(この病院-筆者)は、この1年間議論を重ね、結果は100%の接種率で、医療従事者の確保ができている」
接種義務によって従事者が職場を去らなければならないのではなく、コロナ禍のなかで心身ともに過酷な労働でストレスを抱え込んだ医療従事者を守るためのどのような対策がとられてきたのかと、労働現場に目が向けられなければならないのです。
正確な賃金は知りません。しかし労働の量と質に比べて低賃金であるのがわかります。90年代に知り合った看護師さんたちの多くは韓国、フィリピン等東南アジアからの人たちが占めていました。その後どのような変化があったのか、東ヨーロッパ出身者が目につくようになってきました。
ドイツ人からは敬遠されていた職業といっていいでしょうか。魅力がなかったからでしょう。
その問題がコロナ禍で暴露されたように思われます。
病院の倒産、統廃合が進み、そして医院の経営も困難になってきます。90年代から2000年代にかけてのことです。
このとき、公共投資から資本投資へのドイツ経済の構造転換がありました。一人ひとりの市民と医療従事者への公共による健康管理制度ではなく、資本の利益を追求する大規模なモンスターができ上ることになります。人と人の人間関係に代って市民が金の卵を生む患者として、また医療従事者は集金マシーンの一部の作業員とし組み入れられていきました。
医療・介護施設からは、声高に人材不足が語られ、接種義務はそれをさらに悪化させるものだと反対の声が上がります。CSUは、これにポピュリズムよろしく対応したものだと思われます。
私が聞きたかったのは、中央政府への正当な批判と同時に、そういう状態をもたらしている、あるいは組み込まれている現制度への各州の政治責任をとらえ返すことでした。
なぜなら、健康管理は各州の権限になっているからです。こう考えると、CDU/CSUの接種義務をめぐる今回の対応は、己の無能をさらしたにすぎないといえるのです。
(つづく)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion11778:220222〕
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