アレクサンドロス大王とはどういう人物だったのか-『プルターク英雄伝』から
- 2022年 7月 1日
- カルチャー
- 合澤 清
『プルターク英雄伝』(9)プルータルコス著 河野与一訳(岩波文庫1956・1972)
最初に、著者(プルータルコス)について簡単に紹介する。
「プルータルコス/ボイオーティアーにあるカイローネイアの人。トラーヤーヌス帝の治世もしくはそれ以前に生まれた。トラーヤーヌスはこれにコーンスルの位を授け、イルリュリアの知事がこの人の意見に反して事を行うことはならぬと命令した。著書は多い。」(本『英雄伝』(1)より)
「ローマ時代のギリシアの著述家(46頃~125頃)で、プラトーンの流れをくむ。ボイオーティアーの住民は古来「ボイオーティアーの豚」と呼ばれて貪食と粗暴の性を嘲られていた。」(「広辞苑」)
岩波文庫に『プルターク英雄伝』という非常に有名な本がある。これまで世界中で一番多く読まれた歴史関係の本だといわれている。しかし、いざ手にとって読もうとすれば、そのあまりの大部さに驚き、決意が簡単にくじけそうになる。なんと文庫本で全12冊にのぼる。
よほどの暇人か、根気強い人か、歴史好きか、いずれにせよ生半可な心がけではなかなか読み通すことはできない。
その中身も、率直にいえば、起伏に乏しくてマンネリな記録(伝記)でしかないと思える個所が間々ある。司馬遷(前145~前86)の『史記』の中の「列伝」と比べれば、読み物としてはやはり格段に落ちるのではないかと少なくとも私には思える。
しかし、この9冊目に関しては違っている。ここに取り上げられている二大英傑は、一人はマケドニアの大王アレクサンドロス(アレキサンダー)であり、それと比較されているのがかのローマ帝国の独裁者(ディクタトル)カエサル(シーザー)である。
この『英雄伝』の特徴は、時代を異にする(例えば、ギリシア時代とローマ時代の様な)人物を、それもその功績や人物像などが似通った両雄を選んで比較し批評する点にある。そのため、わざわざ二人の伝記を述べた後に、著者の講評が書かれているのである。この時代にはこういう比較がよく流行ったらしい。この分冊でもアレクサンドロスとカエサルが著者によって比較考量されるはずだと思っていたのだが、豈図らんや、ここではそうなっていない。プルータルコスの手に余るというのか、それとも恐れ多いということなのか、…。
そのかわり、時代をほぼ同じくし、当人たちと多少とも見知っていた二人の人物(一人は、少し時代がずれてはいるがフォーキオーンを、もう一人は同時代の敵対的批判者小カトー)を登場させて、それらの人たちの生きざまを通して評価するという手法をとっている。現代風な「客観主義」的なやり方といってもよいのだが、実際には著者は、どうもカエサルを心情的に嫌っていたように思える。
ただし、今回はカエサルについては触れるつもりはない。愚直な小カトー(祖父の大カトーと比較されてこう呼ばれるのであるが)に比べ合わせてみると、確かにあまりに政治家的で、権謀術数にたけている印象が強い。カエサルが「癲癇症」(今では、精神分裂質の一種と言われているようだが)だったこともその一因かもしれない。
この時代の戦争とは「略奪」である
この時代の戦争は「略奪」を事としたものである。戦利品として相手の将軍の身につけた装飾品、武器、金銀財宝の類はもちろんのこと、食料品なども現地調達(すべて相手から奪い取る)であり、だからこそ、敗北すれば、飢えと怪我、収穫も評判も失いかねず、実にみじめな思いをする羽目になる。
勝利は、大量の戦利品、相手方の住民(兵士も含む)を奴隷として確保した上に、若い女性(敵軍の王や将だった人の夫人や娘たちであっても)は自分たちの妾にするか、女奴隷として売り飛ばすか、…従軍兵たちは、途中で豊かな国を略奪した時には、大量の戦利品を奪い、そのままその場で酔いしれたり、運搬に手間取ったりして軍隊の前進が大幅に遅れてしまうという、なんとも滑稽な事態も起きたそうである。
この女性問題に関して、アレクサンドロスは実に潔癖だったと伝えられている。カエサルのころでは、日本の戦国時代などと同じように、女性は自分たちの立身出世か勢力拡大のための手段とされていた。たとえ、その女性に子供があろうとお構いなしで、政略結婚による姻戚関係作りが大ぴらにおこなわれている。
アレクサンドロスとはどういう人物か
マケドニアのフィリッポス王とオリュンピアスの子供で前356年の生まれ。生誕の前ごろから様々な伝説に彩られている。ヘラクレスとアキレウスの血を受け継いでいるとか、等々。
少年時代に、父親のフィリッポス王が一頭の荒馬を獲得したが、誰もそれを馴らして乗りこなすことができなかったという。何せ、顔が牛の様であり、体もそれ相応に大きかったため、家臣たちがいくら挑戦しても振り落されるか、後足で蹴られるのが関の山だった。どうしたものかと悩んでいたとき、傍らのアレクサンドロスが可笑しそうに笑うので、父王が「お前は乗れるのか」と聞いたところ、「やってみましょうか」といって、馬のそばに行き、馬の顔を太陽の方向に向けて、自分の影を見せないようにしたうえで、見事にそれを乗りこなしたといわれる。これが彼の愛馬「プーケファラース」(牛の顔をした馬)である。ペルシャ戦争にもこの愛馬にまたがっていたが、途中で老衰死している。
父王はアレクサンドロスの頭にキスをしながら「お前はどこにでも好きに自分の国を作りなさい。マケドニアにはお前を入れるところはない」といったという。
この子の家庭教師が、かの有名なアリストテレスだったことは、今では遍く知られている。
その影響がどれほどのものだったのか、この書によるとアリストテレスが自然学の本を書いたということを伝え聞いたアレクサンドロスは、さっそく師に手紙を送り、自分が習ったことが一般に知られることに抗議したといわれている。アレクサンドロスが自然学に興味をもっていたのは、アリストテレスの強い影響があったせいだろうともいわれる。しかし、後年になり、彼らは仲たがいしたとも伝えられている。
哲学者との交流で、もう一つの有名な逸話は、次の話である。
「ペルシャ遠征が決議された時(前336年)、大王は当時コリントスの辺で日を過ごしていたシノーペーの人ディオゲネース(実は樽ではなくて、陶器の大甕に住んでいた)を訪ねた。相手はアレクサンドロスをまるで問題にせず、クラネイオン(体育場)に悠々と日向ぼっこをしていた。そこに大勢の人がやってきたので、ディオゲネースはちょっと身を起してアレクサンドロスをじっと見た。アレクサンドロスはこれに挨拶をして、何か頼みはないかと聞くと、『ちょっとその日の当たるところをよけて下さい』といった。それを聞くとアレクサンドロスは非常に打たれ、自分が無視されたのに相手の誇りと偉さに感服し、『私がもしアレクサンドロスでなかったならば、ディオゲネースになりたい』といった。」
彼が、ペルシャを経てインドまで遠征したことは広く伝えられているが、中国へ足が向かなかったのは少々残念な気もする。このころの中国は、戦国時代と呼ばれ、戦乱に明け暮れている。
アレクサンドロスは「幸運に恵まれた人」だったともいわれている。彼は戦の最中に何度も深手を負い、インドでは危うく死にそうなぐらいの大怪我をしている。ポンペイで発見されたといわれる有名なモザイク「イッソス合戦の図」でみられるように、馬上で槍を構えて敵の王に肉薄する、あの迫力ある姿は、まさに「軍神」アキレウスを彷彿させるほどに勇ましい。命をやり取りする戦争を楽しんでいるように思える。しかしその半面で、次のような文化交流もやっている。
「インドの哲学者カラーノスは、アレクサンドロスに支配の方式を示したといわれている。それは、目の前に一枚の渇いて固くなった獣の皮をおいてその端を踏んだ。するとその皮は一か所では抑えられるが、他の部分は持ち上がる。そうしてぐるりを回ってところどころを踏みつけてはどうなるかを示し、最後に真ん中に立って抑えると全体が落ち着いた。この比喩はアレクサンドロスが支配の中央を踏みしめて遠くまでうろつかない方がいいということの証明にするつもりであった。」
またアレクサンドロス大王の特徴として強調されているのは、いったん戦いに勝利した後では、敵方およびその捕虜に対して非常に穏和だったということ。これは自分の部下に対してもそうである。また非常に自己抑制が強く、捕虜にしたペルシャの女性たちに対して、全く丁重な扱いをし、またそもそも女性関係も自己の欲望を押えたものだった。「(美しい)ペルシャの女は目の毒だ」といったといわれる。ペルシャの王ダーレイオスが『もしペルシャの支配が止んだとすれば、キューロスの王座にはアレクサンドロス以外の人が座らないようにして下さい』と神に祈ったといわれる。美食の癖を押え、果物や魚も仲間の一人一人に分けて食べた。しかし酒のときには自慢話でうるさがられたそうだ…。
この時代、ペルシャの方がはるかにギリシャ文化よりまさっていたらしいのは、アレクサンドロスが、ダーレイオスに勝利した後、その陣屋(テント)に入りその豪華さに、『なるほどこれが王の生活というものだ』といったことからわかる。
アレクサンドロスは、ペルシャ文化の簒奪者ではなく、その継承者であるという話はイスラム史の研究者から何度か聞かされたが、この話と符牒があっている。まさにヘレニズム文化創設に多大な貢献をしたと言えるのかもしれない。
アレクサンドロスの勇敢さを示す逸話は数え切れずにあるが、次の話も名高い。
「ダーレイオスが100万の大軍をもって向かってきた折に、策略に頼らず、正面から戦う戦術を取ろうと考えていった言葉。戦いには策略も正面戦も必要である。アレクサンドロスはあの有名な『私は勝利を盗まない』という言葉を放った。」
これは、今では「一点突破、全面展開」戦法というべきか。
その克己心の強さを表わしているのは、…
「(兵士が勝利に驕っているときに、それをたしなめて)あれほどの数の激しい戦いを行ってきた人々なのに、労苦によって征服したものの方が労苦によって征服されたものより気持ちよく眠れたことを忘れてしまって、ペルシャ人の生活と自分たちの生活とを比較しながら、贅沢が最も奴隷的で労苦が最も王者的だということを知らないとは不思議だといった。『自分の大事な身体を自分の手で触れる習慣を捨てたものが、どうして自分で馬の世話をしたり槍や兜を手掛けることができよう』『征服された人々と同じようなことをしないのがわれわれの征服の目的だということを諸君は知らないのか』」
最後に私自身の感想を述べさせていただいてこの小論を締めくくりたい。アレクサンドロスは、秦の始皇帝(前259~前210)よりもさらに100年ほど前の時代の人である。その伝説化された人となりは、非常に勇壮であり、またなかなか人間味にあふれている。「学問の祖」といわれるアリストテレスがその家庭教師として教えていたということも、これ以上望めないぐらいに恵まれていると思うが、それでも彼は「戦神」だったと思う。果てしない征服欲にかられながら、砂漠を超え、ガンジス川まで行きついたのである。
面白いのは、集団結婚により、ペルシャ人とギリシア人の混血(民族融合)を図ったといわれることである。今日、トルキスタン東南部あたりに「イスケンデル」を名乗る家柄があるという。これは、アレクサンドロスがなまって発音されたものと言われている。つまり、彼らはアレクサンドロスの子孫なのである。
2022.6.30記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture1090:220701〕
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