「ヒロシマの痛みを再現したい」 原爆の絵を描き続ける元電器会社ドイツ駐在員
- 2022年 8月 3日
- 評論・紹介・意見
- 原爆西村奈緒美
広島が8月6日に78回目の「原爆の日」を迎える中、「一人ひとりの不条理な死にこだわりたい」との思いで原爆の絵を描き続ける男性(93)がいる。きっかけになったのは、被爆者が描いた3千枚もの絵だった。
その男性は奈良市に住む河勝重美さん。1929年に東京で生まれた。4人のきょうだいの三男。長男は学徒出陣し、戦病死した。両親は生きて帰ってほしいと百度参りを重ねたが、かなわなかった。
自身は旧制中学を卒業後、上智大学で経済学を学んだ。ドイツの大学で博士号を取得後、松下電器産業(現在のパナソニック)に入社した。松下電器が欧州初の拠点をドイツに設けることになり、ドイツの駐在員を30年ほど勤めた。
原爆に関心を寄せるようになったのは、17年前のある出来事がきっかけだった。旧制中学の級友だった岡田悌二(ていじ)さんから相談が舞い込んだ。国立広島原爆死没者追悼平和記念館が呼びかけている被爆の体験記に自身の体験談を送るので、独語の翻訳を受け持ってほしいという頼みだった。
左端に立つのが河勝重美さん。後景の絵は河勝さんが描いた原爆の絵(河勝さん提供)
岡田さんとは長い付き合いだったが、原爆について詳しい話を聞くのは初めてだった。2005年は原爆投下から60年が経とうとしていた。半世紀以上の月日を経てようやく語ろうとする級友の姿に心を揺さぶられるとともに、原爆がもたらす終わりのない苦しみを知った。
岡田さんは1945年4月、父親の転勤で広島に転校した。学徒動員のため、爆心地から3㌔ほど離れた工場で働いていた時に被爆。原爆が投下された午前8時15分は工場の外で作業をしていたといい、当時の様子をこう振り返った。
「強烈な青白い光線と熱波、激しい爆発音と爆風とその揺り戻しを全身に感じた」
自宅は全焼していたが、両親は無事だった。家族で避難すると、体調が悪化した。
「両親は髪の毛が抜け、皮膚の毛細血管が破れ、全身にシミが出るようになった」
「当時、原因がわからないままポックリと突然死する『ポックリ病』が言われていて、被爆で突然死するとわかった」
生と死が隣り合わせの世界。
「我々は幸い助かったものの、明日をも知れない心細い思いをした」
岡田さんは原爆を「悪魔の兵器」と呼ぶ一方、こうも訴えた。
「若い人たちは原爆の残虐性についてよく知らなければいけませんが、アメリカの非難のみに終わらず、世界全体が平和に生きていける体制を作ることが大事です。そのためには、世界の若者が交流して理解を深め、戦争や原爆について話し合えるようにすることが必要です」
翻訳後、岡田さんの体験記を独語で読んだというドイツ人の知人から思わぬ反応があった。「原爆が広島と長崎に投下されたことは知っていたが、こんなにも残酷なものだとは知らなかった」
原爆の実態を世界にもっと伝える必要があるのではないか。河勝さんは原爆について調べようと、広島平和記念資料館を訪ね、資料を集めることにした。
資料館には被爆者が描いた絵3千枚が保存されていた。川に折り重なる無数の遺体の絵もあれば、手や足が焼けただれ、目玉が飛び出て垂れ下がる絵もある。寄せられる絵は今も増え続け、5千枚を超える。
資料館に何度も通ううち、河勝さんは被爆者が描いた絵を見てもらうことが、原爆の惨状を訴えることになると考えるようになった。被爆者が描いた絵のデータのうち、2300点分を利用申請し、絵を整理していった。これらの絵をまとめた本を出版できないかとドイツの出版社に打診したところ、とんとん拍子で出版が決定。刊行を引き受けた出版社の社長は本を世に出す意義をこう語った。
「被爆者が七転八倒して苦しんだ絵や文章を見て、何としてでも出版しなければという思いにとりつかれた。広島で何十万人が死んだというような数字の検証、記録、写真や軍(主に米軍)の報告書は、娘の焼死体の傍らで呆然と立ち尽くす両親の極限の悲しみの絵の前には何の説得力もない」
2年後には日本語版を出版し、その後、英語版も出版。ロシア軍のウクライナ侵攻を受け、ロシア語版のデジタル書籍も予定している。
本のタイトルは『原爆地獄』。編集には河勝さんと岡田さんに加え、旧制中学の級友だった工業デザイナーの栄久庵憲司(えくあん・けんじ)さんも加わった。栄久庵さんもまた、被爆によって父と妹を亡くしていた。栄久庵さんは本に収録された「私とヒロシマ―父と妹の死」の文章にこんな一文を寄せている。
「十数万人が一度で命を失い、数十万人が被爆し、いまだその被害に苦しんでいる」
岡田さんと、栄久庵さんはすでに他界している。
被爆者が描いた絵と向き合ううちに、河勝さんは「広島の痛みを再現したい」と考えるようになった。「言葉よりも視覚に訴えた方が効果的ではないか」。そんな思いも募った。それで、自分も原爆の絵を描いてみようと思い立った。
河勝さんの絵に登場するのは、無数の市民だ。「市民は歴史の中で埋もれてしまう存在」。河勝さんは原爆の惨劇を目の当たりにするにつれ、そんな思いを強くしていった。
ある日、ドイツ軍の無差別爆撃を受けたスペインの都市、ゲルニカで自分の原爆の絵を展示したいと思いついた。1937年、自治政府が統治していたバスク地方の聖地ゲルニカを史上初の無差別爆撃とされる空爆が襲った。民衆を標的にした空からの無差別殺戮のさきがけとされ、パブロ・ピカソが怒りの絵筆をとって大作『ゲルニカ』を描き上げた。
広島とゲルニカ市は同じ運命をたどった都市として、広島市長と広島平和記念資料館の館長が2018年にゲルニカ市を訪れ、原爆の焼土から芽を出した木の苗木を贈呈し、友好関係を結んでいた。
資料館の関係者に相談したところ、シンポジウムで来日するゲルニカ市の実業家を紹介してくれた。原爆の絵をゲルニカ市の市民に見てほしいと伝えると、市の担当者に掛け合ってくれた。
今年4月、ゲルニカへの空爆85周年の記念事業の一環としてゲルニカ市のカルチャーセンターで河勝さんの絵が展示された。炎に追われる人▽燃える原爆ドーム▽死傷者の顔など6点で、どれも見る者に原爆による苦しみを訴える。
今年は原爆投下から77年を迎えるが、核軍縮を取り巻く環境は厳しい。
2月に起きたロシアによるウクライナ侵攻では、プーチン大統領が演説で「ロシアは世界最強の核保有国の一つだ。我が国への攻撃は侵略者に悲惨な結果をもたらすのは誰も疑わない」と米欧に警告。戦略核の部隊を特別態勢にし、「核の脅し」を続けている。
6月には核兵器禁止条約の第1回締約国会議がオーストリアで開かれ、日本からも被爆者や高校生の平和大使が参加したが、日本政府は核保有国が不参加であることを理由に参加しなかった。
河勝さんは「『平和』という抽象的な概念には言葉のむなしさがある」と語る。個々の苦しみや痛みを引き受けようとするからこそ、戦争は絶対に繰り返してはいけないという怒りにも似た感情がわき上がってくるのだという。
無差別攻撃を受けた一人ひとりの不条理な死を忘れない――。河勝さんはそんな思いを胸に、今度は長崎の絵を描こうと構想を練っている。
<西村奈緒美(にしむら・なおみ)>横浜国立大学大学院を修了後、時事通信社に入社。2013年に朝日新聞社に移り、奈良総局や東京本社社会部を経て、2021年から新潟総局。
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