わたしと戸籍 ― 「戸籍」私史(その5)
- 2022年 8月 3日
- 時代をみる
- 戸籍池田祥子
子どもの居る暮らし
(1)緊急課題としての私の「働き口」
指導教官のいきなりの「堕ろせ!」という恫喝に、私は反射的に抵抗した。ただの天邪鬼だっただけかもしれないが、その時、胎内でしっかり生きている生命は、何としても守りたいと思ったのは事実である。
それにしても、私が大学院まで行ったのは、研究者あるいは大学の教員になりたいと思った訳ではない。私が、戦後直後に経験した「学校」の気ままさ、楽しさ、それでいて真面目な探求・・・それが何故、10年ばかりの間に「窮屈な学校」に変貌したのか・・・それを歴史的かつ理論的に研究したいと思ったからである。
その意味では、偶々「主義主張」が似通っていた指導教官ではあったが、行く行く就職を頼む、という気持ちは殆ど私の中にはなかった。論争するのはもちろん、喧嘩も恐しくはなかった。とりわけ大学闘争が始まって以来、研究会の席上でも、互いに本気で言い争いをした。ただ、正直に言えば、私の気持ちの底の底の方では、どこでもいいから就職先を紹介してくれればいいな・・・という甘えた淡い期待?気持ち?は皆無ではなかったのだ。
それが、今回の妊娠・出産を受け入れた時、私ははっきりと指導教官との繋がりを断ち切ったと思った。
それは、私にとっては潔いことではあったが、だが一方で、私の「働き口」はどうする?という問題に直面することになった。今さら、小学校の教員になる気はなかった。その時思いついたのは、これまた指導教官に連れられて出かけた幼児教育・保育の研究会。そこで出会った幼稚園・保育園の園長や主任さん、保育者。また、真面目だがやや不満足な議論・・・。「そうだ、保育園の保母になろう!」
保育の養成校に行かなくても保母の資格が取れる道。それは東京都の社会人向けの試験である。年に2回。科目は、教育学、社会事業論、栄養学、心理学など、実技のテストは、ピアノ、絵本の読み聞かせ、唱歌、図工などだった。
敗戦2年前生まれの私たちの世代は、教室にオルガンはあったものの、ピアノは講堂に1台、が普通であった。音楽の教科書の最後に、折り畳まれた紙鍵盤が付いていて、音楽の時間は、それに指を合わせながら声を出して歌ったものだ。
さて困った!「ピアノ」はどうしよう・・・と思っていた時、当時アルバイトに通っていた江戸川区の保育園付設幼稚園で、「イトージョシが保母試験を受ける!」と噂が広まり、そこの絵画教室講師の若い男先生が、「姉の古いオルガンがありますよ」と親切に譲ってくれた。
当時のテストの条件「ピアノ」は、「バイエルの70番以上、自分で選ぶ」というものだった。ところが、私が受験した2,3年後からは、「バイエルの70番以上。どれを弾くかは審査員がその場で指定」というように変えられた。これは決定的に違う。審査員に指定されてその場で弾くということは、70番以上をほとんどこなしていなければならない、ということだ。ラッキーだったと言えばいいのか、狡いと言えばいいのか・・・ともかく私は73番だったか、一曲だけを一生懸命練習して、試験の本番に臨んだのだった。
大きなお腹をして、ブカブカ音を立てていたのだが、よく近所から苦情が来なかったものだ(消音機能は付いていなかった)・・・世の中が、未だガチガチしていなかったお蔭であろうか。
「3年間の内に全科目をパス」というのが「保母資格」取得の条件だったように記憶している。ヨシ、一回ですべてをクリアするぞ!と一人で豪語していたのだが、蓋を開けてみると、ピアノもその他の実技もパスだったのだが、教科の「教育学」と「社会事業論」の二科目が不合格だった。
「社会事業論」の不合格は自分でも準備不足ゆえ、と納得できた。しかし、「教育学」が不合格とは・・・少々恥ずかしくもあった。だが、よくよく振り返って見れば、左翼学生だった自分の不遜ゆえだ、ということは分かって来た。ルソー、ペスタロッチなどの教育思想、さらには実験的な要素の強い教育心理学など、本気で勉強していなかった報いである。
こうして、保母資格取得はもう一年、2科目合格まで据え置きとなった。
自分の次の仕事の目途を付ける前に、何と赤ん坊が先に生まれて来るではないか!
(2)自分の子どもの保育をどうする?
保母資格は未だ取得途中。それで幸か不幸かフルタイムの仕事には就いていない。それでも、わずかな手当てが支給される江戸川区の幼稚園のアルバイトは貴重である。
しかも、そこでの仕事は、「1年間の保育者の実践記録をまとめる」というものだった。保育者の提出してくれる資料をまとめて持ち帰り、自宅でも仕事はできるのだが、週の2,3回は、職員会議その他の会議にも出席することが求められていた。
当時(1970年)、0歳児保育は稀有だった。公立保育園はほぼ満1歳児からの保育が通常だった。そのため、区立保育園を定めて、その近くに転居することも計画中だった。
私の子どもは3月30日生まれ。1歳の誕生日を迎えた2日後に、保育園の「1歳児クラス」に通えるのだ。もちろん、そのためには、事前に申し込みをし、審査も受けて、入所審査にパスしなければならない。それはそれで大仕事なのだが、その前の1年間、たとえ週に2,3回だけだとしても、乳児を連れてアルバイト先に行く訳にはいかない。本当に時たま、それも長くて4,5時間くらいは、夫の姉や母に見てもらうことは可能ではあったが、朝から夕方まで、しかも週に2,3回は無理だった。
お金を払って、在宅保育をしてもらえる「保育ママ」の情報も皆無ではなかったが、残念ながらそれだけのお金の余裕もなかった。
今から思えば、以上のような私の仕事と子どもの保育との折り合いをどうつけていくのか・・・それを夫と話し合った記憶がない。夫は相変わらず、首切り反対、賃上げ交渉、組合づくりなどの「全統一労組」の専従オルグとして、忙しく動き回っていた。だから、「夫に相談しても無理!」と、私も勝手に見限っていたのであろう。
「理解のある妻?」「理解のある夫?」を知らず知らずに演じていた私(たち)も、多くの「性別役割」夫婦とちっとも変わらなかった・・・というのは、今だからこそ分かるのである。
一方、オルガンの件もそうだったが、この0歳児の保育の件も、中野区の私立幼稚園の園長が、どこで私のことを耳に入れたのか、ある研究会の終わった後で、「私が知ってるお寺さんのオバアさんが、子どもを何人か預かってるよ」と教えてくれた。
早速教えてもらった新井薬師のお寺さんを訪ねて、その場でOKをもらったのだった。何とラッキーなことよ、と一人で喜んだ。
それから1カ月余り経った頃だろうか。いつもより少し早めにお寺さんにお迎えに行った時のことだ。「こんにちは~ただいま~」と声をかけても、中はひっそり、人の気配がない。あれ?どうしたんだろう?・・・と上がって行ったら、すぐ左手が台所だった。見るともなく見ると、哺乳瓶にミルクが残ったまま、いくつか乱雑に置かれていた。近くに置かれていた布巾も、汚れを拭いたままのようだ・・・。「何だか、見なきゃよかったな~」と思いつつ、靴を履いて外へ出たら、ちょうど乳母車ごと帰って来るところだった。少し大きな箱車風乳母車。1歳近くの少し大きな子どもたちは、立ったまま縁に掴まっている。
「お帰りなさ~い」と言いつつ私の子どもは?と探すと、何と真ん中に足を伸ばしたまま坐り、重たい頭をう~んと下にくっつけて眠っていた。
「お散歩のついでに買い物もしてきましたよ・・・」と、そのオバアさん、悪びれもせず少し笑みを見せた。見ると、私の子どもの足の上にも、カボチャが1個置かれていた。
このお寺のオバアさんの所は嫌だ!何だか悲しくなった。その夜、夫に相談したのかどうか・・・残念ながら記憶はない。おそらくその日の夜も夫はまだ帰っていなかったのであろう。そのお寺のオバアさんの所以外の保育の場を探さなければならない・・・私が電話をかけて相談したのは、大学の1年先輩の、子育ても少し先輩の友人だったのだ。(続)
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