忘れてはいけない、覚えているうちに(3) 小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<1>
- 2022年 8月 12日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子
今年の4月、私が会員となっているポトナム短歌会の『ポトナム』が創刊百周年を迎え、その記念号が出た。そのついでに、さまざまな思い出をつづったのが、当ブログのつぎの2件であった。
1922~2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)(2)
(2022年4月6日、9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-559b22.html
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-a2076e.html
また、今月は、『ポトナム』百周年について書く機会があった。あらためて、手元にある、これまでの何冊かの記念号や『昭和萬葉集』選歌の折、使用した戦前の『ポトナム』のコピーを持ち出し、頁を繰っていると、立ち止まることばかりである。今回の依頼稿でも詳しくは触れることができなかったのは、1922年『ポトナム』を創刊した小泉苳三(1894~1956)の敗戦後の公職追放についてであった。これまで、気にはなっていたので、若干の資料も集めていた。その一部でも記録にとどめておきたいと思ったのである。実は、2年前にも、故小川太郎さんからの電話の思い出にかかわり、この件に触れてはいる。
小泉苳三、そして小川太郎のこと(2020年12月13日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/12/post-691047.html
私は、1960年ポトナム短歌会に入会しているので、苳三の生前を知らないが、『ポトナム』600号記念(1976年4月)に、図書館勤めをしていたこともあってか、編集部からの依頼で「小泉苳三著作年表」と「著作解題」を発表している。もちろん公職追放の件は知ってはいた。ただ、『(従軍歌集)山西戦線』(1940年5月)の一冊をもって、なぜ、立命館大学教授の職を追われなければならなかったのか。戦意高揚の短歌を発表し、歌集も出版していた歌人はたくさんいたのに、なぜ苳三だけがという漠然とした疑問はもっていたが、その歌集も真面目には読んでいなかった。
苳三の職歴や教職歴をみると、平たんではなかったようだ。東洋大学の夜間部を出て中学校教員の資格を得た後も、養魚、金魚養殖をやったり、朝鮮に渡ったりしている。福井県、埼玉県での中学校教諭を経て、1922年28歳で、京城の高等女学校教諭に赴任、現地で、百瀬千尋、頴田島一二郎、君島夜詩らと「ポトナム短歌会」を立ち上げ、4月に『ポトナム』を創刊している。東京に戻った後も、東京、新潟、長野県での国語科教諭の傍ら、作歌と大伴家持研究など国文学研究、『ポトナム』の運営を続け、1932年、38歳で、立命館大学専門学部の教授に就任する。1931年9月「満州事変」に端を発した日中戦争が拡大する。恐慌は深刻化し、農村不況の中、労働争議が頻発し、弾圧もきびしくなるが、プロレタリア短歌運動は活発であった。『ポトナム』の作品にも、口語・自由律短歌も多くなると、苳三は、プロレタリア短歌もシュールリアリズム短歌も、もはや「短歌の範疇を越える」ものとして排除し(『ポトナム』1931年5月)、坪野哲久と岡部文夫が去っている。1933年1月号において、「現実的新抒情主義」を提唱し、「ポトナム短歌会」という結社の指針を示した。現在でも、結社として、その理念を引き継いできているが、その内容はわかりにくい。要は、短歌は目の前の現実を歌うのではなく、「現実感」を詠んで、「抒情」を深めよということではないかと、私なりに理解している。
戦争が激化し、短歌も歌人も「挙国一致」「聖戦」へと雪崩れてゆくのだが、苳三は、創刊した『ポトナム』、自ら創刊・編集した『立命館文学』や種々の雑誌、NHK大阪放送局などで近代・現代短歌研究の成果などを矢継ぎ早に発表している。1940~42年には、『明治大正短歌資料大成』全三巻を完成させ、近代短歌史研究の基本的資料となり、1955年6月に刊行された『近代短歌史(明治篇)』は、その後の短歌史研究には欠かせない文献となった。短歌史研究上の評価については、『ポトナム』同人の研究者、国崎望久太郎、和田周三、白川静、上田博、安森敏隆らにより、社外からは、木俣修、篠弘、佐佐木幸綱らによっても高く評価されている。
生前の歌集には、①『夕潮』(1922年8月)②『くさふぢ』(1933年4月)③『(従軍歌集)山西戦線』((1940年4月)があり、没後には④『くさふぢ以後』(1960年11月)⑤『小泉苳三歌集』(1975年11月)⑥『小泉苳三歌集』(2004年4月)が編まれた。④は、墓所のある法然院に歌碑建立した際の記念歌集で、①は全作品収録されたが、②③④については抄録であり、⑥は、①~④をすべて収録した上、略年譜、短歌初句索引、著書解題、資料として追悼号や記念号で発表された、和田周三、阿部静枝、小島清、君島夜詩、国崎望久太郎による苳三研究論文が収録されている。さらに、白川静と上田博による書下ろしの評伝も収録された。
いまここで、私の気になる何首かを上げたいところだが、各歌集から一首だけにして、先を急ごう。
①『夕潮』「大正十年」
白楊(ポトナム)の直ぐ立つ枝はひそかなりひととき明き夕べの丘に(朝鮮へ)
②『くさふぢ』「桔梗集 自昭和五年至昭和七年」
わがちからかたむけて為(な)し来(きた)りつること再(ふたた)び継(つ)ぐ人あらむや(書庫)
③『山西前線』「山西前線篇二」
最後まで壕に拠りしは河南学生義勇軍の一隊なりき(黄河々畔)
④『くさふぢ以後』「Ⅲ自昭和二十一年 至三十一年」
ある時は辛(から)きおもひに購ひし歌書の幾冊いづち散りけむ(一月八日)
(続く)
初出:「内野光子のブログ」2022.8.10より許可を得て転載
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