日本軍「慰安婦」の経験とシスターフッドの物語――韓国映画『雪道』が訴えるもの
- 2022年 10月 10日
- 評論・紹介・意見
- 慰安婦森田成也雪道韓国映画
話題の韓国映画『雪道』(2015年、KBS)(https://eiga.com/movie/97463/)を観てきた。現在、ミニシアターを中心に各地で順次上映されている。前評判通りの素晴らしい作品である。テーマは日本軍「慰安婦」であり、強制的に「慰安婦」にされた2人の少女、ヨンエとチョンブンが主人公だ。
物語は、戦争を生きのびておばあさんとなっている現在のチョンブンのもとに、父親を祖国独立に貢献した英雄として表彰するお知らせが役所から届くところから始まる。しかし、彼女は本名のチョンブンではなく、慰安所で親友だったヨンエを名乗っている。父親とはチョンブンの父親のことではなく、親友ヨンエの父親のことだ。なぜ彼女が親友の名前を名乗って戦後を生きることになったのかについては映画の一番最後で描かれる。
チョンブンはその書類を見て、戦中へと思いが運ばれる。1944年、チョンブンは貧しい階層出身であり、母親とチョンブン、そして弟の3人は、裕福な中産階層の家庭に、摘んだ綿などを納品したり、食器類を遠い町に行商したりして生計を立てている。その中産階級の家の、若くて気の強い同い年の娘がヨンエだ。ヨンエはウール製の立派な洋服を着こなし(ウールはこの作品で綿と同じく、2人をつなぐ象徴的役割を果たしている)、みすぼらしいぼろぼろの朝鮮服を着ているチョンブンをいささかさげすんでいる。朝鮮国内の階級格差の問題がここではっきりと描かれている。韓国の立場から「慰安婦」問題を描くとなると、朝鮮と日本との民族的対立に問題が絞られそうだが、この映画はそうではない。
この点は、貧困層を描く際にも貫かれている。貧しいチョンブンの家では、男である弟だけが学校に通い、食事も弟優先であり、チョンブンは唯一の跡継ぎである弟の世話をすることを母親に期待されている。母親はチョンブンにつらく当たるが、内心ではチョンブンにすまなく思っている。
貧困と格差の中にありながらも、それでもまだ平和であった村は戦況の悪化と共に一変する。村の若い男たちは日本軍によって強制的に徴用されていく。チョンブンのあこがれであったヨンエの兄も徴用され、日本軍に連れ去られる。成績の良かったヨンエは、勤労挺身隊として日本に行けば、働きながら勉強できると教えられ、それに志願する。
チョンブンはある日、朝鮮の軍属たちによって真夜中に連れ去られ、同じような目に遭った多くの少女たちといっしょに、満州へと向かう列車の中に放り込まれる。その同じ列車に、勤労挺身隊として日本に向かっているはずだったヨンエも放り込まれる。日本に行って働けるという話は嘘だったのだ。2人を含む少女たちは、凍てつく雪で閉ざされた満州の慰安所へと連れていかれる。この慰安所では、富裕層出身のヨンエも貧困層出身のチョンブンも同じように性奴隷として扱われる。
この映画の一つの大きなテーマは、さまざまな格差と懸隔を超えての女性の連帯、すなわちシスターフッドだ。慰安所での過酷な条件のもとで、ヨンエとチョンブンとの間にあった当初の階級的壁はしだいに越えられていく。隣同士であったチョンブンの部屋とヨンエの部屋とを分けている壁は、2人の懸隔を象徴するとともに、2人のつながりをも象徴している。日本軍兵士にさんざん殴られたヨンエとチョンブンは2人の部屋を分ける壁をトントンとたたき合うことで、お互いがまだ生きていること、生きる意志を持っていることを確認し合う。
このシスターフッドは民族間の懸隔をも超える。この慰安所には日本人「慰安婦」もいる。「慰安婦」問題を描く際はたいてい、日本人「慰安婦」の存在は消されるが、この映画はそうではない。日本人「慰安婦」は将校相手であり、一般兵士相手の朝鮮人「慰安婦」とは違う棟に住まわされている。しかし、ある日、1人の日本人「慰安婦」のお姉さんが、腹をすかしているヨンエとチョンブンのもとにやってきて、将校からもらったお菓子をおすそ分けする。こうして民族の違いを超えた連帯感が彼女たち3人のあいだに芽生える。将校からお菓子をもらえたことは日本人「慰安婦」のささやかな「特権」だったかもしれない。しかし、彼女はコンドームなしの性交を将校に強要されていたため性病をうつされ、その性病が治りそうにないことがわかった時、役立たずになったとして、他の「慰安婦」たちの目の前で平然と兵士に撃ち殺される(もっとも、朝鮮人「慰安婦」たちは部隊が転属する際に、全員が殺される運命にある)。
物語は、戦時と現代とを何度も往復しながら話が進んでいく。この映画が優れているのは、戦時における日本軍の暴虐と、現代韓国が直面するさまざまな問題とをオーバーラップさせていることだ。戦後ずっと一人で生きてきたおばあさん(チョンブン)は最貧困層であり、半地下のアパートで暮らしている。隣には、親がおらず一人で生きている17歳の少女ウンスが、おばあさんの部屋から電気を盗んでひっそり暮らしている。おばあさんは、自分が慰安所に入れられた時の年齢と変わらぬその少女のことが気になってしょうがない。
学校から愛想をつかされ、公的福祉からも取りこぼされて一人で生きているウンスは、おせっかいな隣のおばあさんに反発するが、あることをきっかけに、しだいに心を通わせる。彼女が年齢を偽って風俗店に勤めていたことで業者とともに警察に連行されたとき、たまたまおばあさんがその場に居合わせたのだ。業者は冷酷であり、生意気なことを言う17歳のウンスを警官の前でいきなり殴りつける(警官はそれを止めず、ただおろおろしている)。それはまさに、慰安所で朝鮮語を話しただけでいきなり殴りつけてきた日本軍兵士と同じだ。おばあさんはその光景にショックを受け、怒りに震えながら「こんな子供を殴るなんて」とその業者の男に飛びかかる。
結局、2人はいっしょに留置所に入れられる。ウンスが思わず「おばあさん、こんなことになってごめんね」と謝ると、おばあさんは「あんたは何も悪くない。悪いのはあいつらだ」ときっぱり言う。味方になってくれた大人が一人もいなかったウンスにとって、この言葉が心に沁みる。
こうして、おばあさんと17歳の少女のあいだで、世代の格差を超えたシスターフッドが成立する。おばあさんは自分の過酷な体験をはじめてウンスに語る。彼女はこれまで誰にも語ったことがなかったのだ。話を聞いたウンスは、「おばあさん、何も恥ずかしがることなんてないよ。悪いのはあいつらなんだから」と言う。おばあさんはこの少女の後見人となり、2人は半地下のアパートで一緒に暮らすようになる。ウンスは再び学校に通い始め、チョンブンもまたウンスの言葉に励まされ、ヨンエとしてではなく、本来のチョンブンとして生きる決意をする。
チョンブンは戦後、ヨンエの名前を名乗ることで、常にヨンエの存在を感じながら生きてきた。ヨンエはときどきチョンブンの前に姿を現わし、励ましたり、怒ったりする。彼女は昔の姿のままだ。しかしチョンブンがウンスと一緒に暮らすようになると、ヨンエは静かに姿を消す。彼女の役割は終わったのだ。今では現実の生意気な17歳のウンスがそばにいる。新しい世代へとバトンが引き継がれたのだ。
この作品のタイトル「雪道」はダブルミーニングである。それはまず、凍てつく雪で閉ざされた満州の過酷な慰安所を象徴しており、そこから命からがら脱出した2人の絶望的な逃避行を象徴している。もう一つは、白い雪のような綿の象徴である。チョンブンが母親と暮らしていたころ、綿の花から綿をとって、それを乾かすために部屋いっぱいに敷き詰めると、降り積もった雪のように見えた。雪は、その時のなつかしい光景を象徴しており、母親が布団に綿を詰めてくれた暖かい思い出をも象徴している。慰安所からの逃避行の途中で、ヨンエが力尽きて雪の中で息を引き取ったとき、チョンブンは泣きながら、「寒いでしょ」と言って、周りの雪をヨンエの体にかけてあげる。その時の「雪」は冷たい雪ではなく、チョンブンにとって思い出の綿だったのだ。1人になったチョンブンは冷たい雪の道を必死で歩きながら、懐かしく温かい綿の待つ故郷へとひたすら急ぐのである。だからそれは絶望と希望の両方を象徴している。
先に言ったように、シスターフッドがこの作品の一貫した(隠れた)メッセージである。ヨンエとチョンブンが雪の中でそっと手をつなぐシーン、おばあさんのチョンブンとウンスとが歩きながら手をつなぐシーン、そしてラストで、幼いチョンブンと母親とが手をつなぎながら家路につくシーン、これらはすべてこのテーマを示唆している。アカデミズムではインターセクショナリティ論が大やはりだが、それはおおむね女性を民族的・階級的・人種的・性的なさまざまな分断線にもとづいてバラバラにするのに利用されているが、なすべきはそれと反対のことであるはずだ。女性の中のあらゆる分断線にもかかわらず、女性は男性による暴力と搾取に抗して、女性として連帯可能である。この映画はそれを描いている。
一つだけ不満を言うと、2人は2回、慰安所から脱出するのだが(1度目は兵士たちによって連れ戻され、2度目は成功する)、その過程がほとんど描かれていない。脱出がそれほど容易だとは思えないので、その辺がもう少し丁寧に描かれていれば、もっとよかったろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion12450:221010〕
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