神代のににぎの命の時が戻ってきた!
- 2010年 6月 9日
- 評論・紹介・意見
- 国家国歌岩田昌征神話
■私の国歌双連一対説
木村三浩氏から正月の八日にTELがあって、私が昔つくった長歌「石狩唱」に関して何か短文を書けと言う。
そこで、このチャンスを使って、かってレコンキスタ紙にのった私の「君が代民が代」論を補完する文章を書きたくなった。
国歌「君が代」は、詠み人知らずであるが、同じく詠み人知らずの和歌「民が代」
民が代は咲き匂ひける桜花
こぞもことしも来るとしどしも
と双連一対をなすことで、現代日本の国家性を十全に表現できる。このような私の年来の持説は、君が代絶対論者や「君が代」反対論者とは異なる、あるべき現代日本に関する私の思いから出て来たものであって、別に神話的根拠があったわけではなかった。
ところが、去年の初秋の頃、私達がしたしんでいる天孫降臨神話のある物語りに私の国歌双連一対説が親和的に共鳴することにふと気付くことになった。
ににぎの命が高天が原より天降って、笠沙のみさきで一人の美女に出会った。国津神の大山津見の娘、木の花の咲くや姫である。一目ぼれして求愛したところ、父親の大山津見は、大変に喜んで、姉の磐長姫(いわながひめ)と妹の木の花の咲くや姫を一組にして、ににぎの命の妻として差し上げた。ところが、ににぎの命は、磐長姫を「甚凶醜(いとみにく)き」と親元へ追い返して、木の花の咲くや姫と「一宿婚為(ひとよまぐはひ)したまひき」。
大切な娘の一人をつき返された大山津見神は、大喜が大恥に転じて、次のように言い放つ。
「我が女二たり並べて立奉りし由は、石長比賣を使はさば、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如くに、常はに堅はに動かず坐(ま)さむ。亦木花之佐久夜毘賣を使はさば、木の花の栄ゆるが如栄え坐さむと宇氣比弖(うけひて)」貢進りき、此くて石長比賣を返さしめて、獨木花之佐久夜毘賣を留めたまひき。故、天つ神の御子の御壽は、木の花の阿摩比能徴(あまひのみ※)坐さむ」
※もろくてはかないの意か。
こうして、一夜ではらんだ木の花の咲くや姫の生んだ子供達の一人が日子ほほてみの命、その子が鵜がやふきあへずの命、その第四男が神倭いはれひこの命、すなわち神武天皇である。それから二千数百年、第百二十二代明治天皇は、近代国家日本の建設という重い課題に直面された。ヨーロッパ流の国家制度観にならって、国歌が制定された。言うまでもなく、「君が代」である。曲調は、雅楽の久米歌に通底し──私にはそう感じられる──、歌詞の思想は、ににぎの命にきらわれた磐長姫に大山津見神が託した生命像である。妹木の花の咲くや姫の子孫が何千年も経て、姉磐長姫の生命像を国の基歌に選んだのである。
それでは、大山津見神が木の花の咲くや姫に、ににぎの命に好かれた妹姫に託した生命像もまた国の基歌に反映されるべき時代が今や来ているのではなかろうか。詠み人不知の和歌は、まさに木の花の咲くや姫の生命像を歌っている。この文脈で更に一言しよう。戦後の皇室で貴族出身ではなく民間出身の皇太子妃が二代続かれた事は、考えてみると、神代のににぎの命の時代がもどってきたとも言える。
現代日本の国歌に神代の素朴な民衆的生命像が十全に反映されて、「君が代」絶対論・反対論の無益な争いが止揚されるだろう。そんな空想をすると、心情大和の理論左翼としては心楽しくなる。
初出「RECONQUISTA」平成22(2010)年3月1日 許可を得て転載
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