「非日常の日常化」のなかで、忘れてはならないこと
- 2011年 8月 2日
- 時代をみる
- 「原子力」言説加藤哲郎日本人と原子力
2011.8.1 新潟県や福島県の豪雨で、また大きな被害が出ています。大きな地震も続きます。台風も近づいています。もう震度5くらいでは驚かなくなった、「非日常の日常化」に、唖然とします。福島や北関東の放射能、野菜から牛肉に広がった汚染食品にこそ、「非日常の日常化」の広がりがあります。つぎに卵や魚から放射性物質が検出されても、政府の「直接健康には心配がない」との説明には半信半疑でも、私たちは「非日常の日常化」を甘受し、今までの生活を続けることになるのでしょうか? そこからまたぞろ、「原子力の平和利用」の日常化が、たくらまれています。菅首相の「脱原発」は、首相の政見から「個人的」意見へ、長期的・段階的「減原発」へと、後退を重ねています。九州電力の「やらせメール」に佐賀県知事まで関与していたと分かったのに、中部電力・四国電力では経済産業省原子力安全・保安院が率先して国主催の原発シンポジウムを「やらせ」に導いていたことまで広がると、やはりというか、あきれはててというか、半ば思った通りと、納得できてしまいます。「非日常の日常化」の極みです。マスコミの報じる問題は、もっぱら今夏を停電なしでのりきれるかどうかのエネルギー需給問題に転化され、再生エネルギー開発には時間がかかるという口実で、「エネルギー供給のベスト・ミックス」「減原発」に落としどころをもっていく、そんな原子力村の算段に乗りかかっています。焦点は、現在とまっている原発を、一つでも再稼働を許すかどうかに、収斂しています。
朝日新聞が、シリーズ「原発国家」「原爆と原発」「核の時代を生きて」と、日本人と原子力の関わりの、歴史的検討を始めました。結構なことです。7月31日の「1984年に外務省、原発への攻撃を極秘に予測、全電源喪失も想定」という記事も、ジャーナリズムの信用回復に資するものです。でも、これらを読んでも、すっきり胸に落ちません。何かが欠けています。それは、自己分析の欠如です。1955年のライバル読売新聞社主正力松太郎がCIAとも結んだ「原子力の平和利用」キャンペーンは、当然また取り上げられるのでしょうが、その年「新聞週間」の標語は、「新聞は世界平和の原子力」だったのです。「原爆から原発へ」を批判的に論じるのなら、そうした時代背景を、自らの反省に引きつけて、検証すべきでしょう。たとえば朝日新聞は、1946年1月22日社説で「原子力時代の形成」を、47年9月10日社説で「原子力の平和利用」を主張しています。48年2月29日の記事では、「原子力に平和の用途」を掲載してきました。しかしこれは、別に朝日新聞だけのものではありません。「唯一の被爆国」日本の核意識・核イメージの初発におけるボタンのかけ違い、「原爆」そのものの受け止め方の問題と関わっています。以下、私も属す 20世紀メディア研究所の占領期新聞雑誌情報データベース「プランゲ文庫」を手掛かりに、現在進行形の研究の一部を公開しておきます。一つには、今年もヒロシマ・ナガサキ原爆記念日の8月を迎えます。この機会に、ヒロシマ・ナガサキの悲劇がいかに忘れられていったか、1945年8月体験の「非日常の日常化」のメカニズムを見ておくことも、意味あると思われるからです。いまひとつは、私はまもなく日本を離れ、昨年同様、8月アメリカ、9月ヨーロッパの調査旅行に出発します。次回更新は、二つの滞在旅行の合間の一時帰国時、9月1日になる予定ですので、時局コメントや政局モノは、今回は省かせていただくためです。
問題は、1955年の中曽根康弘・正力松太郎の暗躍によるAtoms for Peaceによる原子力発電への出発、「自主・民主・公開」の原子力基本法のはるか以前から、「原子力」に「原爆」の裏返しとしての「巨大な力」「無限のエネルギー」「新しい産業革命」を見いだしてきた歴史にまで遡ります。「原子力の平和利用」言説に限定すれば、1946年9月の雑誌『全体医術』と、同月の仁科芳雄・横田喜三郎・岡邦雄・今野武雄の座談会「原子力時代と日本の進路」(『言論』46年8・9月号)に現れ、こどもたちの世界では、『中学上級』47年2月号「科学の新知識」で使われ、朝日新聞社の『こども朝日』47年10月号は、「平和に原子力、すばらしい威力を世界の幸福に利用」と報じます。学術論文としては、以前も書いた平野義太郎「戦争と平和における科学の役割」(『中央公論』48年9月号)が先駆ですが、内容的にはもっとずっと早くから、もっと啓蒙的なかたちで、占領期日本の言論空間では当たり前でした。
ヒロシマ・ナガサキと敗戦の年、1945年12月には、雑誌『科学世界』に「機関車に原子力を」、『雄鶏通信』に「原子力の工業化は前途遼遠」「原子力自動車」「原子力発電機スピードトロン」が出ています。ヒロシマの地元『中国新聞』でも、1946年3月25日にビキニ環礁での核実験で「原子力の漏洩心配なし・ローズス少将談」を報じたのを先駆けに、「強力な武器としてのみに利用されている原子爆弾を食糧増産に利用したらどうか」(46年7月26日)、「原子力の平和的利用法、偉大な発見近し」(48年5月4日)などと、「原子力へのあこがれ」は、日本全体と共有されていました。一番多いのは、自動車・機関車・船・飛行機など交通手段の動力で、「機関車も燃料いらず、平和の原子力時代来れば」(『九州タイムズ』46年11月27日)、「月世界・金星旅行の夢ふくらむ、今日原子力の記念日」(『西日本新聞』46年12月3日)ですが、もちろんそのエネルギーは発電にも期待されます。「原子力の医学的利用」(『海外旬報』46年6月10日)、「平和のための原子力時代来る、新ラジウム完成す、安価にできるガンの治療」(『京都新聞』48年8月8日)はもとより、「お米の原子力時代」で農業増産(『生活科学』1946年10月)、「農民の夢、原子力農業」(『明るい農家』49年6月)、はては「農家を悩ます颱風の道、原子力で交通整理」と、原子爆弾で台風の進路を変えることさえ夢見られます(『中国新聞』46年7月26日)。寒冷地北海道の科学普及協会『新生科学』48年12月号は「科学の目:近く原子力暖房」という具合です。
つまり原子力は、敗戦・復興期の日本人の夢でした。『科学の友』1949年3月号の「進歩してきた人類の文化」は、旧石器時代・新石器時代・青銅器時代・鉄器時代から始まり、フランス革命時代・産業革命時代・大戦時代を経て、ついに「原子力時代」に到達します。ヒロシマと共に原爆を経験したナガサキでも、「平和にのびる原子力、破壊→幸福の力→建設、驚異・300倍の熱量、航空機・自動車・医療へ実用化」と『九州タイムズ』49年8月9日で語られます。長崎原爆記念日についての記事です。「平和のために闘う原子力」は『科学画報』49年4月にあり、「原子力は第2の火、人間は別種の動物に進化」(『長崎民友』49年1月1日)と、原子力は「歴史を進める」主体、「進化」「進歩」の象徴として出てくるのです。
ですから当時の華やかな労働運動のなかでも、たとえば全逓信労組広島郵便局支部の機関紙が『アトム』と命名され(47年9月20日)、「第2の火の発見ーー原子力時代」は国鉄労組東京鉄道教習所『国鉄通信教育』48年12月号の「教養」欄にあります。特に1949年は、1月総選挙で共産党大躍進、夏に下山・三鷹・松川事件、10月毛沢東の新中国建国、そのころソ連初の核実験成功発表ですから、すでに志賀義雄「原子力と世界国家」(日本共産党出版部『新しい世界』48年8月)で「社会主義の原子力」の夢を語っていた共産党まで、「光から生まれた原子、物質がエネルギーに変わる、一億年使えるコンロ」(日本共産党出版部『大衆クラブ』49年6月号)とボルテージをあげます。ソ連の原爆保持でその夢が現実になったとして、1950年1月18日の第18回拡大中央委員会報告、いわゆる「コミンフォルム批判」を受けての日本共産党の自己批判は、冒頭「国際的規模で前進する人民勢力」で「ソ同盟における原子力の確保は、社会主義経済の偉大な発展を示すとともに、人民勢力に大きな確信をあたえ、独占資本のどうかつ政策を封殺した」「原子力を動力源として運用する範囲を拡大し、一般的につかえるような、発電源とすることができるにいたったので、もはや、おかすことのできない革命の要塞であり、物質的基礎となっている」と宣言するのです。
しかしまだ、「原爆」や「原子力」では、「原子力戦争は人類の破滅」(『週刊東洋経済』48年4月24日)、「原子力と共産党員、使途は平和か武器か」(『九州タイムズ』49年2月25日)、「天国の裏は地獄である、我々は何れを選ぶか」(『農民クラブ』49年6月)、「ソ連の原子爆弾で戦争の危機緩和か、原子爆弾に使われる危険」(『週刊東洋経済』49年10月)と留保があり、危惧もされます。占領軍GHQの検閲は、あらゆる出版物に及びますから、原爆を落としたアメリカへの批判や広島・長崎の放射能被害の継続は隠蔽されます。「ソ連に原爆と殺人光線」といった記事は検閲され(『京都新聞』48年3月11日)、逆に「広島・長崎の原爆放射能消滅」というAP電はフリーパスです(『北日本新聞』48年10月8日)。
ところが、「ピカドン」「アトム」とカタカナになると、あまり抵抗感なく、受け入れられたようです。カタカナの魔力は、「ピカドンと婦人、広島病院のお答え、不妊の心配なし、奇形児も生まれませぬ」(『中国新聞』46年7月10日)などと使われ、『佐世保時事新聞』48年8月2日は、原爆記念日を前に「アトムの街々」特集で、「広島と長崎、それは原爆の地として世界注視のうちに新しい平和を求めて起つところ、人類に原子力時代到来を願って今こそ戦後の世界復興を」と、訴えます。広島・長崎を「アトム都市」とする記事は47年から現れ、47年12月の昭和天皇の広島行幸は、「お待ちするアトム広島」(『九州タイムズ』47年12月1日)、「ピカドン説明行脚、天皇がアトム広島に入られた感激の日」(『中国新聞』47年12月11日)のように使われます。「あとむ製薬」から「ピカドン」という薬も売り出されています(『愛媛新聞』49年1月13日)。
1948年の長崎原爆記念日は、「祈るアトム長崎、3周年記念、誓も新た平和建設」と報じられました(『西日本新聞』48年8月10日)。爆心地は「浦上アトム公園」になり(『熊本日日新聞』48年8月10日)、「アトム公園を花の公園に」とよびかけます(『長崎民友』49年3月24日)。これがこどもたちの世界では、「アトム先生とボン君」(『こども科学教室』(48年5月1日)、中野正治画「ゆめくらぶ・ミラクルアトム」(『漫画少年』48年8月20日)、和田義三作連載マンガ「空想漫画絵小説:アトム島27号」(『冒険世界』49年1月1日)、原研児「科学冒険絵物語 アトム少年」(『少年少女譚海』49年8月1日)と、ほとんど無防備で、「夢の原子力」へと一直線です。手塚治虫「鉄腕アトム」(「アトム大使」1951年)の登場は、時間の問題でした。
実はこうした大衆的・啓蒙的「原子力」言説の背後に、敗戦による荒廃・焼け跡闇市からの「復興の夢」、「遅れた国」日本の「近代化の夢」があり、そこで期待される「科学の力」「文化国家」への希望と信頼が読みとれます。それを受けた、科学者たちの解説・論評が、「原子力時代」の時代認識を支えています。1945-49年に論壇・記事への登場回数の多い方からあげると、湯川秀樹134、武谷三男128、渡辺慧88、仁科芳雄68、藤岡由夫37、嵯峨根遼吉37、伏見康治30、坂田昌一17、朝永振一郎14、といった物理学者・原子力研究者たちです。私が注目しているのは、左派の原子力解説者武谷三男と、中曽根康弘の核政策ブレーンになる嵯峨根遼吉、しかしフクシマの悲劇を見た今日の時点では、湯川秀樹、仁科芳雄、朝永振一郎らの言説も、「共産党宣言」のヴァージョンアップを謳った渡辺慧「原子党宣言」も、改めて読み直されるべきだと思われます。
8月はアメリカ、9月はヨーロッパ で国際歴史探偵ですが、その合間の9月4日(日)13-16時、東京豊島区立池袋小学校で、としま・くるま座塾の公開講演会「広島・長崎原爆投下から66年、福島原発震災6か月、あらためて核と原発を考える」が開かれ、作家・演出家早坂暁さんと共に、私も話します。タイトルが<「唯一の被爆国」でなぜ「ヒロシマからフクシマへ」の悲劇が再現したのか? 原子力にまつわるあらゆる「神話」の検証を>、これ実は、7月1日更新時の本トップの見出しです。つまり本ウェブサイトを通じての講演依頼、こういう市民の集いでお役にたてるのなら、大歓迎です。この間、夏の旅行のため、世界各地の友人・協力者の皆さんと日程調整のメールをやりとりしたのですが、ニッポンの3・11は、フクシマのその後も含めて、ほとんどニュースに出なくなったようです。リビアの政治危機、ギリシャの財政破綻、ノルウェーの政治テロ、そしてアメリカのデフォルト問題と、世界は動いていますから、ある意味、当然なことです。こういう中で、大沼安史さん『世界が見た福島原発災害ーー海外メディアが報じる真実』(緑風出版)は、「非日常」が世界から注目されていた局面での日本メディアの問題を浮かび上がらせ、貴重な記録です。仙台で被災した著者大沼さんは、ブログ「机の上の空」で、いまも価値ある情報発信を続けておられます。さっそく「IMAGINE! イマジン」に入れて、「小出裕章非公式まとめ」と共に、海外でも毎日チェックします。皆様もぜひ。次回更新は、8・15はお休みとし、9月1日の予定です。
「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
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〔eye1531:110802〕
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