二十世紀世界文学の名作に触れる(50) ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』(上)
- 2022年 12月 10日
- カルチャー
- 『チボー家の人々』ロジェ・マルタン・デュ・ガール文学横田 喬
――人間の様々な葛藤を描く大河小説
フランスの作家ロジェ・マルタン・デュ・ガール(1881~1958)は1937年、著作『チボー家の人々「1914年夏」』(白水Uブックス版で八~十一部)によりノーベル文学賞を受けた。授賞理由は「現代の生活の幾つかの基本的側面のみならず、人間の葛藤を描いた芸術の力と真実に対して」。白水Uブックス版(山内義雄:訳)で全十三冊にも及ぶ文字通りの大河小説だが、今回は内容の概略を特に(上)(下)二回に分けて私なりに紹介したい。
第一次世界大戦勃発のちょうど十年前に当たる1904年のフランス・パリ。カトリックの大立者の資産家チボー氏(54)は、ブルジョワ社会を代表するような権威主義的で専制的な人物だ。彼には医師になったばかりの長男アントワーヌ(23)とカトリック系の中学に通う次男ジャック(14)という性格を異にする二人の子がいる。
一方、プロテスタントの信仰に支えられるフォンタナン家には、優しく美しい母の許にダニエルとジェンニーという兄妹がいる。二人の父親ジェロームは放蕩者で、家を外にして他の女と暮らしている。チボー家は父家庭、フォンタナン家は母家庭と言っていい。
古い因習世界に反抗するジャックは級友ダニエルと語らい、家出~港町マルセーユへの逃避行を敢行するが、あえなく失敗。ジャックは父が設立した感化院に送られる。弟の身を案じるアントワーヌは不意に感化院を訪ねた。酷い仕打ちに遭った弟は別人のように変わり果て、全く無気力となり、心を開いて語ろうとしない。驚愕したアントワーヌはヴェカール神父に父を説得してもらい、なんとかジャック救出にこぎつける。帰還したジャックは頭でっかちな不器用タイプだが、四つ年上の家事手伝いリスベットにより、性に開眼する。
五年が経ち、ジャックは今や二十歳。文科系の最高学府エコル・ノルマルの入試に三位の好成績で合格する。が、既成秩序に反発する彼には、しっくり来ない。一方、兄アントワーヌは一世一代の大手術に奮闘。交通事故に遭った少女(父の秘書シャール氏の娘)の命を救う。たまたま助手役を務めたユダヤ系女性はアントワーヌと結ばれ、二人は恋人同士となる。
チボー氏の持病が重篤化する中、ジャックが失踪する。彼はエコル・ノルマルの入学放棄の相談をジャリクール教授に持ち掛けた。「既成の道を軽蔑し過ぎるのは・・・」と教授が一般論を説くのに失望しかけた矢先、一転「私は空っぽだ。(・・・)もうお終いの人間なんだ!」と彼は叫び出す。突如、露呈された教授自身の意識にジャックは強い衝撃を受ける。思いがけぬ悲痛な叫びが若者の反抗的精神を焚き付け、彼はチボー家から姿を消していた。
ジャックはスイス・ローザンヌの革命家集団の中へ身を投じていた。プロレタリアートの国際組織「インターナショナル」はジュネーヴでの第一回以来、殆ど立て続けに大会をスイスで開いている。彼は様々な生活体験を経て、今や一人前の成熟ぶりを具えていた。
この時代、スイスは社会主義者たちの活動の場となっていた。ジャックが住んでいたローザンヌには、ヨーロッパの全ての国々からの二十二名に及ぶ活動家たちが屯している。運動家たちが第二インターナショナルに結集し、慌しく何かに対処しようという気配を見せていること自体が、ヨーロッパの只ならぬ情勢を告げていた。
アントワーヌはジャリクール教授を介し、ジャックがスイスで出版されている同人雑誌に載せた『ラ・ソレリーナ(注:「ラ・ソレリーナ」はイタリア語で「妹」の意)』という小説に目を通す。そして、この小説の中の小説こそが、ジャック逃走の動機とその行方をアントワーヌに初めて暗示してくれるものとなる。
ジャックの小説では、舞台は南イタリア。登場人物はイタリア人とイギリス人だが、アントワーヌにはこれがチボー家とフォンタナン家がモデル、とすぐ察しがつく。小説の中心人物ジウゼッペはジャック自身で、ウンベルトはアントワーヌ、アネッタがジゼールというように、チボー家の面々は出揃っている。但し注目に値するのは、アネッタが現実のジゼールとは異なり、ウンベルトとジウゼッペの実の妹となっている点だ。
作品の最終部分に至り、ようやく「事件」が起きる。ジウゼッペがアネッタを遠出に連れ出し、帰路、近親相姦の交わりを犯してしまう。帰宅後、父親から追及され、ジウゼッペは「死にに行く」と言い残し、そのまま家を出て行く――。
アントワーヌはこの作品を手掛かりに、スイス・ローザンヌでジャックを発見する。彼にはかつての性急さや強情さは影を潜め、兄は弟の余りの変貌ぶりに驚愕してしまう。一方、ジャックの方も、三年ぶりの兄との出会いの最初の会話の際から、その変わり方に気付く。
兄弟の父親チボー氏がパリの自宅でいよいよ臨終を迎える。病床に付き添うのはアントワーヌとジャックの二人の子息と、カトリックの司祭ヴェカール神父。瀕死の父親は腎臓が詰まって分泌を止め、尿毒症が痙攣症状を引き起こし、苦悶の様がなんとも凄まじい。アントワーヌは遂に医師たる者の究極の特権(安楽死)に思いが至る・・・。
アントワーヌは(俺がやったんだ)と心に繰り返し、「いいことをしたんだ」と考える。が、すぐに、そこに「怯懦の精神」も混じっていたこと、(悪夢から逃れたい、という肉体的欲求)のあったことを反省する。父の遺骸を前にして、アントワーヌは改めて、死の意味について考えさせられる。「虚無」という考えが、否応なしに迫ってくる。
一方、ジャックは父の死に対し、兄とは非常に違った反応を示す。彼は死を、「思考力の停止」と感じ取り、自分の頭脳の「不断の活動」に悩まされてきただけに、「死」こそが「究極の安息」に繋がる、とつい考えてしまうのだ。
ジャックはジュネーヴで革命家の仲間に入っているが、暴力革命論者には成り切れないでいる。彼は反抗的人間であっても、革命家にはなかなか成り切れない。なぜなら、革命は血を要求するからだ。彼は人間に死を要求する戦争や革命に対して抵抗する絶対平和主義者となっていく運命にある、と映る。
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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