二十世紀世界文学の名作に触れる(51) ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』(下)
- 2022年 12月 17日
- カルチャー
- 『チボー家の人々』ロジェ・マルタン・デュ・ガール文学横田 喬
――人間の様々な葛藤を描く大河小説
時節は1914年夏、ジャックはローザンヌからジュネーヴへ移った。新聞や雑誌方面で得る金で生計を立て、各国の社会主義者たちが集まる『本部』に足繫く出入りしている。『本部』の中心的リーダーのスイス人メネストレルは、性格に一脈暗いものを秘める革命家だ。「パイロット」の呼び名は、操縦士兼機関士の前歴~飛行中の事故で足を負傷し、労働運動に身を投じた前歴に由る。彼は南米出身のアルフレダという若い恋人と同棲している。
英国人の若い同志パタースンは画家で、ジャックの肖像画を描いているが、彼にしばしば「アルフレダはあの彼氏に満足しているのだろうか?」と尋ねる。そして、この画家は余りにもしばしば、この南米女性に接近し過ぎる感が付きまとう。
ジャックは革命家の同志たちの中に、「使徒型」と「技術家型」という二つのタイプを見出す。自らはいずれに近いかと言えば、前者の方だ。彼の反発には「不正不義に対する持って生まれた感覚」があり、その理想は「平和と友愛の新しい秩序」の樹立。目標は「正しい社会」の建設であり、それは民主主義国家内での改革によっても実現可能という考えだ。
一方、オーストリア人のミトエルクは「技術家型」に属する暴力主義の理論家。彼にとって革命的活動の第一歩は民主主義との徹底的闘争であり、「革命と民主主義国家内での解放とはあくまで別個」。その考えは、ジャックの使徒型の理想主義とは根本的に対立する。
指導者のメネストレルの考えはこうだ。
――革命の先駆的状態があり、それが革命状態に変わるためには何かの新要素(例えば戦争、敗戦、経済危機など)が必要で、それが反乱を惹き起こす。が、その反乱がプロレタリア革命にまで発展するのは容易ではなく、革命指導者たちの意思と能力と手段に関わる。欧州は革命の先駆的状態にあり、その時に備え指導者たちに用意ができていることが肝心だ。
メネストレルにとっては、戦争の勃発は「新要素として必要なもの」だが、ミトエルクの受け取り方は異なる。プロレタリアを分裂に導き、破滅に導くからだ。ジャックはもちろん、戦争を最大の悪として、嫌悪する。その戦争の危機が同年6月、サラエヴォで突発した。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が、セルビアの一革命青年に狙撃~暗殺されたのだ。
ジャックはすぐさまオーストリアへ飛び、ウィーンの同志が入手した重大な情報を持ち帰る。それは、「墺政府が当該事件をセルビアに対する軍事行動の絶好の口実とし、それについてのドイツの同意を取り付けたようだ」というもの。墺のセルビア侵攻は汎スラヴ主義を掲げるロシアの決起を促し、ロシアの動員はたちまちドイツの動員を誘う。それは自動的にフランスの動員に繋がり、「欧州は戦乱の巷と化す気配にある」という内容。この情報は、ジュネーヴの同志たちを激論に駆り立てる。
ジャックが考える対応策は、インターナショナルの理想に従い、一大デモンストレーションを展開すること。ミトエルクは指導者などを信用せず、大衆行動に訴え、反乱状態を引き起こすこと。『親父』のメネストレルは内心、(戦争になるなら、なれば良い。プロレタリアは資本家たちにより、兄弟相食む闘争に投げ込まれたことを知るだろう)、その時こそ帝国主義打倒の萌芽が植え付けられるのだ、と考える。ただ、彼はそれを口に出して言わない。
ジャックはフランス左翼の動向を探れというメネストレルの命を受け、七月半ば、パリに出向く。そして、アントワーヌに会いに家に帰ってみた。兄の方もバルカンの情勢は知っているのだが、ヨーロッパ全面戦争という弟の言葉を真に受けようとはしない。彼は(何事も予見とは違った発展が見られ、自然に解決されてゆくのが習わし)、今度も何とかなるだろう位にしか思っていない。この楽観論は、大多数のフランス人の呑気さを代表していた。
やがて二人の議論は、重大な問題に突き当たる。それは、政治体制や社会制度が如何に変わろうとも、それを作っている人間の愚かしい本性というものは変わらないのでは、という疑問だ。アントワーヌには、新しい制度を打ち立てても、「暫くすれば、その新しい制度にも亦新しい弊害が生まれて来るんだ」と思えてならない。彼がこのことに言及すると、ジャックはさっと顔色を変え、心の動揺を悟られまいとして顔を背けた。
八月三日。単身、ジュネーヴに戻ったジャックを待っていたのは、変わり果てた『本部』であり、同志たち。誰も彼もが声を潜めてしまい、『本部』には誰も居ない。あのミトエルクはオーストリアへ、自ら範を示すため、みんなの前で銃殺されに帰って行った、という。
(誰も彼もが死に場所を求めている)と、ジャックは思う。彼はメネストレルに会いに行く。彼の計画にはパイロットの助けが必要なのだ。悄然としているメネストレルには以前の面影はなかった。が、構わずジャックは自分の計画をぶちまける。それは大略こうだった。
――後方にあっては、闘争は絶対に不可能だ。各国政府に対し、戒厳令に対し、愛国的狂乱に対し、打つ手は全くない。が、前線となると、話は別だ。兵士たちに対し、働きかける余地がある。戦線に放り出された哀れな男たちに、「君たちはまた、搾取された! 銃を捨てろ! 今すぐ塹壕を出て、正面に居る君と同じ労働者たちと手を握れ!」と訴えるのだ。
――そのためには、飛行機に独仏両国語で印刷した大量のアジビラを積んで、独仏戦線の上を飛び、対峙する二つの塹壕に向かってビラを投下する。戦線の唯一点で、両軍の間に生まれた交歓は、たちまち燎原の火のように燃え広がって行くだろう。独仏両軍の指揮系統は麻痺させられ、インターナショナルの収め得なかった勝利を見事に手中にし得るはずだ。
この計画実行のためには、飛行機が必要だ。ジャックは元パイロットのメネストレルに、飛行機を一機手に入れ、幾日かで自分に操縦を教えてくれるように、と頼んだ。ジャックは全てを独りでやろうと思っていて、生きて還ろうとは露ほども願っていない。メネストレルは、飛行機の操縦はそう容易いものではない、と話し、一旦ジャックを帰らせる。彼は暗い面持ちで、独り呟いた。「たった一つの機会・・・たった一つの解決かも知れないな!」
ジャックはバーゼル行きの列車に乗り込み、車中でアジビラに書き込む文言の推敲に励んだ。バーゼルの本屋のプラトネルが百二十万枚にも上るビラの作成を手伝ってくれる手筈だ。インターナショナルのあえなき瓦解は、ジャックの人間不信を決定づける。絶望感の中で、自ら求めて死ぬことで無意味な自分の生に決着を付ける道を自身で選択したのだ。
メネストレルから秘密指令が届き、飛行は十日午前四時と決定。ジャックはアジビラやガソリンを積んだ馬車に乗り、約束の高地へ向かう。白み染めた空の一角から、微かな爆音が聞こえ、メネストレルの飛行機が出現。機体はジャックを載せて飛び立ち、一路最前線へ。
操縦席のメネストレルは瞬間身を起こし、立ち上がっているらしかった。機は水平を失い、機首を下に突っ込んでいく。(墜落!万事休す・・・)。機は操縦不能に陥り、未だ嘗て覚えのない激しい衝撃がジャックの顎を打ち砕く。火炎が両足をしっかり攫み、重傷の身の彼はフランス軍の捕虜となる。黒焦げとなったメネストレルは即死だった。ジャックはドイツのスパイと疑われ、ほやほやの新兵であるフランス歩兵マルジェラの監視下に置かれる。
最前線での激しい砲火の下、新兵マルジェラは恐怖に締め付けられる声で喚いた。「俺は一体どうしたらいいんだ?」 腕に包帯をした一人の老下士が、負傷していない方の手でラッパを作った。「スパイなんて!馬鹿野郎、捕まえられたくなかったら、片付けちまえ!」 マルジェラは歯を食いしばって「畜生!」と、叫んだ。叫びと共に銃声が響いた。(身軽になれた!)マルジェラは身を起こし、後ろも見ずに、一目散に木柵の中へ躍り込んだ。
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