「緊急支援物資搬送トラックの思い出」
- 2011年 8月 2日
- 交流の広場
- 長船青治
2011/8/2
それ以前はしなかった耳鳴りが今朝はとくに激しく感じられます。
5回目位の出発の前日から喉のリンパの腫れは茹で卵を半分に切ったくらいの大きさで流石にのんびり屋の私も「まずいなあ。」と思いながらも同行のさぶろう氏と塩見氏が「大丈夫か、大丈夫か。」と何度も何度も心配してたずねてくれたのですが、「全然大丈夫です。」と何度も何度も答えていたらそのうち眠くなって後ろの荷室で寝袋に入って、時々、2人がコンテナの空気の入れ替えにドアを開けて私の顔を見て「お前、大丈夫じゃないぞ、真っ青な顔をしているではないか。」と言っていたのを何かしら遠くのほうに聞きながらひどく揺れて寝心地は最悪なのにスヤスヤと何時間もそうしていたのを覚えています。
喉の痛みはうがい薬のジキニンでは消えませんでした。
何かしら今までに経験したことのない小さな金属片が貼付いているような感じが24時間恒常的に続くのでした。
3.11以降、9条改憲阻止の会事務所で皆で被災地支援ということで最初は恐る恐るという感じでしたがそれでも流石に元過激派の指導者達らしい決断の連続でした。
今まで国会前の座り込みくらいしか出番がなくて今度の座り込みが終わったら廃車にするという予定で運営委員会で決定したばかりでした。
書家の隣人にコンテナの壁面と後部ドアにペンキ絵を描いてもらい3.11以降かなり早い時期に英国インデペンデント紙の全面広告に掲載された「DO’NT GIVE UP TOHOKU」を描き入れてもらった。これは行く先々で人々の眼を引き、コンビニに停っていると「頑張って下さい。」「ありがとう。」「今日はこのトラックに会えたことが最高に嬉しい。」などと声をかけられ何か飲み物を1本頂くということが何度かありました。
模造紙に墨で「緊急支援物資搬送中」と書いたものを運転席の前面に貼り雨対策に上から荷造り用の透明テープで全面貼る。
さらに警察発行のステッカー「緊急車両証明」をフロントガラスの内側から貼付ける。
3月末まで東北自動車道はこのステッカーを貼った車しか走れませんでした。
高速道をどこへ行くにも料金は無料でした。
このステッカーは確か4月中頃で早過ぎると思いましたが政府決定でなぜか廃止されました。
その後は被災地自治体や避難所などからの「支援要請書」を発行してもらい出発地自治体で「緊急車両証明書」を高速道料金所の区間毎に発行してもらうのですが、このために走行ルートを事前に決めて申請しなければならないため3泊4日の時は、2台で40枚以上になりました。
一見すると毎回同じような手続きを繰り返しているように見えますが、
11回を終えた私たちのボランテイアトラックで毎回、新しい出会いがあり毎回、新しい経験をさせてもらっています。
次回以降も1人2人と数は少しずつですがもの凄い人たちが参加されています。
いえ、もの凄い人たちというのは語弊がありますので普通の市民たちと訂正して置きます。
(了)
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