敗訴報告~法と現実をめぐる諸問題
- 2011年 8月 3日
- スタディルーム
- 早川洋行
「‹09.12.29›行政のバルネラビリティ~滋賀県の批判にこたえる」〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/〔eye837:091229〕に書いた事件のその後について報告する。
滋賀県による一方的な論文批判について、私は当初、対話による解決を目指した。上記論文を発表したほかに、総務部長宛ての文書を送ったが、いずれにも返答がなかった。「知事への手紙」も出し、電話で数度督促したが結局回答はなし。あらゆる組織に説明責任が求められている時代にあって、さすがにこれでは納得できない。そこでやむを得ず、最後の手段として大津地方裁判所に提訴した。
こちらの主張は、滋賀県は、①「学問の自由」の侵害、②「プライバシー」の侵害、③「行政手続の権利権益」の侵害、④「名誉と信用」の毀損を行ったので、国家賠償法に基づいて、慰謝料300万円を支払えというものである。弁護士をつけない本人訴訟で闘ったこともあって、これは思いのほか楽しく、そして勉強になる経験であった。
そして、大津地裁(石原稚也裁判長)の判決が下った。(2011年1月25日)
主文
1.原告の請求をいずれも棄却する。
2.訴訟費用は原告の負担とする。
負けたのである。正直言ってこの判決(敗訴)は、全く予想していなかった。
とはいえ、今回の経験、裁判の過程で得たものも多い。それは色々あるが、何はともあれ、地方自治体が、法律をあまり理解していないということを知ったのは新たな発見だった。
まず、①「学問の自由」であるが、憲法の解説書には、権力が学問の発展を妨害してきたことを踏まえて、この権利が認められたこと、そして、「研究内容を発表する自由」ばかりでなく、「職務上の独立や身分の保障」「大学における教授の自由」「大学の自治」が含まれることなどが書かれている。
ところが、滋賀県は、「原告は・・・研究者の活動の一環として本件論文を作成していると考えられるものであり、学部における研究活動について学部長は一定の責任がある」という。私の論文は、滋賀大学環境総合研究センターの年報に発表したものであり、学部とセンターは別組織である。もちろん、学部長にこの雑誌の編集権はない。学部長も、今回のように教員の書いた論文についていちいち責任を問われていたらたまったものではなかろう。こうした責任追及が学問研究を委縮させるものであることは言うまでもないが、何より抗議の理由が行政運営を批判したから、というのには恐れ入った。どこかの全体主義国家ならともかく、現代日本においては大学研究者が言論による体制批判を理由に弾圧されることはないと思っていたが、私の認識不足だったようだ。
次に②「プライバシー」の侵害。滋賀県は、学部長への抗議に当たって、私が住民の一人として参加した地元集会(県が主催)の議事録を持ち込んだ。そこには、私の発言のみが「住民(早川)」と明記されている。滋賀県個人情報保護条例は、「特定の個人を識別できるもの」について、利用目的を特定すること(5条)、本人同意のない取得の制限(6条)、正確性および安全性の確保(7条)、そして利用および提供の制限(8条)を定めている。しかし、どうやら、行政に敵対する住民には適用しない、という裏規定があるようである。
第三に③「行政手続の権利権益」の侵害。行政手続法は、あいまいな行政指導がトラブルを頻発させた反省を踏まえて作られたものだろう。滋賀県行政手続条例でも、行政指導を「その任務または所掌事務の範囲内において一定の行政目的を実現するため特定の者に一定の作為または不作為を求める指導、勧告、助言その他の行為であって処分に該当しないもの」と定義し、任務または所掌事務の範囲の逸脱の禁止(29条)、行政指導に従わないことを理由にした不利益な取り扱いの禁止(29条2)、苦情の申出の権利と適切な対応の義務(34条)を定めている。今回の県の行為は、これらすべてに違反しているが、これに対する滋賀県の反論には刮目せざるを得なかった。県は、論文批判は「私人同様の行為」であり「表現の自由」の範囲だと主張したのである。行政にも私人同様の「表現の自由」があるとは。全く、こちらがのけぞるような弁明である。
最後に④「名誉と信用」の毀損。この点についても呆れた。滋賀県は、たしかに名誉と信用を毀損するがごとき行為をしたが、この文書は、センター長と学部長にだしたものであり、一般にまき散らしたものでないから問題ないと主張した。名誉毀損罪(刑法230条)は、「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する」と定めているが、その中の「公然と」の意味は、「不特定または多数が知りうる状態」と解されており、不特定または多数のものが現実に認識したことは必要ではなく、認識しうる状態で十分である。こうしたことは、公務員試験の出題にはないのだろうか。
当然のことながら弁論過程で、私はこうした滋賀県の主張一つ一つに反論した。ところが驚いたことに、判決において裁判官は、これまで存在しなかった論点を持ちだしてきて、原告敗訴を言い渡したのである。
その論点とは、そもそも被告の批判は、「原告の社会的評価を下げるものではない」という主張である。簡単に言えば、今回の判決は、紛争の大前提を全否定することで、全ての論点の価値を下げようとするものだった。
大津地裁は、行政体が自らのホームページで実名をあげて「県民の安心と安全の観点から容認できない」論文を書いた、と述べ、大学学部長へ「誤解や偏見、さらに申し上げると悪意すら感じる論文」を書き、「一つひとつの木々をねじ曲げ、脚色し、虚構のドラマを想像した社会正義に反する」論文を書いたという文書を渡したことを「原告の社会的評価を下げるものではない」と評価した。このような判断が成り立つとは、こちらは(そしておそらく被告側も)全く考えもしなかった。
そして、判決文は、批判は原告本人ではなく論文へ向けられたものであり、「地方公共団体だからといって、このような反論が許されないわけではないことは、本件訴訟のように、地方公共団体が当事者となって訴訟活動をする場合を想起すれば、容易に理解できる」と言う。
これには心底呆れた。まるで、行政を勝たせるために無理やりこじつけたとしか思えない理屈である。もし、本当にそう思っているのなら、裁判官はあまりにも世間を知らない。また学問研究を理解していない。この判決は、裁判所の法廷と市井の生活を同一視して、行政にも私人同様の「表現の自由」を認めたものである。そして、学術論文が研究者の全身全霊をかけた作品であることが全然わかっていない(これまでの判例でも学術論文に人格権が及ぶことは認められている)。日本の司法がここまで劣化していたというのは、驚くべき発見であった。
私は当然ながら控訴した。今回も勝利を確信しているが、じつは上告して最高裁で争うことも悪くないと少し思っている。もし、そうなれば家永裁判以来の「学問の自由」をめぐる裁判になるだろう。「早川裁判」が歴史に残るのも悪くない。
大阪高裁の判決は、2011年9月8日に言い渡される。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study404:110803〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。