澤野登さんを偲ぶ
- 2023年 2月 17日
- 評論・紹介・意見
- 野上俊明
同じ研究会に所属する「同志」の訃報に接し、気が動転してまだ心の平衡を取り戻しておりません。昨年の春、ステージの高い膀胱がんを宣告されてのち、全摘出によらない施術を求めて大阪の病院を探り当て、治療を開始。しかししばらくたってからのお便りでは、治療がスムーズに進まず、激痛に耐えているということでした。そうこうするうちに、9月私に腎臓がんがみつかり、右腎臓の摘出手術を10月末に受けることになりました。その間、澤野氏から私のことを心配して、激痛をこらえてでしょう、何度かお見舞いのメールをいただきました。私の方は都立駒込病院でロボット援用手術を受け、経過順調ということで4日後に退院させられ、翌週スピード職場復帰をしました。しかし年が明けても澤野氏からの朗報はなく、1月肺に転移したので手術を受けるという話を最後に空白の日が続き、不安な気持ちでいるところ、2月7日に亡くなったという突然の訃報でした。
私と澤野さんとのおつきあいは、月一の社会批評研究会(旧「日本会議研究会」)でのもので、それも高々3年ほどの期間でした。したがって個人的なおつきあいではなかったので、そのパーソナル・ヒストリーについてはほとんど知るところはありません。
1947年生まれ、能登半島の七尾のご出身。哲学を学ぶべく、法政大学に入学したものの、学園紛争の渦中の人となり、学業は放棄して30過ぎまで社会運動にかかわっていた由。その後土木建築関係の資格を取得して、それなりに事業はうまくいって生活は安定していたといいますが、これも直接本人からうかがった話ではありません。ともかく大学はやめても、初発の哲学を学びたいという志を忘れず、晩年になってから住まいのある草加市で、超難解をもって鳴るカントの「純粋理性批判」の地域輪読会を組織し、数年がかりで読み切ったといいます。すさまじい向学心と執念です。その話をうかがったとき、思わず埴谷雄高の獄中闘争を思い出しました。
研究会で面識を得たときの印象はかなり強烈でした。いきなり「プロレタリア独裁」云々と切り出したのでびっくりしました。澤野さん、時代が違いますよ、とは言いませんでしたが、ご本人もその場の雰囲気で場違いなことにすぐに気づいたようでした。少し後で、私は研究会のみなさんに、あの方は60年代終わりに凍結保存して、50年後凍結解除して、我々の前に立ち現れてきたような人だと形容してみせました。半分はからかいでしたが、しかしあとの半分は、愚直でとても生き方の不器用な人だ、そのことに私は好感を持っていますよ、と言いたかったのです。私とおなじ党派系列に属し、一時期私が活動を共にしたことのある海江田万里氏のように功成り名を遂げる―衆議院副議長!―例もありますが、初心を貫徹してそうなったのなら尊敬もしますが、権力に妥協し節を曲げてそうなったのなら、どれほど意味のあることなのでしょうか。
ともかく、澤野さんは引退後はずっと我慢してきたことを思い切ってやりたいということで、学ぶことに貪欲でした。浦島太郎状態を自覚していたのでしょう、氏は新しい時代の動きを学ぼうと、どんどん変わっていきました。研究会がともすれば、哲学的な趣味の会に堕することを危惧して、鋭い問題提起をしたこともありました。またあるときは、私にミャンマー問題へのあなたの見識に感動しました、ミャンマー人民の支援に使ってくださいと、ポンと大金を寄付してくれました。
澤野さんと最後に約束したことは、病気がお互い治ったら能登半島に旅をして一緒に旨いものを食べましょう、そしていっしょに地域の哲学関係の読書会を持つことを考えましょう、ということでした。残念ながらこの夢は果たせなくなりました。しかしどれほどのことができるかわかりませんが、澤野さんの遺志を受け継いで努力することをお誓いしたいと思います。
最後に澤野さん、時代錯誤と笑われようとも、あなたにはあの葬送の歌がお似合いでしょう。
“血に汚れたる敵の手に、雄々しき君は倒れぬ、プロレタリアの旗のため、プロレタリアの旗のため”
あなたの志は無駄にはしません、どうか安らかにお眠りください。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion12820:230217〕
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