第134回経済研究会 講演会 :共催 現代史研究会/討論資料(古賀 暹
- 2023年 3月 15日
- カルチャー
- 古賀暹
場所 河合塾 池袋校西館4A教室
https://www.kawai-juku.ac.jp/school/scl-map.php?ks=314
日時 3月18日(土) 午後1時—5時
テーマ 価値論と文化人類学-マルクスとグレーバー
講師 古賀暹(元「情況」編集長)
資料代 500円
*どなたでも自由に参加できます
報告——価値形態論と文化人類学(レジメに換えて) 古賀 暹
1 人類史の中でマルクスを考える
大仰な演題を付けてしまったことを反省しています。こんなタイトルをつけてしまったのには、二つの事情があります。一つは、私が、資本論初版の価値形態論の翻訳を始めたことです。もう、ドイツ語から20数年縁を切って、ほとんど、忘れてしまっていたのですが、どうしても、価値論でやりかけていたことを完成させたいという思いからでした。
「読書百遍、意おのずから通ず」という言葉がありますが、これは、写経のようなものだと心得ていました。日本人にはわからない漢字でも暗誦していれば、自然に、意味が分かるようになるという信仰のようなものがありますね。私もそれをやれば、今までに分からなかったことが、分かるようになると思ってやったのです。
そのうちに、分かるようになった。その第一点は今までの商品論の理解は、商品が貨幣に如何にして進化していくのかということに焦点が絞られていたため、商品がなぜ生まれたのかということを、自明の前提としてしまい、問題としてはいなかったということです。商品には使用価値と交換価値があるというのが出発点で、なぜ、そういうふうにあるのかということです。
このことにヒントを与えてくれたのが、経済学批判の唯物史観の公式という文章です。
アジア的生産様式、古代的生産様式、封建的生産様式なるものが、歴史上に存在したということをマルクスが述べたすぐ後で、いきなり、彼が商品の価値形態を語り始めているのをみて驚きました。なんで、商品が発生するようになった歴史とか何かを語らないで、いきなり、価値形態なのかということです。そこから、どうも、価値形態というのは、古代的、封建的な生産様式と並ぶ、一つの生産様式のようなものだという考えが生まれてきました。
そんな思いで、初版の価値形態論を訳し続けていたところ、気づいたのは、古代や中世の商品と違って、資本主義における商品というものは、過去のさまざまな共同体的な生産様式が崩壊した時に生み出されるものとしてマルクスが分析をしているということでした。いわば、人間が、それまで、人々を繋いでいた関係から放り出されて「互に無関係な他者」として生きなければならないときに生まれてきたものだということです。
ここにおいては、極端にいえば親子兄弟でさえ、その共同体的連帯から切り離され、ただの孤立した生産者、孤立した商品所持者として生きなければならなくなったということです。現在の私たちは必要なものを何一つ自分では生産したことがなく、全ては通貨で買い求めるというのが当たり前のこととなっていますね。これは、商品が社会的連帯の代わりをなしているということです。
ところで、この商品それ自身としては何かといえば、生活必需品、つまり、使用価値(単なる財貨)ですね。これが、かつての共同体の代わりをしているのです。逆です。共同体の経済的な役割の代わりをするために財貨は商品となるのです。そのために、商品は自分の肉体である使用価値であるとともに交換価値をもたなければならない。商品は自己を二重化せねばならないのです。こう考えるとマルクスの貨幣の分析は資本主義社会の基礎的形態である貨幣の分析に限られた分析であって、古代や中世の分析ではないということが明らかになります。古代や中世にあっては貨幣は、それぞれの社会の一部として位置づけられていたわけで、商人たちの行動の原理はその共同体の原理の内にあったということです。
こうしたことを未開社会の交換の在り様としてとらえようと試みているのが文化人類学系のポラニー(大転換)やグレーバー(価値論、負債論)の議論です。彼らは人類学ですから、射程が長く、3万年、5万年なりに及ぶ人類史のなかで人間を考えます。ですから、ポラニーは、現在の資本主義社会で横行している「利益本位の社会」というものは、人類史の中でかつて見られなかった社会であると述べ、それを批判しています。また、グレーバーも商品社会的な「交換」の在り様はこの社会に限られたものであるのに、それを(物々交換)として、あたかも過去の未開人たちも行っていたかのように考える「自由主義的」な人々の考え方を批判して、自分たちの考え方を何の疑いもなく超歴史的な「人間なるもの」の行動様式として過去に投影させる「神話」として批判しています。
いずれも、こうした批判を通して資本主義社会は人類史上で特異な社会であり、したがって、別の社会をもあり得るのだと提案しているといえるでしょう。彼らの研究は商品経済社会を歴史的に一般化していませんし、つまり、古代社会以来の商品―貨幣に類似する存在を資本主義社会のそれとは区別しているということです。そこで、私は、彼らもマルクスも、似たような姿勢で歴史を考えているのではないかと思うようになりました。つまり、商品や貨幣というものを超歴史的なものととらえず、それぞれの歴史において現れた社会にはその固有のシステムが存在するということです。マルクスも「経済学批判要綱」で述べているように、ある社会にはそれ自身の固有の支配的な生産様式というものがあり、その支配様式を考えることが重要だとしています。
ここで、グレーバーの場合を取り上げてみましょう。彼は未開社会の問題のなかで、交換ではなく、贈与ということを問題としています。(レヴィストロースの場合ですと互酬性ですが)。交換と贈与の相違を考えてみてください。彼は、モースの『贈与論』の贈られる財貨には贈り主のハウ(魂)が付着しているというマウリ族の考え方を取り上げています。ハウとは魂のようなもので贈り物には付着しているのだというような考え方です。使用価値には交換価値が付着するというとわかりやすいのですが、ここでは交換価値ではなくて魂です。そして、ここで、中心的に論じられているのが、この贈与の根底に存在しているお返しの義務ということです。「遅れた社会においては、贈り物を受け取るとお返しをする義務が生ずるのだろうか、贈与されたモノはどういう力があって、お返しをするように仕向けられるのだろうか」という『贈与論』のモースの問いです。マオリ族の人たちは、その問いに「贈られた物には、贈り手のハウ(魂)がこもっており、それにお返しをしないと、ハウに罰されるからと言い、更に、森は彼らに鳥を贈ってくれるが、その森が養ってくれた鳥に対してもお供えをする」(これは自然と人間の関係)と答えたと言います。
この「返礼の義務」が、自己の利益しか考えない市場経済に発展していくことになる筋道は、商品社会の中で生活をしている私たちにはすぐ想定できてしまうでしょう。だが、ここでグレーバーは立ち止まって、モースがやりかけた贈与関係の分析の中には「全体的給付」という観念も含まれていたと言います。つまり、「返礼の義務」に基づく交換形態から市場経済的なものも出てくるが、また、それとは別にマリノフスキーのクラ交換や、レヴィストロースの「循環的婚姻体系」もあり、それらとも異なったものとして家族共同体内の無限定な交換もあったとします。これをグレーバーは「全体的給付」の関係と名付けています。「近親者相互のあいだには無制限の責任がある、一方は他方のために助力を惜しまないが、それは返礼を期待しているからではなく、ただ、自分が同じような危機に陥ったときに他者も同じようにする」という関係として、これをコミュニズムの関係だとしています。考えてみれば、ハウから直ちに価値を根底に置いた交換を考えてみるのは、近代人の考え方の過去への投影であり、実は、「全体的給付」に関係の方が前資本主義の形態としては支配的だったかもしれませんね。
こうしたことを頭においてマルクスの価値形態論を見直してみると、一方では、古い共同体的関係が崩壊したことを前にし、他方ではこれから作るべき社会の全体的給付の関係をマルクスが語っているように見えてきます。たとえば、「農家の家族においては、自分たちの消費のために、上着やラインバンドや麦を生産するので、それらの物はその家族には家族労働の異なった生産物として現れてくるが、それらが互いに商品として現れてくるわけではない」とか、ロビンソンの生活をそのまま自由人の共同体に置き換えたくだりなどを想起していただきたいと思います。
2,「要綱」の方法論と様々な社会」
ここで問題としたいのは、こうした古い共同体と新しく作るべき共同体の間に立ったマルクスの方法とは一体どうしたものであったかということです。よく資本論の方法として引用されているのが「経済学批判要綱」の中の「学問の方法」という一章です。ここでは上向―下降というヘーゲルの方法論を下敷きとしたのがマルクスの方法であるということがよく言われています。この方法をマルクスは「下降-上向」と呼び、ヘーゲルを逆さにしていますが、逆さにしただけでは批判にはならないでしょう。マルクスによれば、都市や農村、、、、物価、資本などなどという「より抽象的な概念」に達するのが下降、そこから逆にたどって現在に至るというのが上向。そのうちで抽象的なものから現在に至るというのが「経済学の正しい方法」であると述べてられています。
ところが奇妙なことに、これらの記述のうちマルクス自身、つまり、「私」が主語となる所では非現実話法で語られています。つまり、マルクス自身は、強く訳せば「そういう方法は私はとらない」ということになります。では、マルクス自身はどういう方法をとるのかいうことになりますが、「サ・デポン」というのがその答えです。つまり、「ことと次第による」と言っているわけです。
どういうことなのかと言いますと、ある与えられた社会の支配的な生産様式を問題とする場合には、その社会の基礎的形態から始めてその社会の現実を描き出すということになるのは正しいが、それを超歴史化するわけにはいかないということです。しかも、この場合でも、注意しなければならないのは、分析者もその与えられた社会の一員である限りその社会による存在非拘束性を免れることができないので、そのことへの注意が重要だということ、つまり、その社会の一員がその社会を批判的にとらえるためには、その社会の中で自らの社会に対する自己批判が高まってきたときに限ると付け加えています。
これがマルクスの『要綱』のあらましですが、ここから文化人類学者の幾人かがこうしたマルクスと同じような立場に立っていたということは了解できるかとも思います。レヴィストロース、マリノフスキー、グレーバーおよびモースの場合を取ってみても、資本主義社会から飛び出していった人であり、商品経済とは異なる社会を考え体験した人々です。彼らは、商品社会と異なる社会を知っていたし、それ故、自分たちの社会への自己批判もともなっていたと考えられるからです。
グレーバーから離れる前に、最後に、僕がグレーバーから読み取った点を更に付け加えておきたいと思います。彼は、「究極的には、モノではなく行為である、という前提から始めて価値の理論をつくると、どうなるだろう」と言っている点です。僕も、実は、同じことを考えていました。というのは、資本論には、行為のレベルでの記述、モノのレベルの記述、現実と歴史的レベルの記述の三種のレベルが記述にみられるからです。労働の成果である物品ではなく、労働という行為から価値論を作ってみたらというように、私は読み取りました。
グレーバーは、行為のレベルの哲学的代表者としてヘラクレイトス、静止的レベルの代表者としてパルメニデスをあげています。水の流れは絶えず流動的でとどまることはないと前者は主張し、後者はある瞬間を固定しなければ正確な空間を測定することは不可能だとから近代科学は後者をとったというように言っています。この話は、一見、資本論やマルクスと無縁のように見えますが、人間は飲みかつ食らう存在として自然との流動的な物質代謝のなかで、そのために行為しつつ生きている存在です。たしかに、資本論は、モノという静止した商品を問題としているように見えますが、それを批判的にとらえるマルクスには、ヘラクレイトス的視点が存在するのです、いや、それがなくしては、批判は成り立たないのです。
3,モノが社会と何故なったか―商品語
価値形態論の話に移ります。先ほど、昔の農家の話をしましたが、こういう共同体の中では商品や貨幣などが発生する必要はありません。ある農家が牛を飼って乳を搾り,麦の種を撒いて農作物をつくり、鶏や豚を飼育しといった生活をしている限り、そうしたものが発生のしようがありません。ところが、それらの共同体が分解したとしたらどうでしょうか。諸個人に分解されたとしたら、誰も孤立した人間としてだけでは生きられません。そうした人と人とをつなぐものが、どうしても必要となります。モノが交換されねばならなくなる。つまり商品の登場ということになりますが、ここでの商品の役割は、かつて存在していた何らかの共同体の代わりを果たすことにならないでしょうか。商品は個々の人々の労働という行為の間をつなぐ唯一のモノとなってしまうのです。先ほど述べた「要綱」のマルクスがいうように商品生産が支配的な生産様式となったということです。
ここで単なる消費手段あるいは有用的生産物である財貨は、自己を交換手段として二重化することによって、封建制度や古代の生産様式に代わるものとして登場してきたのです。
この点がマルクスの価値形態論理解ではあまり注目されていなかったのではないでしょうか。形態論の謎ということが言われたほとんどの研究においては商品が如何にして貨幣になっていくかということのみに関心が払われた結果、商品そのものは使用価値と交換価値を持つということを規定の事実として考えられてきたような気がするのですが、どうでしょうか。
よくわからないのですが、初版でマルクスは価値概念を「思考が生み出したもの」と言っていますが、おそらく、このことを指すのではないでしょうか。孤立した人間が他者との関係を何とか持つために生み出したモノは自己の二重化を促進しますが、まず行うのは、交換を担うためには、モノは自分の交換価値を持たねばならないし、そのためには、価値を測らねばなりません。どうやって、その価値を測るのでしょうか、またその価値も表現しなければなりません。われわれは商品交換というと、交換される現場、すなわち市場を想起するのですが、モノが市場に出る前に、モノは自分の大きさを測り、それを表現しなければなりません。
実をいうと、私にとっての大問題はマルクスの価値形態論が人間を登場させないで、モノ=商品に話させ、商品語なるものを登場させているのはなぜかということでした。それは、先に述べたような、生産の単位が農家といった共同体から、孤立した生産者というものに変わったためである。すなわち、社会的生産様式の基礎単位が、共同体から個人に代わることによって不可避的に生み出された経済構造であると考えるに至りました。したがって、封建社会において人間が家族や身分という単位に拘束されているのと同じ意味を持つということです。そう考えれば、封建社会が人を指図すると同じように、資本主義の基礎構造である商品が人を指図するのは当然のことであるということになります。
4,測る—表現することと尺度を持つこと
ちょっと、横道にそれたようですが、言いたいのは、交換過程論において人間が登場しますが、それ以前の価値形態論において人間は登場しないということです。つまり、商品形態を、その上で人間が振る舞わざるを得ない舞台としているわけです。この舞台がどのような構造を帯びているのかというのが、価値形態論の課題になるわけです。しかし、商品は単なる財貨であり、使用価値ですから、交換形態を持っていないということがこの分析の始まりです。
ここで、すでに述べたことですが、測る―表現するということが問題となります。マルクスは物の重量ということを例に挙げていますが、ここで、長さを問題にします。この鉛筆とこの机を比べてみると、机の長さは鉛筆の10倍くらいでしょうか。われわれは、これを机の長さはこの鉛筆の長さの10倍というように、測り、表現します。これに対して、定規を当てて、この机の長さは80cmと表現することもあります。前者が測り表現するということであり、後者が人為的な尺度を以て測っているわけです。僕は、マルクスの形態論は前者、交換過程論は後者と振り分けてとりあえず考えています。
ここでは、机という物体と鉛筆という物体は長さという同一なものに還元されています。異なるものが同一なものに還元されてはじめて測ることが可能となり、やがて、計測単位というものが、人間の手によって定められます。(この「測り、表現する」というのが価値形態論のテーマで、「計量単位」で測るというのが交換過程論だと、おおざっぱに私は考えています)。しかし、商品は長さに還元してもしようがありませんから、マルクスは商品を価値へと還元します。(マルクスの現行版資本論の商品論でも、形態論に先立って価値の実体規定が書かれていますが、この実体規定は、実は、形態論を書くために必要な前提条件であって、彼が、書きたかったのは形態論の方であると考えています。初版では、形態論についやされている分量は、実体論の枚数の7,8倍程度まで膨らんでいます)ですから、ここでは、いきなり、価値の実体を抽象的人間労働であり、その量は労働時間であるということで出発させていただきますが、何故、そうなるのかといえば、先に述べた共同体的生産が全社会的商品生産になるからだとだけ言っておきまししょう。
「ラインバンド(亜麻布Leinwand)は自己を上着に関係づけるという一叩きによって、様々なハエを同時に打ち落としてしまう。ラインバンドは、他の商品を、価値としての自己に関係づけることによって、価値としての自己に関係するのだ。そして、同時に、自己を価値としての自己と関係させることによって、自己を使用価値としての自己と区別するのである」「また、自己の価値の大きさ、価値量は、価値一般であると同時に、一定量の価値の大きさであるから、何着の上着かとして示すことで、自己が価値であるということとは別な価値形態を自分に与えるのだ」(初版)
共同体の崩壊によって、人間相互の紐帯はなくなってしまっています。したがって、人間と人間を結びつけるものは消失し、媒介は商品だけになったのです。そうなると、商品は、あたかも、地上に存在する見知らぬ人間相互の関係のようになるわけです。そのことをマルクスは次のような喩で表していますが、この比喩は意味深いものでする。
「ある視点から見れば、人間も商品と同じようなものである。人間は,鏡を持って生まれてきたわけでもないし、フィヒテの哲学のように「我は我だ」とこの世に来たわけでもないのだから、人間も、まずは、ただ、他の人間の中に自らを写してみるのだ。(1)はじめに、自己と同じものとしての人間パウロとの関係を通して、(2)人間ペーターは人間としての自己自身に関係するのだ。それだから、(3)彼にとって、パウロはその皮膚や髪のままで、そのパウロ的な肉体において、人類の現象形態になるのである」(初版、再版の註)。
この比喩は、1,人間は猫には姿を映し出さず、自己と同じだから人間パウロに姿を映すわけです。2,パウロを通して自己が人間であることを再認します、3、パウロが人間の現象形態になります。これを、マルクスはリフレクション規定と呼びますが、一種の循環論ですが、この循環論を通して人間は自己を人間として確認しているのです。
この人間を、商品に読み替えれば、上の一文の意味は明確になるでしょう。つまり、商品も、また、始めから価値物であったため、他の価値物をその現象形態とし、自己を価値物としているということです。つまり、商品は自己の価値を価値として表現することが、出来ないので、リンネルは自己の価値を上着で表現するということです。しかし、何故、始めから、商品は他の商品と同じ価値(抽象的人間労働の凝固)であったのでしょうか。
わたくしは、それを、マルクスが価値実体論で言っている二つのことにその根拠を求めます。一つは「裁縫と職布は違った労働である。とはいえ、次のような社会状態もある。そこでは同じ人間が裁縫したり職布したりしている、、、」(A)と、「はるか昔」が引き合いに出されていることと、他の一つは、「われわれの資本主義社会では労働需要の方向の変化に従って、人間労働の一定の部分があるときは裁縫の形態で、ある時は織布の形態で供給される」(B)こととです。 (ここで注意しておきたいのは、マルクスが織布と上着の生産が個人の営みであったことから、巨大な個人と言ってもよい資本主義社会を導き出しているということです。本当はマルクスはAの立場からBの立場を批判することで、Bの社会の基本細胞ともいうべき商品の叙述が成立しているのですが、Aの視点からの批判はここでは控えています)
マルクスに倣って商品語で語るとすれば、リンネルは自分が何であるかを、上着を鏡として、その出生を反照することができるのです。リンネルも上着と同様な有用な生産物であるから関係づけることができるのです。人間が人間であるから、ペーターがパウロに、自分を人間として関係づけるのと同様に行うことができるのです。そして、ペーターにとってはパウロが人間の現象形態として存在したと同じように、リンネルにとっては、上着はそのままの姿で、価値の現象形態、抽象的人間労働の現象形態になるというのがマルクスの言い分です。そして逆にパウロもまたペーターを人間の現象形態とすることができるのです。
さらに、分かりやすく言えば、商品は始めから抽象的人間労働の凝固物であったから、他の商品と関わりあえたので、それでなければ、他の商品とは関わりあえなかったというのです。したがって、他の商品も、その逆関係として、必然的に、他の商品との関係に入ることができるということになります。しかしながら、その場合、立場が逆になり、今までは、自分の肉体が他の商品の価値を測るものであったのに、今度は他の商品の肉体が自分の価値を測るものになるということです。この関係のみをマルクスは形態というわけです。
では、ラインバンド(亜麻布Leinwand)によって関係づけられた上着はどうなるでしょうか?
「自分が何もしないうちに等価物として存在しているということだ」とマルクスは述べています。つまり、そもそも、上着は「人間労働の抽象された小模型」であったから、ラインバンドは自分の価値を上着で表現したし、「直接交換可能性」を帯びることができたのですが、しかし、上着が抽象的人間労働の産物であったということと、ラインバンドの等価物、価値も現象形態であるということは別なことです。このことに注意することが価値形態というものを理解するうえで重大です。
先のペーターとパウロの間のことで考えてみると、ペーターもパウロもともに人間です。だから、ペーターはパウロと関係し、パウロを人間の現象形態としたわけですが、パウロは何もしないで自分が人間に見なされたのだから、自分こそが人間なのだということになります。自分という固有で限定された存在が、即、一般化された人間そのものとなってしまうということです。しかし、こうしたことが起こるのは、ペーターが人間としてのパウロに関係する限りのことで、その関係の中でしかありません。ところが、パウロはそうではなく、この髭の伸びた姿かたちのその具体性、自分の姿こそが人間だと思い込んでしまうのです。そのことをマルクスは「上着の等価形態、直接的な交換が可能なものとしての使用価値としての諸規定は、上着にとって、ラインバンドとの関係の外においても、それ故に、上着の温かく保つという性能と同様に自己に属する物のように(dinglich)映ずるのである。しかしながら、この最初の、単純な価値形態である20エレのラインバンド=一着の上着 という(価値式の)中では、こうした間違った虚像は、未だ、固着したものとはならない。」
「こうした間違った虚像」が貨幣の始まりであるのは、すでに、お気づきのことでしょうから、いきなり、一般的等価形態の問題と貨幣形態の問題に移りたいと思います。
5,貨幣形態は形態論に入るのか?
既に、お気づきのことでしょうが、リンネルも上着も抽象的人間労働の産物だから、リンネルは上着に自己を関係づけたのだ、ということを強調しました。しかも、両方とも同じ価値量、つまり、同じ人間労働が、同じ労働時間だけ費やされているのならば、そもそも、市場など不必要ではないのか、という声が聞こえてくるようです
たしかにその通りだと思います。しかし、すでに述べたように、生産は諸個人がおこなっており、「互に無関係な他者」が交換を行うという社会では、おのおのの商品が自己にレッテルを張って市場に現れるわけではありませんから、そうはいきません。商品が自己を二重化して価値測定と価値表現をしなければならないのです。
戻りましょう。ラインバンドは自己を相対的価値として、自己の価値を等価物としての上着で測り、上着でそれを表現しました。上着は自分を何もしないでラインバンドの等価物となったのですが、今度は上着が自分の価値を測るとしますと、上着は測る側ですから、ラインバンドで測ることになります。逆ですね。当然のことながら、結果は、量的にも同じことになります。しかし、立場は逆になります。
ただ、これだけのことですが、ここですでに商品―貨幣—資本へと発展せざるを得ない概念が忍び込もうとしているのです。もし、この二人の関係において、リンネルを織る労働を私がやり、上着を裁縫する労働を君がやったのであり、それを交換したに過ぎないというのであれば普通のことです。ですが、そうではなく、モノがこの交換を媒介としていますので、等価形態に立たされた上着は、自分がリンネルの価値物であるということになり、それに等置したリンネルもまた自分を価値物なのだとしてしまうわけです。そうして、その結果、人と人との関係でなく、モノとモノとの関係へと転化してしまう。つまり、モノが形態(概念)を帯びてしまうわけです。
「人々は、それらの物体が、同様な人間労働の物質的な覆いであると考えて、価値として相互の労働生産物に関係するのではない。逆である。人々の生産物が、交換において価値として等置されるから、彼らの異なった労働が互いに同じ人間労働とされるのだ」とマルクスはこのことを難しく述べています。つまり、互に無関係な他者との交換においては、その生産物は価値形態を帯びざるを得ないから、商品の価値形態が生まれ、その価値形態自らがあたかも生き物のように成長していくのです。
こうして、上着は自分が何もしないのに等価形態に立たされために、生まれながら自分には直接交換可能性が与えられているかのように考えます。しかしこれはただリンネルが自分の価値を上着で表現する限りです。ところが、あらゆる商品が上着でその価値を表現し始めたとすればどうでしょう。上着は、生まれながらにして、自分は価値そのものだと考えます(説明を単純化するために拡大された価値形態とその逆転は省略)。ここで現行版では、この第Ⅲ形態である等価形態の次に第Ⅳ形態である貨幣形態が出て来て、上着に金が置き換わるということになります。それについては後ほど触れることにしますが、次に初版における第Ⅳ形態を問題にします。
6,初版における第Ⅳ形態と現行版
初版においては、直ちに、上着が金に置き換わりません。上着が一般的等価形態に立つことができるならば、他のすべての商品も一般的等価形態に立つことができるわけで、あらゆる商品が等価形態になりうるはずです。乱立状態です。この乱立状態については現行版では詳しくは触れられていませんが、初版では一節を用いて説かれています。
この乱立の淵源は、簡単な価値形態、すなわち、ラインバンドの相対的価値形態を逆にすれば上着の相対的価値形態となることに由来していますから、すべての商品が一般的等価形態物になってしまうわけです。ですから、マルクスは、ここで拡大された相対的価値形態と一般的等価形態は、極のようなもので、逆転の可能性が絶えずあることを強調しています。銅が銀になったり、銀が金に代わったりするように、現在のドルも元になったり、ポンドになったり円になったりすることとも関係するのではないか、と私は考えていますので付け加えておきます。
ところが、現行版では、ご存じのように第Ⅲ形態の後に、乱立構造である初版の第Ⅳ形態が置かれ、その後で、すぐ、貨幣金が登場する仕組みになっています。それに対して初版の形態Ⅳでは乱立構造のままで、貨幣金は登場せずに、形態論は終了してしまいます。
この相違は何を意味するのでしょうか。書誌的には、マルクスはエンゲルスの苦言もあったようで、形態論を易しくすると言って、初版に付録をつけています。だが、私の見るところでは、付録の方が難しくなったくらいです。その後、現行版(第三版)とほぼ同様な第二版が出されています。これが大まかな経過ですが、まとめていえば、マルクスは三回にわたり、資本論の修正を行っているということになります。内容的に、大きく変わった一つが第Ⅳ節貨幣形態です。
私がこれまで述べてきたことの一つは形態論においては人が登場していない、問題になっているのは商品が自己の価値を測り、表現することだ、と述べてきましたが、第Ⅳ形態に貨幣金が登場することになると、金は尺度ですし、人間の決めたものですから、もうここでは、形態論は形態論ではなくなるということになります。そこであわてて現行版を見直してみたのですが、現行版の第Ⅳ形態は貨幣形態となっています。
「いまではリンネルに代って金が一般的等価形態を持っているという他には、形態Ⅲと違うことは何もない」と述べつつも、他方では「すでに貨幣商品として機能している商品での、たとえば金での、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態である。」と述べています。(価格形態であることに注目してください)
変ですよ。価値形態論では価格形態(プライス)についての説明は一切ありません。つまり、現行版の第Ⅳ形態とは「交換過程論の領域」と「価値形態論の領域」の継ぎ目にあたるものだというのが私の考えです。
7,交換過程論と価値形態論の相違と展開
それでは、交換過程論では、この問題はどう考えられているのでしょうか。まず、登場するのが人間ですが、その人間は、商品の保護者として登場するわけです。保護者は被保護者である商品の意志を尊重しなければなりません。
「諸商品は市場へ出かけることも交換することもできない。我々は、そこで、保護者を探さなければならない。商品所有者である。、、、、、この保護者たちの意志は、それぞれの商品物体に内在しているものであり、したがって、それぞれは、自分の意志と他者の意志、つまり、双方とも共通の意志を以て、他者のものを自分のものとするのである。彼らは、他者の商品を自分のものとするために、自分の商品を放り出し、他者もまた放り出すのである。それ故、彼らは互いに私的所有者として、他者を認めなければならない。この契約と呼ばれる法的関係は、それが合法的であれ、そうでないものであれ、ただ,その中に経済的関係が反映されているのではあるが、意志の関係なのである」
マルクスの商品論においては、ここで初めて人間が登場するのです。したがって、形態論の展開は、逆に、市場関係の前提から出発しているのではなく、財貨の生産から出発していることの証明となるでしょうが、次に進みます。それでは、それぞれの商品に内在しているという「商品の価値」に対して、この商品所持者はどのように振る舞うのでしょうか。
「金は鉄鋼とは異なる物体である。鉄鋼は、そのプライスという関係の中で、自己とは異なるが同一の価値を有する他の物体としての金に自己を関係づけるのである。商品のプライスもしくは貨幣形態はこの同等化しようとする関係の中に現存する、言葉を変えていえば、鉄鋼の頭の中にそれは存在するのであり、そのプライスを引き出し表面化するためには、鉄鋼の所有者は自分の舌を鉄鋼の頭の中に突っ込まねばならない」
ここで注意してほしいのは、形態論の世界では価値は客観的に与えられていましたが、人間の登場した世界では、その客観的に与えられていたものを実現していかなければならないのです。まず、人は、自分が作り出した生産品がいくらに値するか、自分の製品に舌を突っ込んで確かめねばなりません。しかも、今度の相手はリンネルではなく、価値の尺度としての金が登場しています。つまり、彼にとっては、自分の鉄鋼は実在、リアールなもの(reelle)でありますが、金は彼にとって、観念、イデアール(ideelle)なものとして現れているとマルクスはいいます。これはよく見かける風景ですね。この製鉄所で生産した鉄は、単なる鉄のかたまりに過ぎませんが、製鉄所にとっては、金のかたまりと見えるわけです。市場関係がここから始まります。
相対的価値形態に立つ品物であるリンネルには、金は等価物としてではなく、こうした想像された、観念的、イデアールなものと見えるわけです。これが、現行版の第Ⅲ形態と第Ⅳ形態の差ということになります。ですから、交換過程論の中で、第Ⅳ形態をマルクスとしては出したかったのではないかと推測することも可能でしょう。事実、交換過程論でも、それぞれの商品が自己を一般的等価形態として乱立するさまも出てきます。
「どの商品も一般的等価物ではなく、また、どの商品も一般的な相対的価値形態を――商品が互いに価値として同質化し、その価値の大きさを比較する——持ちえないこととなる。
困惑した商品所有者はファウストのように考え込んでしまう。太初に行為ありき。彼らは考えるまえに、すでに、行っていたのだ。商品の本性の法則は商品所有者たちの本能によっ て実証される。商品所持者たちは彼らの商品をただ価値として、それ故、商品としてだけ互いに関係させる。そうすることによって、彼らは、いずれかの他の商品を一般的等価物とすることによって、互に対立しつつ、関係するのである。これが商品の分析の結果であった」
ファウストのように考え込んだのはマルクスではないのか、と冗談も言いたくなる箇所ですが、形態論とは、商品が生まれ、その商品から貨幣が生まれてくるさまを概念的に把握することを課題としていますので、そこには具体的なものとは異なる概念的なものが下に敷かれているということを了解すれば、現行版の第Ⅳ形態を初版の第Ⅳ形態から理解できるのではないかと考えています。(価格形態の底には価値形態が存在するということを理解すればということ)
8、マルクス貨幣論のなかの現代通貨
それはさておき、ここでは、ある一つの商品である金が一般的等価形態に固定化される構造を形態論(概念)の展開過程では、どのようにマルクスが考えていたのかを見ておきたいと思います。
基本はラインバンドの相対的価値が上着で測られ、上着が等価形態にあるということですが、それを拡大してみますと、
Aリンネル→X上着
Bコーヒー→Y上着
C靴下 →Z上着 。。。。となります。
つまり、上着は全商品の社会的な協力ないしは必要性、必然性によって一般的等価物となっているわけです。これが第一点。
第二点は、上着を拡大されて一般的価値形態に置くと、
X上着→Aリンネル→Bコーヒー→C靴下→D自転車→E机→F鉛筆、などなどとなり、上着を媒介にして、すべての商品の価値量が測られることになります。これも全商品の必要性から出てきています(価格体系のようなもの)。これが二点目です。
現行版では、「一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。一つの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価物で表現するからに他ならない。そして、新たに現れる商品種類もこれにならわなければならない」と、まとめていっています。
すなわち、等価形態に置かれる商品は、限られた特定の商品ということになるのであり、それが、マルクスの時代では金であったということです。金の物神崇拝、フェチシズムが起こった所以です。言うまでもないことですが、ここで、金には二つの「価値」と「形態」が重なって現れているということです。つまり商品としての金の価値と一般的等価物としての金ということになります。前者はそれを生産するのに要する労働時間です。後者は一般的等価物としての金の機能によって生み出されたものです。この二つを区別してマルクスは次のように言っています。
「貨幣が商品であるという発見は、貨幣形態が確立した状態から出発した者が、商品を分析するために後に生まれたことである。交換過程が、金に姿を変えた商品に与えるものは、その商品の価値ではなく、その商品の特殊な価値形態である」
それに続いて、マルクスは次のように書いていますが、私の訳文が上手でないこともありますが、なかなか、意味がとりにくいところです。
「この二つの規定の錯誤が、金と銀の価値をイマジナールなものとみなしてしまうのである。なぜかというと、貨幣は、その機能においては、貨幣は自分自身を単なる符号に置き換えることが可能だからだ。だが、ここから、貨幣は単なる符号に過ぎないという別の誤謬が生み出される。しかし、他方では、こうした錯誤のなかには、物の商品形態は、そのものにとっては外面的であり、また、単なるそうした現象形態のもとに、人間的諸関係が隠されているのではないかという予念がふくまれていた。こうした意味において、もしも、各々の商品が単なる符号に過ぎないというのであれば、価値としての商品とは、各商品に投下された人間労働の覆いに過ぎないということになる。そうならば、しかし、ある一定の生産様式の下における労働の社会的諸規定を帯びている諸々の事柄や社会的諸性格を単に符号と呼ぶことは、同時に、その社会的な諸性格を人間の勝手な観念の生産物とみなすことになる。こうしたことが、未だに謎に満ちている人間的な諸関係の成立過程の姿を解き明かそうとした18世紀の啓蒙的潮流が行ったことだったが、少なくとも、それは、疎遠なるものの見せかけを、当面は、剝ぎ取ったとはいえよう」(初版53p)
重要なのは、貨幣としての金を「機能において単なる符号に置き換える」ことが出来ると言っている点です。ここで言う機能とは、交換手段、価値尺度などなどを指すのではないかということです。もしそうであれば、現在の紙幣のようなものを示していることになるのではないか、というのが私の考えです。もちろん、マルクスの時代では、手形や振替や様々なものをイメージしていたと思われますが、どうでしょうか。もし、そうであるとすれば、マルクスの貨幣形態論は現代通貨の問題にも通ずるはずです。現代の数字化された貨幣の符号化の起源は、私の見方では、第一次大戦後のレンテンマルクあたりが起源になるのではないでしょうか。
なぜならば、貨幣(通貨も含む)の機能の一つが、この章の最初に提示したように、すべての商品の協力によってできているし、商品相互の価値比較のためにも欠かせないものだからです。この問題は、今のところ、単なる思い付きの次元でしょうが、検討に値する大問題ではないかと思います。
9.価値論における三層構造 行為-モノ-現実
いろいろと価値形態論について述べてきましたが、わたくしの語ってきたことは、次のマルクスの短い文章の中ですべて要約されているような気がします。「バラバラに切り離された諸個人による私的な有用労働の生産物」が抱える矛盾が、商品と貨幣への二重化に至るまで休みなく進行するというのが、形態論の問題であったということです。
「貨幣の結晶(Geltkrystall)は、商品交換が生み出した不可避の産物である。商品の内在的矛盾は使用価値と交換価値の直接的結合の矛盾であり、自然成長的な全体的システム、もしくは、分業の分肢としての諸労働が、バラバラに切り離された諸個人による私的な有用労働の生産物となっていることに基づく矛盾であり、そしてまた、個々の労働が抽象的人間労働の直接的な社会的小部分(Materiartur)として存在していることの矛盾なのであるが——この商品の内在的矛盾は休むまもなく進展し、それは商品の、商品と貨幣への二重化‘Verdopplungをもたらすにいたるまで進行する」(初版35p)
ここで、私は、出発点に戻ろうと思います。
結局、価値形態論というのは何だったのかということです。商品と貨幣への二重化は、休みなく進行するということ、および、「太初に行為ありき。彼らは考えるまえに、すでに、行っていたのだ。商品の本性の法則は商品所有者たちの本能によって実証される」ということにつきるのですが、時代の支配傾向である商品が生まれるや否や、商品の所有者が従わざるを得ないのが本能であり法則なのです。ですから、その本能の叙述が商品の概念的把握になっているのです。貨幣金が不足しものすごいインフレで、もはや、どうしようもなくなったワイマール期の経済を救ったレンテンマルクなどは、この本能にもとづいていたのでしょう。
この本能と交換過程論とでは、分析のレベルが若干違います。このレベルは、人が介在しているのですから、単なる概念のレベルではありません。現実のレベルです。この現実のレベルは、ですが、概念のレベルにもとづいて叙述されています。「貨幣の資本への転化」は再び概念レベルに基づいて展開されています。
ここで、注意を払ってほしいのは、こうした概念のレベルをマルクスはどこに立ってみているのかということです。形態論で展開されているものは、それに先行する実体論で展開された資本主義社会において「日々行われている抽象」、つまり、モノとしてのレベルからの抽象に基づく概念です。この概念の出発点は、古き共同体における行為のレベルにおける労働の解体にあります。
私がこの行為のレベルというのは、「とはいえ、次のような社会状態もある。そこでは同じ人間が裁縫したり職布をしたりしているので、、、、」「もっとも手近な例は、自分の必要のために穀物や家畜や糸やリンネルを生産する農民家族の素朴な家父長制的な勤労である。」というレベルです。そういう人類史的なレベル、人間の在り方を踏まえつつ、どう現在の資本主義を現実的に超えるかという立場にマルクスが立ったのです。「いままでの哲学は歴史を様々に解釈するだけだった、肝心なことは世界を変えることなのに」いう立場に立ったのです。否定の否定ですね。
わたくしが、モノレベルと呼ぶのは、「われわれの資本主義社会では、労働需要の方向の変化に従って、人間労働の一定部分が、あるときは形態で、ある時は織布の形態で供給される」「すなわち、無差別な人間労働、、、のただの凝固物のほかのなにものでもない。このような共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――なのである」「抽象的人間労働」などと呼ばれるレベルです。価値形態論はこのレベルに基づいて展開されますが、その展開が可能となったのは、行為のレベルからそれをとらえているからです。
わたくしが、現実のレベルというのは、交換過程論でとらえられているようなこのモノレベルの上にのっている人間社会の分析です。この三のレベルのうち、私が出来たのは、二のレベルだけでしたが、最後にこのモノレベルと行為のレベルの関係について一言のべ、終わりにしたいと考えています。
その好材料として、付録においてマルクスが抽象的な発言をしているところから引用してみます。この付録は初版を印刷に付した後で、エンゲルスから難解すぎると言われ、マルクスも同意して、急遽、初版につけたもので、弁証法を理解していない人でも理解できるようにとのことで書かれたものです。ですが、どうして、どうして、こちらのもののほうが難解です。マルクスという人はそういう人なんですね。
「価値関係の内部とそこに包含されている価値表現においては、抽象的普遍(abstrakt Allgemeine)は、具体的、現実的―実在的(Konkreten, Sinnliche-Wirklichen)なものの現象形態ではなく、反対に、具体的で実在的なものは、単なる、抽象的普遍の現象形態もしくは現実化形態となるのだ。たとえば、裁縫労働は上着という等価物に含まれた労働であるが、ラインバンドの価値表現の内部において、これは、普遍的な性格を帯びてはいないし、また、人間的労働でもないのだ。逆である。人間的労働であるということは、裁縫労働の本質(Wesen)に該当するわけで、裁縫労働であることは、ただ、それの現象形態、または、この本質の規定された現実化形態に過ぎないのである。こうした錯視(quid pro quo)は避けがたいのだ。というのは、労働生産物に現れた労働は、ただ、価値形成的である以上、その労働は、一様な区別のない同質の人間労働であり、それだから、ある生産物の価値に物質化された労働を、さまざまな種類の生産物の価値に物質化された労働とは全く区別できないのである。
こうした倒錯、つまり、抽象的-普遍的なものが具体的なものに固有なものとしてではなく、逆に、実在的-具体的なものが抽象的-普遍的なものの現象形態とされるような倒錯が価値表現を特徴づけているのだ。こうした倒錯が価値表現の理解を困難にさせているのだ。私が、ローマ法と独法の両者はともに法であると言えば、それは自明のことだ。ところが、これに対して、次のように言ったとする:法なるもの、この抽象的なものが、ローマ法において、もしくは、独法において、これらの具体的な法として、自己を実現させたのだ。」
私の理解では、裁縫労働の本質(Wesen)の理解がカギになるように思われます。ここで、思い出すのが『神聖家族』でのマルクスのヘーゲル批判で、ヘーゲルの本質なるものの展開を次のように面白く批判(揶揄)しています。果物の本質(Wesen)が、あるときにはナシとなり、ある時にはリンゴとなり、柿、栗、桃となったようなもので、抽象概念(果物の)自己展開であるというのです。上の一文では、桃や栗がすべて、資本主義社会では「抽象的人間労働」という概念にまとめられ、それが、ある時は、裁縫労働、あるときは織布労働とされているのだというのです。ですから、これは倒錯だという批判です。この問題は、個々の労働行為の尊重の問題となるわけで、私はそれを行為(労働)の問題と呼びます。個々人が自由であることです。資本主義社会における自由は人間労働が抽象的人間にさせられた上での自由であり、だから、利益本位社会なのでしょう。
ですが、そういう個々人の労働が個々人の労働でありながら、社会的労働であるという世界は何時、迎えられるのでしょうか。そんなことはあり得ないのではないかという声、ソヴィエトロシアの破産をいう人々に対して、資本論でマルクスは次のように言っている。
「社会的生活過程の姿が、物質的生産過程の姿が、その神秘的な煙霧を消し去るのは、それらが、自由で、社会化された人間の、自覚的で、計画的な人々のコントロール置かれ、その生産物として産出できるようになったときである。だが、そのためには社会の物質的な基礎、もしくは、一連の物質的な生産諸条件が必要とされるが、それらの諸条件自身も、やはり、自然成長的な、永い、苦難に満ちた発展過程の生産物なのである。」
考えてみれば、資本主義的生産が始まってからは、未だ、500年そこそこの時しか経過していないのだ。人類は自然成長的で、永い、苦難に満ちた発展過程であるのだ。なにしろ、われわれの全生活を支配している商品―貨幣の支配を打ち破らねばならないのだし、それも、人類史という観点からとらえれば、上のマルクスの言うようなものなのかもしれない。また、それが、グレーバーのいうパルメニデスではなく、ヘラクレイトス的な考え方なのであろう。
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