「横浜ウォーキング」参加してみようかと(2)
- 2023年 4月 1日
- カルチャー
- 内野光子
大佛次郎記念館とイギリス館と
心配していた昨夜からの雨は止んでいる。窓からのベイブリッジも昨日よりはっきり見える。午後からのウォーキングまで、どうか降らないで、と祈るしかない。11時の集合、ランチの会食まで時間があるので、大佛次郎記念館へ向かう。水たまりの残る散策路、多くの人が花壇の手入れに出ていた。
記念館は大佛次郎(1897~1973)の没後、1978年に開館している。この春は「大佛次郎 美の楽しみ」展を開催中で、大佛コレクションの中の挿絵画家や交流のあった画家たちの作品の一部が展示されていた。旧蔵の尾形光琳「竹梅図屏風」は、重要文化財となって東京国立博物館に所蔵されているそうだ。長谷川路可、長谷川春子、佐藤敬らの作品が目を引く。「鞍馬天狗」から「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」まで、古今東西にわたる時代を描く、その幅の広さは格別なのだが、いざ自分が読んだ作品となると、あまりにも少ないのに気付くのだった。和室もどうぞとの案内で、上がってみると、大きな窓からの眺めはさすがであった。階下では、大佛の猫好きにちなんだ、猫の写真展も開催されていた。
記念館併設の「霧笛」という喫茶室には、二人とも入ったことがない。夫はぜひとも、ここでコーヒーをというのだが、10時半のオープンの時間なっても「しばらくお待ちください」と“close”の札をさげたままなのである。それではと、近くのイギリス館に入ってみる。1937年にイギリス総領事公邸として建設されたそうで、外観・室内も格調高いたたずまいであった。正式には、横浜市イギリス館といって、横浜市指定文化財になっていて入館も無料である。なんとなく人の動きがあわただしいと思ったら、午後と夜、コンサートがあるという。ウォーキングの後、コンサートもいいね、とチラシをもらう。
ふたたび「霧笛」に寄り、豆を挽く香りにつつまれながら、念願かなって、コーヒーとケーキを待つ。
いよいよ「横浜ウォーキング」
総勢二十人余の参加者が 簡単なランチを食べながら、今日のウォーキングの説明を聞く。三班に分かれて、各班にKKRのスタッフとNPOのガイドさんが付き添う、という。ほとんどがシニアなので、安心といえば安心である。私たち夫婦は、参加者七人の三班であったが、その内三人は、こうした催しの常連らしくスタッフとも親しげである。他の人も、国内・国外を問わず、旅行三昧の暮らしで、私たちの比ではないらしい。お一人は87歳といい、皆さんの意気軒高な、定年まで勤めあげたらしい国家公務員のOBで、その元気さに圧倒されてのスタートであった。
「元町・中華街」まで、緩やかな方の谷戸坂をくだって、みなとみらい線には一駅だけ乗り、「日本大通り」下車。
「日本大通り」の改札を出た通路には、こんなモザイクの壁画並んでいて、そのうちの一枚が、横浜のシンボルを一枚に収めたような作品。これからめぐる「三塔」と赤レンガ倉庫も描かれている。柳原良平の作と聞いたが、かの「トリス」のオジサンの横顔も船上に描かれているではないか
日本大通りと本町通りの交差点に立つ。神奈川県庁の敷地の角には「運上所跡」の碑がある。県庁の屋上には、三塔の一つ「キングの塔」と呼ばれる塔が建つ。屋上を半回りすれば、街と港を一望できる。
地上に出て、次に向かったのが横浜開港資料館である。ここには二人とも、数年前に新聞博物館・放送ライブラリーに来たときに寄ったことがある。三つ目の塔は、横浜市開港記念会館の塔なのだが2021年12月から改修だそうで、見上げるだけだった。
横浜開港資料館中庭「玉くすの木」、江戸時代より大火や空襲に遭いながら、再生した、たくましい木。夫の撮影による三班の女性一同。ガイドさんのとなりに従いているのが筆者か
山下臨港線プロムナードに突然現れたの香淳皇后の歌碑だった。ガイドさんも、参加者も素通りだった。私たち二人が写真を撮っていて、少し遅れてしまったのだが。「<ララ>の功績を後世の残す会」(2001年4月5日)の銘板「第二次世界大戦後の多くの日本人を救った<ララ>物資」によれば、1949年10月19日、昭和天皇・皇后が横浜港のララ倉庫を訪問した折に詠んだ短歌とあり、つぎの二首が刻まれていた。
ララの品つまれたるを見てとつ国の熱き心に涙こほしつ
あたゝかきとつ国人の心つくしゆめなわすれそ時はへぬとも
ララ物資の第一便は1946年11月30日、この横浜新港埠頭に入港したという。私も学校給食の脱脂粉乳世代だったし、教室ではくじ引きで、傘や靴が配られたこともある。焼け跡のバラック住まいのご近所で、砂糖やメリケン粉、ソーセージの缶詰などを分け合っていたのを思い出す。それがララ(LARA:Liensed Agencies for Relief in Asia=アジア救済公認団体)からのものであったのか、なかったのか。ララといって、私が思い出す短歌は、山田あきの次の一首である。
ゆたかなるララの給食煮たてつつ日本の母の思ひはなぎず(『紺』歌壇新報社 1951年5月)
疎開地から戻って、池袋の小学校に転校したものの、校舎はなく、仮校舎のお寺の鐘楼跡で、給食の用意をしていた母たちの姿に重なる。
港沿いに「大桟橋」を右に見て「象の鼻」の由来を聞きつつ、青い屋根の塔、クイーンの塔が立つ「横浜税関」の「資料展示室」にも立ち寄る。つぎに、赤レンガ倉庫の一号館が二号館より短いのは、関東大震災で倒壊したからとの説明を聞く。最近リニューアルした商業施設らしく、若い人たちでにぎわう中、私たちはここを通り抜けた。広場の先のかまぼこ型の白い建物には「海上保安資料館(北朝鮮工作船展示)」の大きな文字があり、突然の「北朝鮮工作船」に驚く。海上保安庁って、他にやることもあるだろうに、と中に入って、さらに驚く。2001年12月、奄美大島近くのEEZ内で不審船を自衛隊が確認した以降、海上保安庁巡視船との攻防の末、不審船は、自爆して沈没、後の引き上げ・調査の結果、北朝鮮の工作船と判明した。30mある船体と回収した武器などが展示されていたのである。入り口近くには、実に詳しく、説明する案内人がいた。夫は、思わず、胸に下げている名札を覗き込むと、「海上保安庁に45年間務めたOBです」と誇らしげに?答えていた。それにしても、展示がここ横浜の地で、工作船関係のみという違和感はぬぐえなかった。
階段を上ると船内を俯瞰できるようになり、不審船に遭遇した巡視船の活動の様子が大きな画面で映写されていた
さらに、私たちは、長い商業施設を経て、「横浜ハンマーヘッド」へと進むと、世界でも有数だったという、荷揚げ用の巨大なクレーンが聳えていた。サークルウォークという円形のデッキを経て、万国橋をわたり、あとは馬車道まで歩くことになるのだが、頭上に、これも突然、小さなケーブルが行き来をしているのにびっくりするのだった。
桜木町駅前からみなとみらいの運河パークまでを結ぶ、都市型ロープウエイ。定員8人、合計36基のゴンドラが片道630mの道のりを約5分で運行、大人片道1000円、大観覧車と合わせて1500円というチケットもあるそうだ。5分で1000円?!
馬車道駅からみなとみらい線に乗り、終点の元町・中華街に着くころは、私など、もうかなりのくたばりようで足が重い。宿について一休み、5時からは夕食が始まり、班別のテーブルはにぎやかなおしゃべりの場になった。そして、各班2・3名が指名され、感想を述べたりした。私たちは、7時からのコンサートがあるので、本降りになった雨の中をイギリス館へと急いだ。
コンサートには、二十数人が来場、バロック時代の古楽器による演奏だった。素朴なチェンバロの音色、オーボエのやさしい高音、当時のヴィオラの弦は7本で、ヴィオラ・ダ・ガンバと呼ぶらしいが、奏者は、楽器を両足で支えての演奏、こんなにも身近で聞くコンサートは、はじめてだった。バッハを父とするC.P.E.バッハ作曲のヴィオラ・ダ・ガンバのための曲というのも初めて知った。ウォーキングの疲れをいやされ、至福のひとときを過ごすことができた。このようなコンサートは山手の西洋館を会場として、しばしば開催されているという。今回は、初めての平日開催とのこと、偶然な、うれしい出会いであった。
この日の万歩計は、12917歩、近年にない記録であったが、明日の足腰がどんなことになっているか、心配はつきない。
「内野光子のブログ」2023.3.31より許可を得て転載
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〔culture1161:230401〕
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