わたしと戸籍 ― 「戸籍」私史(その14)
- 2023年 5月 7日
- 時代をみる
- 戸籍池田祥子
Ⅹ Kさんとの暮らしと「共同生活の場=カゾク」への悟り
(1)5人目の子どもの妊娠
Aさんと別れ、「Kさんと暮らす」と決めたものの、しばらくは、私と二人の子どもの家とKさんの家と・・・行ったり来たりの暮らしが続いた。
1985年、私は42歳、Kさんは26歳。客観的に見ると(?)かなりの年齢差だ。しかも、女の方は二度の「結婚歴」(入籍の話は抜きにして)の上、現在も二人の子どもを抱えている。男の方は20代の半ば、人生これからの人だ。ただ、直前に結核に罹患し、母親を亡くし、父親とも絶縁状態だった。
私が勤めていた短大の男性教員や大学時代の男友達のほとんどが、「いや~池田さんはまたすぐ別れますよ~」と、陰でも、面と向かっても、遠慮なく評していた。
ただ、私たち当人は真剣だった。私も、これ以上「離婚」を繰り返すのはナシにしたかったし、それだけに、生活上でも理論上でも曖昧さを嫌うKさんとは、大真面目に議論もした。
ところが、一つだけ私の「ノーテンキ」(無知?)のゆえに、予期しない事態が生じてしまった。私はまだ閉経してはいなかったのに、女が40代を超えると「妊娠」する可能性はほとんどなくなる・・・と勝手に思い込んでいたのである。だから、「避妊」ということに無頓着になっていた。もちろん、私には、最初の夫との間の子ども二人と、現在一緒に暮らしている子ども二人とがいる。Kさんには子どもは居ない。そのことに少しだけ後ろめたい気持ちがない訳ではなかったが、でも、Kさんは「そんなことは気にしていない」とはっきり言ってくれたので、私の頭の中からは「子ども」のことはすっかり消えてしまっていた。
1986年の夏だったか、保育関係の全国大会が神戸の有馬温泉で開かれた。昔から頼まれていた一つの部会の講師として、私も1泊2日で参加した。温泉に浸かって布団に横になった一日目の夜、何だかお腹の辺りがいやに脈打っていた(と感じた)。痛いわけではない、何だろう・・・と一人で思いめぐらしていた時、「イヤだ・・・ひょっとして赤ちゃん」?!
おもむろに手帳を開いて確認すると、妊娠の確率が高い・・・そんな・・・未だ半信半疑のまま布団に戻って天井を見上げたが、不思議と「困った!」という思いよりは、「スゴイ、赤ちゃんだって・・・」という驚きと喜びの方が勝っていた。そのことを友人に話すと、「妊娠って、そんなに早くから分かるはずはないよ、勘違いだよ」と笑われてしまったが、私は密かに確信していた。しかし、逆にそうなるとかえって早期流産が怖くなってしまった。昔々、不用意に、妊娠?!と思った時の不安感、憂鬱感がウソのようだ。その頃は、トイレに行くたびに、生理がやって来ること、早期に自然流産してくれることを「神様」に必死に(自分勝手に?!)願ったものだったが、今回は、まったく逆だった。年齢も年齢だし、4人も子どもを生んだ子宮、ちゃんと子どもを守ってくれるだろうか・・・そんな心配が先に立って、ともかく慎重に慎重に動いていた。そうは言いつつ、職場までは相変わらずの自転車通勤だったのだが・・・。
そして、だんだんお腹が大きくなり、職場にも届けざるを得なくなった。考えて見れば、同じ職場で第2子から含めれば、4回も産休を取ることになる。それはやはり余りにも図々しい話である。自分のことながらそう思う。それでも「産休」は取らざるを得ない。教務部長に畏まって届を出した時、教務部長は何も言わなかった。教務部長はピアノ演奏家の奥さんとの間に子どもはいなかった。いつだったか、「子どもは欲しかったんですけどね・・・」と言っていたのを聞いたことはあったのだが・・・。
「産休」は、そして今の時代になれば「育休」も、当然の権利ではある。後ろめたく思う必要はない、と思いつつも、やはり小さな短大で、同じ人が4回も「産休」を取るとは・・・現実的に申し訳ないと思ってしまうし肩身は狭かった。それでつい教務部長に言ってしまった。「予定日は7月中旬です。だから、前期は、可能な限りやれると思います。後期(9月半ばから)は、そのまま私は出勤します!」と。それは、私のために特別の産休教員を頼む必要はないことを言ったつもりだったが、客観的にはそれは余計なことかもしれなかった。ただ、同じ職場に私以外にも4人の女性教員は居たが、その内の3人は未婚だったし、やはり、私との差は激しすぎる、と思ってしまうのだった。
「池田先生、今から子どもを生むなんて・・・子どもが20歳になったら、あなたはもう64歳なんですよ、お婆さんじゃないですか・・・」と、遠慮なく(率直に)言ってきた図書館長(女性)の言葉もキツかったが、しかし「首切り!」と言われない限り、その職場には感謝していた。
(2)生まれて来る子どもの姓
予定日は7月半ばだったが、現実には何が起こるか分からないものだ。
通院していた近くの産院での定期診断で、いきなり「心音が止まりかけています。これは至急人工中絶しなければ母体が危険です!」と通告されて、何が何だか分からないまま、結果としては、そのまま(中絶処理をしないまま)東京女子医大病院に転送となって、子どもの命は助かったのだが・・・。東京女子医大病院での検査によって、その近くの産院の器械の故障のせいだったことが判明した。前の子どもの「半分、前置胎盤」といい、今回のことといい、私は本当にラッキーだった。
そして、子どもの出産が近くなってきた頃、子どもの姓のことを話し合った。彼が言うには、「あなたのこれまでの子どもはみんな男の子。だから、また男の子の可能性が高いけれど、男の子だったら、そのまま『池田』でいいんじゃない?上二人の男の子は姓が違うのは仕方ないけれど、いま一緒にいるお兄ちゃん達と合わせて3人、みんな同じになるし・・・。けど、もし女の子だったらボクの姓にしようか・・・」。
彼は彼で、私の妊娠期間に付き合って、男親対象の「赤ちゃんの沐浴指導」にも律儀に出席して、否応なく「親意識」が育ってきたのかもしれない。それでも、「生まれて来る子が男でも女でもボクの姓に!」と要求しなかったのは、彼なりの「遠慮」だったのだろうか・・・。私は、彼のなかに育っていた「親意識」を感じながらも、「女の子なら彼の姓に!」という提案に、何となくグッドアイディア!と感じて、「異議ナシ!」と言ってしまった。
当時は子どもの性別は生まれてくるまで分からなかったのだが、何と生まれて来たのは「女の子」だった・・・。さて、「女の子だったらKさんの姓にする」と決めたのだったが、親同士の籍を入れないまま、どうすれば可能になるのか。これまでは、私が出生届を区役所に提出すれば、そのまま私は「未婚の母」(シングルマザー)になるし、子どもは「非嫡出子」(昔の「私生児」)のまま、母親と同じ姓「池田」となる。
二人が形式上、婚姻関係にない場合は、男が「産ませた子ども」を「認知」すれば父子関係が認められ、その子どもは父親の姓を名乗ることが可能なはずだ。ただ、それは男性中心の「家」制度そのものの残滓ではないか。また、家庭裁判所と関わるのも億劫だった。しばし考えた末に、そうだ!一度夫婦が「結婚」しさえすれば、その枠内で出生届を出せば自動的に「全員同じ姓」になることができる。そして、その後で「離婚」して、妻たる私だけが旧姓に戻れば、子どもは父親の姓のままになる。
家父長制を引き継ぐ戸籍制度が法定されている以上、致し方ないのだが、しかし、こういうやり方は、現状の法制度を都合のいいように使いまわす、余りにも「不届き者」の手口のようだ。法制度を守っている側からすれば、本当に許しがたい行為だろう。
だが、自分たちの主義・信条を貫きつつ、可能な範囲での妥協策としては、このやり方が手っ取り早く、「胡散臭い目」で見られるとしても、それを覚悟すれば自分たちの要求も貫ける一つの妥協策ではあった。
私はまだ産後。自分の身体の回復と授乳とで一杯一杯だったから、Kさんは「よし!ワシが届けを出してくるよ」と言い、おまけに「午前中に婚姻届けを出して、午後に離婚届を出してくる!」と、何だか勇んで宣言した。「そこまでしなくても・・・せめて数日後にでも・・・」と私は言ったのだったが、制度を自分たちで勝手に使いまわすという意味では、ほとんど変わりはなかった。ただ実際は、婚姻届けを提出した窓口の若い女性が、とてもにこやかに「おめでとうございます!」と言いつつ受理してくれたのだそうだ。それでKさんは、その日の午後、同じ窓口に「離婚届」を提出するのはヤバイ!と日和ってしまった。・・・何ということはない、結局、私が数日後に離婚届を提出したのだった。
(3)セクシュアリティの多様性と「共同生活」の継続
その後、上二人の兄と妹と・・・子ども3人の暮らしは、やはり二つの家を行ったり来たりではやって行けなくなった。そこで思いきって、兄たちの了解も取った上で、それぞれの部屋を確保できる二階家を借りることにした。上の子は中学1年、下の子は小学校5年、女の子は保育園、それぞれ同じ中野区内での転校・転園だった。
ただし、上二人の兄たちは、当然ながらAさんを「お父さん」と呼び、Kさんはそのまま「Kさん」と呼んだ。そして下の娘は、Kさんを「お父さん」と呼び、Aさんを「Aさん」と呼んだ。Aさんはまた、娘を可愛がってくれたし、戸隠のスキー場にも連れて行ってくれた。傍からは複雑な関係の家族と見られたかもしれないし、上二人の息子たちにとって、Kさん含めた暮らしの中で、どこかで屈託を抱えていたかもしれない。
しかし、彼らの人生、やりたいことをやっていいよ、と告げていたし、高校を卒業するや、それぞれ順番に父親Aさんと一緒に暮らし始めた。それはそれで良かったと思う。
ただ、上二人の高校時代は、「お弁当づくり」が日課になった。過ぎてしまえばすっかり忘れてしまう程だが、私なりに律儀にお弁当を作ったつもりになっていた。ところが、いわゆる「専業主婦」の人々のお弁当作りはレベルが違っていた。当時はすでに、幼稚園でも「手の込んだ、可愛いお弁当づくり」が話題になっていた頃だ。息子たちが言うのに、つけ汁が別になった天ぷら弁当やうな重や、毎日手の込んだメニューのお弁当が珍しくない時代。私は、アルミの四角いお弁当箱に、ご飯と梅干とふりかけと、メインはお肉かお魚か、後はゴボウのきんぴらか野菜の煮つけか、そしてブロッコリーとミニトマトと、少しは色合いも考慮したつもりになっていた。それなのに、ある日、上の息子がこんな事を言った。「お母さん、○○くんがね、池田の弁当、毎日同じ景色だね~~と言ってたよ」。悪気があった訳ではなく、言った友達も息子も、見たままをただ正直に言葉にしただけ・・・というのはよく分かった。でも、一人で笑ってしまった、そうか、「同じ景色か・・・」と。
また前にも触れたが、下の息子が高校受験する時、「ねえお母さん、ボクの家のようなフクザツ家庭は私立には行けないよね」と言い出した。私も「そうだね、親子面接もあるしお金もないし、ダメだね。公立の中で見つけてね」と返していた。
ただ、上の子は、公立高校に受かるためには成績がイマイチだったので、英語だけは特訓した。その後も、進路はデザインだの保育者だの、迷った挙句、介護の方に何とか落ち着くことができた。
下の息子は、自分から「一浪」すると言い出して、大学では「チェコ史」を専攻し、大学院の前期課程でドイツに留学し、ドイツの女の子と一緒になって、結局、研究の道は諦めて、今は伊豆大島の高校教師になっている。
姓が父親のKさんと同じになった娘は、小学校時代は、Kさんが親身になって面倒をみた。彼は、夏休みの宿題などには、昆虫採集や歴史研究など、まるで「親(子)合作?」バレバレの作品を仕上げていた。しかも、PTAの広報担当まで引き受けていた。たまたまその頃、私は片道2時間ほどかかる千葉の短大に通っていた、ということもあったが、父親の熱心さにすっかり甘えていた。
しかし、子育ては単純ではない。娘は「いじめ」の加害者(いじめる側)になって、担任から呼び出されたり、中学時代はまさしく反抗期。父親と口を利かない時期も長かった。それでも、大学を終えてすぐ劇団に所属し、今は夫と1歳半の息子と暮らしながら、フリーで芝居は続けている。
さて、問題はKさんと私との間のことだ。出産後の子どもを抱えた夫婦の多くが直面する問題なのかもしれないが、いわゆる生活とセックスの問題である。
二階家に引っ越して以来、私は一階の部屋で娘と寝起きする。Kさんは二階の自分の部屋で寝起きする。しかも、Kさんは「寝つきが悪い」上に、ちょっとした音で目覚めてしまう。もちろん、私も「睡眠」を取るためには、娘は別として、一人の方がいい。
もっとも、それ以前から、二人のセクシュアリティの微妙な食い違いはお互いに分かってきてはいた。私は、身体ごとの触れ合いで性的な欲望を感じ、その触れ合いの中で満たされるタイプである。しかし、Kさんは、性別のせいなのか、時代のせいなのか、あるいは個性なのか、非常にフェティッシュな性欲保持者である。「触れる」よりも「見る・視る」に力点が置かれている欲望。人と人との「肌の触れ合い」よりも、モノに即した欲望。・・・それらは、とりわけ男性向けに提供される写真、雑誌、ビデオ、映画などによって形成される部分が多いのか、そこはよくは分からない。
そのようなセクシュアリティの違いは、暮らしの中では、歩み寄ったり、工夫し合ったりの時間も余裕も無くなってしまう。
子どもが生まれても、夫婦は、子ども部屋とは独立した夫婦の部屋で、必ず大きなベッドを共にする・・・そういう西欧のスタイルとは違う日本の生活様式では、どうしても夫婦は別々に寝起きして、そのまま成り行き任せでセックスレスになってしまう。私とKさんも全く同じパターンである。
いっとき本気で悩んでいた私が、Kさんに、「私たち、やっぱり別れようか・・・」と切り出した。その時Kさんは、「なんだよ~、家族は、そうそう簡単には別れないからカゾクなんだよ」と言った。・・・その趣旨も意味もよくは分からなかったが、しかし、しばらくして、「共に暮らす共同体としてのカゾク」、その安定性と継続性を保っていくことの覚悟・・・それは、神の前で誓う「結婚」の元々の誓いと同じものなのかもしれない、とも思った。それは、国家社会の単位や、秩序維持のために要求されるいわゆる「結婚制度」とは同じではない。もっと自主的な、男と女とは限定されない、とりあえずの対=カップルは、選び=選ばれた者同士として、共同の生活を営み続ける覚悟と責任を負うのかもしれない。その対=カップルの基盤があれば、互いのセクシュアリティの違いは、老いを迎えてまた別の形で乗り越えられるかもしれないし、或いは、個々それぞれで解決されるのかもしれない。
私たちは、今回の「戸籍私史」の最初(その1:2022.4.3)に記したように、引っ越しを迫られ、新しく家を借りるために、やむを得ず今頃になって入籍した。戸籍に拘りながら、しつこく抵抗しながら、それでも国の制度である以上、妥協を余儀なくされている。今回は、Kさんが私の「池田」姓になった。それは私にとっても「一体感」どころではない。おそらくKさんもまたさらに居心地が悪いだろう。しかし、この最後の最後になっての戸籍制度との折り合い「妥協」も、全くの無駄にしたくはない。
それぞれの人のそれぞれの抵抗の積み重ねと要求によって、現在の戸籍制度が、近い将来必ずなくなることを願っている(「戸籍私史」は今回で終わります)。
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