『カール・マルクス 一八世紀の秘密外交史 ロシア専制の起源』を読む――ルイ一五世官房偽造文書「ピョートル大帝の遺書」を手がかりに――
- 2023年 5月 17日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
『Karl Marx 一八世紀の秘密外交史』(白水社、2023年4月)を編訳者の一人石井知章氏から贈られた。感謝。
『一八世紀の秘密外交史』は、1856年から1857年にかけてロンドンの新聞に発表され、また1899年にはマルクスの娘によって単行本として刊行されていた。にもかかわらず20世紀の『マルクス・エンゲルス全集』から排除されていた。一読すればわかるように、その内容が最高度に反露的であって、モスクワに本拠を構えるソ連共産党書記長スターリンの意思によって『全集』に採録されなかったと見られる。但し、英国人モーリス・ドッブやE.J.ホブズボーム等がソ連人と共に編集に参加した Marx & Engels Collected Works の第15巻には全文収録されている。
石井・福本訳書には、マルクスのロシア国家論、例えば「モンゴル奴隷制の血泥が、モスクワ国家の揺籃を形づくり、近代ロシアはモスクワ国家の変形にすぎないのである。」(p.177)に全面賛成するウィットフォーゲルによる1981年「序」が66ページにわたって追加され、訳本の序を兼ねている。
ウィットフォーゲル「序」によれば、マルクスは、『一八世紀の秘密外交史』において、「全く異なる政治経済の類型を発見した・・・。マルクスはもはや、人類の未来が近代的政治経済の発展によって決定されるということを確信していない。・・・、人類の未来が全く別のシステム・・・・・・に内在する力によって決定されるかもしれないというのである。」(p.12)ここで言う「全く別のシステム」とは、「近代的政治経済」の未来形たるマルクス的共産主義=自由の王国ではなく、「モンゴル的奴隷制」(p.47)「新しい形のアジア的専制」(p.53)を示す。
私=岩田のトリアーデ体系論、すなわち、M系列(自由、交換、市場、私有、自殺・・・)、P系列(平等、再分配、計画、公有、他殺・・・)、C系列(友愛、互酬、協議、共有、兄弟殺し・・・)のうちのP系列あるいは、P・C系列のアマルガム、一言で言えば、自由を基軸理念としない「全く異なる政治経済の類型」が『一八世紀の秘密外交史』においてマルクスによって発見され、かつ徹底的に憎悪されていたと言う事になる。
私=岩田は、旧著『現代社会主義の新地平』(日本評論社、昭和58年・1983年、pp.47-56)で、M系列近代化の起源をアメリカ・フランス革命、Pのそれをロシア革命、Cのそれをユーゴスラヴィア革命に措定した。仮に、ウィットフォーゲル「序」におけるマルクス解釈が正しければ、P系列近代化の出発点は、ピョートル一世によるロシア文明化に求めねばならない。
石井・福本訳書の英文書名は、Secret Diplomatic History of the Eighteenth Century であり、M.E.C.Wのそれは、Revelations of the Diplomatic History of the 18th Century である。M.E.C.W の第15巻序文17ページのうち3ページばかりが『一八世紀の秘密外交史』にあてられている。そこには、18世紀英露外交史に関してマルクスが使用した資料の極端な偏向性やウィッグやトーリーの政争を反映した傾向性が指摘されている。『一八世紀の秘密外交史』は、歴史研究と言うよりは、政治パンフレットであって、英露関係に関して、意図的に、ある特徴を焦点化し、他の特徴を黙殺している、と注意される。
また、モンゴルの支配から抜け出してモスクワ国家が成立して行く過程を分析するに際して、マルクスが用いた本(フランス貴族 Ph.Ségur、1829)は、当時すでに時代遅れのものだった、と指摘されている。
石井の「あとがき」にも、福本の「解説」にも第15巻序文を念頭に入れた形跡がない。編集者チームにドッブやホブズボームの如き英国人マルクス主義者が参加しているのであり、ウィットフォーゲルの「序」を採用する社会思想的意味はわかるが、同時に第15巻序文も亦紹介された方が良かったのではないか。
本訳書は、1899年にマルクスの娘エリノアによって編集出版された単行本を底本としている。エリノアによって削除された部分があって、それは1856年から57年にかけて刊行されたフリープレス版によって補充されている。補充された部分は、第五章「近代ロシアの根源について」(pp.173-191)の最後の四分の一(pp.186-191)である。
そんな第五章の結論として、マルクスは断言する。「要約してみよう。モスクワ国家が育まれ、成長したのは、モンゴル奴隷制の恐るべき卑しき学校においてであった。それは、農奴制の技巧の達人になることによってのみ力を集積した。解放された時でさえ、モスクワ国家は、伝統的な奴隷の役割を主人として実行し続けていた。長い時間の末、ようやくピョートル大帝は、モンゴルの奴隷の政治的技巧に、チンギス・ハンの遺言によって遺贈された世界征服というモンゴルの主人の誇り高き野望を結びつけた。」(p.191、強調は岩田)
これは、モスクワ国家からロシア帝国へのピョートル大帝による跳躍的発展に関するマルクスの結論である。何故に、マルクスの娘エリノアは、かかる重要個所を含む部分を削除したのであろうか。その疑問は、ウィットフォーゲル「序」にも、訳者「解説」にも、訳者「あとがき」にも提起されていない。
私=岩田は、上記引用文における「チンギス・ハンの遺言」なる表現が疑問への解答のヒントになると思う。「チンギス・ハンの遺言」は誰も読んだことがない。勿論、マルクスもだ。しかしながら、マルクスは、「ピョートル大帝の遺書」は読んでいただろう。
『クリミア戦争 上』(オーランドー・ファイジズ著、染谷徹訳、白水社)によると、ピョートル大帝は、「バルト海から黒海に到る広大な範囲に領土を拡張し、・・・欧州大陸からトルコ人を放逐し、東地中海地方(レヴァント)を征服し、欧州大陸の支配者になる。」(p.127)と言う国家目標を遺言した。
Gi Metan、Rusija―Zapad Hiljadu Godina Rata Rusofobija od Karla Velikog do Ukrajinske Krize、Informatika、Beograd、2017、『露-西欧 千年戦争 カール大帝からウクライナ危機に至る嫌露』(G.メタン著、仏語からのセルビア語訳、2017年、pp.142-5)に従って、以下二段落を書く。
「ピョートル大帝の遺書」は、1812年ナポレオンのロシア侵攻直前にパリで刊行された500ページ近い大著の中で公表された。わずか2ページであるが、その大著の本質的要であった。それ以来、ロシア帝国欧州征服脅威論の決定的物証として英国を始めとするヨーロッパ諸国で翻訳出版された。19世紀だけでなく、20世紀においてもそうだ。例えば、東西冷戦の始期、トルーマン大統領は、この遺書を「スターリンを理解する上で貴重だ。」と評価したと言われる。それほどに西欧諸国の対露嫌悪感形成に大役を果たしてきた。
「ピョートル大帝の遺書」は、偽造文書であった。1879年に判明した。ルイ十五世の時代にフランス外交官がウクライナ人、ハンガリー人、そしてポーランド人と協力して創作したものであった。しかしながら、王朝フランスもナポレオン・フランスも「ピョートル大帝の遺書」を真正な事実として受け止めた。そして、この遺書が国家社会の対ロシア観を最も強く規定したのは、フランスではなく、英国であった。
ピョートル大帝のロシア文明化とロシア海軍創建を最も強く支援したのは英国であった。そのイギリスが望んでも果たし得なかった大ナポレオン軍の撃破とパリ占領は、ピョートル大帝から百年後のアレクサンダル一世によって実現された。かくして、英国の社会心理にロシア脅威論が定着し、「ピョートル大帝の遺書」が脅威論の物証となる。マルクスも亦そんな空気を吸いながら、執筆していた。
マルクスの『一八世紀の秘密外交史』の第1章「1700年代のイギリス外交とロシア」、第2章「北方戦争とイギリス外交」、第3章「イギリスのバルト貿易」、第4章「イギリスとスウェーデンの防衛条約」、第6章「ロシアの海洋進出と文明化の意味」は、ナポレオン没落後以降のヨーロッパ国際関係におけるロシア帝国の重い存在感、そんな空気の中で書かれた政治パンフレットとして、今日でも18世紀英露外交一裏面史として真面目に読むことが出来る。
ピョートル期以前、ロシアのコサック兵達は、モンゴル勢力圏を避けて、その北辺人跡希な地帯を東へ東へと進んで行った。毛皮を求めてだ。そしてとうとうオホーツク海に達し、黒竜江に姿を現した。1643年のことだ。そこでロシア兵は清朝八旗軍と衝突する。豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本軍の火縄銃一斉射撃の威力を実体験して強化された李朝銃隊が清朝の命令で出撃し、ロシア兵を撃退したのは、この頃のことだ。
ピョートル即位後かつ親政前、1689年にロシア帝国は清朝とネルチンスク条約を結んだ。その頃のロシア帝国は、ヨーロッパにとって辺境の大国にすぎなかった。ピョートルは、帝国の発展方向を西方へ定めた。バルト海方面への進出である。17世紀、かの30年戦争に見られるように、スウェーデンは、中欧とバルト海の覇権国であった。当然、新興ロシアと衝突する。かくして、18世紀の初頭、21年間におよぶロシアとスウェーデンの北方戦争が始まった。海洋大国イギリスが新興ロシアを手助けして、バルト海の雄スウェーデンを弱体化しよう、牽制しようとするのは、別にとりわけ不自然ではない。
北方戦争に勝利して、19世紀初頭にはナポレオン戦争に勝利し、ウィーン会議以後に「ヨーロッパの憲兵」として19世紀中葉の各地市民革命を弾圧する巨大反動勢力になるとは、ピョートルの時代、誰も想像しなかった。『一八世紀の秘密外交史』の第1章、第2章、第3章、第4章、第6章は、19世紀後半の革命家による後知恵的怒りの書であろう。
マルクスの筆法を借りるならば、新興日本と既存大国ロシアの衝突において、大英帝国が日英同盟条約を結んだ事を以て、新しいタイプのアジア的近代専制国家日本を創り出してしまった、と「田中上奏文」を読んだ西洋人が大日本帝国最盛期に語ることも出来たであろう。
しかしながら、マルクスの娘エリノアが最後の四分の一を削除した部分を含めて、第5章「近代ロシアの根源について」のロシア専制起源論は、今日のロシア史やモンゴル史の常識的情報を知っている読者が苦労して読むに値するものであろうか。
マルクスは書く。「単に名前と日付を入れ替えれば、イヴァン三世(在位1462-1505年:岩田)の政策と近代ロシアのそれとの間に存在するのは、相似性ではなく、同一性であることがわかるだろう。イヴァン三世としては、イヴァン一世カリタ(在位1325-41年:岩田)によって遺贈されたモスクワ国家の伝統的政策を完成させたにすぎない。」(p.190) 「それは名前や位、敵対勢力の性格がどんな変化を経ようとも、なおピョートル大帝(在位1682-1725年:岩田)と近代ロシアの政策である。」(p.191) かくして、先に引用した結論「要約してみよう。」に至る。分析なき断定、説明なき断定に続く判決的断定。肝腎要のカテゴリーである「モンゴル奴隷制」の構造規定さえ全く見られない。
ここで、私=岩田による前述の疑問に立ち帰ろう。マルクスの娘エリノアは何故第5章の結論部分を削除したのか。娘エリノアは、父親マルクスがこの論説を執筆するに際して、「ピョートル大帝の遺書」を読んでいた事を身近で知っていただろう。ところが、1879年になって、これが偽造文書である事が暴露された。昭和初期にアメリカで英文で発表された「田中上奏文」、すなわち田中義一内閣が満蒙征服→中国征服→世界征服なる大日本帝国の国策を昭和天皇に上奏したとされる偽書が国際政治に有効である限り、生き続けた事実を知る我々日本人ならすぐわかるように、マルクスの時代にも「ピョートル大帝の遺書」は有効に生き続けた。大思想家の娘エリノアにとっては、父親マルクスが「ピョートル大帝の遺書」なる偽書に惑わされ促されて「チンギス・ハンの遺言」とまでペンをすべらせてしまった知的不名誉は、この世から抹殺したい。こんな事情が第5章最後の四分の一の省略の裏にあるのではなかろうか。私=岩田の憶測にすぎないが・・・。
私=岩田は、ロシア国家が受けた「タタールのくびき」(1237-1462年)の影響を軽視しようとは思わない。ここでモンゴル史やロシア史研究者達にとって常識であっても、世間一般に余り知られていない史実を三つ紹介しておきたい。
――中国とロシアの交渉は、意外に古くからあった。13世紀にチンギス=ハーンのモンゴル帝国が、ロシアを支配下に収めたからでる。それでロシア人がカラコルムや大都(現在の北京)に姿を見せるようになった。それは『元史』にも記録され、その文宗本紀には、斡羅思(オロス)人を献じたとあり、順帝本紀には兀魯思怯薛丹(ウルスケシクテン:親衛隊組織)の記録があり、兵志には宣忠斡羅思扈衛親軍なるものが記載されている。この斡羅思、兀魯思は、多分ロシア人なのである・・・・・・。
宣忠斡羅思扈衛親軍も、兀魯思怯薛丹も恐らくロシア人編制の親衛隊で、ロシア人は剛勇を以て聞え、その兵力は1万人にも達した。彼等の中には帰郷できなかったものもあり、メンデス=ピントは、16世紀に山西省でその子孫に会ったという。――吉田金一著『ロシアの東方進出とネルチンスク条約』(近代中国研究センター、昭和59年・1984年、p.9)
――イヴァン四世(雷帝、在位1553―84年:岩田)は、1575年、ジョチ家の皇子シメオン・ベクブラトヴィチ(モンゴル名はサイン・ブラト)を迎えてクレムリンの玉座につけ、全ルーシのツァーリに推戴してこれに忠誠を誓っておいてから、翌年、譲位を受けて、あらためて自分がツァーリとなった。イヴァン四世がわざわざ、こんなめんどうな手続きを踏んだのは、チンギス・ハーンの子孫からツァーリと称する権利を譲られるという形式をとって、モスクアのツァーリの位に正統性を付与するためであった。こうしてモスクワ大公家は、モンゴル帝国のハーン家たちの仲間入りをすることができた。――岡田英弘著『日本人のための歴史学』(ワック、2007年、pp.149-150)
――キプチャク・ハン国では、モンゴル帝国同様、宗教上の寛容が認められていたが、のち十四世紀のウズベク・ハンの時代に、イスラムがハン国の公式の宗教となった。イスラム教を受け入れなかったタタール人はルーシに流れ、公に仕えるにいたる。その結果、つぎのようなタタール出自のロシア人の姓が生まれた。アクサーコフ、アラクチェーエフ、ブルガーコフ、ゴーゴリ、ゴルチャコーフ、ジェルジャーヴィン、カラムジン、コルサコフ、ストローガノフ、タチシチェフ、トレチャコフ、トゥルゲーネフ、ウルーソフ、チャダーエフ、シェレメーチェフ、ユスーポフ。すべて代表的なロシア人の姓である。――和田春樹著『ヒストリカル・ガイド ロシア』(山川出版社、2001年、p.36)
さて最後に大英帝国とモンゴル帝国の関係についても述べておこう。印度のムガール帝国は、言うまでもなく、モンゴル帝国の流れである。マルクスが『一八世紀の秘密外交史』をロンドンのジャーナリズムで発表し終わった丁度同じ頃、印度ではイギリス統治に対するセポイの大反乱が起った。反乱軍兵士達は、捕虜になると数人づつ束にされて、大砲の前に立たされ、砲撃で粉々に処刑された。二人の皇子を失った、そして盲目のよぼよぼに老いた最後のムガール皇帝はビルマに流刑された。
――ホドソン大佐は、ムガール帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー二世の身柄をデリー郊外で拘束した。・・・。大佐が皇帝とその息子たちを街に護送する頃には、人々が沿道に大勢集まっていた。・・・ますます脅威になっていった。ついに暴徒を抑えるため、大佐は王子たちの処刑を命じた。ふたりは群衆の前に押し出され、人々がじっと見守るなかで頭を粉々に吹き飛ばされたのだった。――アミタヴ・ゴーシュ著『ガラスの宮殿』(小沢自然/小野正嗣訳、新潮社、2007年、p.57)
専制打倒!「資本の文明化作用」の力の前に「モンゴル奴隷制」はかく消え去った。
自由万歳!20年後大英帝国が成立し、ビクトリア女王が女帝となった。
市民社会好みのかかる二色の歓呼だけでは未来が開かれない時代に我々は生きている。
令和5年5月11日(金)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13023:230517〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。