世界のノンフィクション秀作を読む(9)マイケル・ルイス著『マネー・ボール』 資金面で圧倒的に劣る球団が如何にして勝つか(上)
- 2023年 6月 7日
- カルチャー
- 『マネー・ボール』ノンフィクションマイケル・ルイス著横田 喬
アメリカのノンフィクション作家マイケル・ルイスが2003年に著した『マネー・ボール』は大リーグ関係者を揺るがした。本のテーマは明快で、資金面でライバルに圧倒的に劣るチームが、いかに勝つか。その実例として、当時のオークランド・アスレチックスがデータ分析を駆使しながら、他球団が過小評価している選手を発掘する過程を詳細に描いた。
カンザス州の缶詰工場で夜間警備員をしながら、野球のスコアなどを分析していたビル・ジェイムズは1977年、野球についての著作『野球抄――知られざる18種類のデータ情報』を自費出版する。88年まで毎年出版を重ね、次第に影響力を広げていった。彼がこの著作で示した考え方は二十一世紀早々、アスレチックスのチーム作りの主柱となる。
アスレチックスの当時のゼネラル・マネージャー、ビリー・ビーンは難問を前に、頭を抱えていた。(ヤンキースの真似はできない。同じやり方をしたら、必ず負けてしまう。向こうには三倍の資金があるのだから)。敵は1憶2600万㌦投資して25人の選手を雇い、当方は手元資金が4000万㌦しかないのだ。お買い得の選手を、どう探したらいいのか。
当時、平均的なメジャーリーガーの年俸は230万㌦だったが、アスレチックスは150万㌦弱。元手がないから、お買い得の選手を探すほかない。無名の若い選手か、あるいは、過小評価されているベテラン選手を見つけなければいけない。ただここ四半世紀の選手年俸の高騰ぶりを考えると、安く買い叩けるメジャーリーガーなど、まず存在しそうにない。
もし、市場が正しく合理的に機能しているなら、有能な選手は全て金持ち球団が抱え込んでしまっている筈で、アスレチックスには望みがない道理だ。ところが、現実にはチャンスをものにしている。なぜだろう? 皮肉というべきか、メジャーリーグ全体が一丸となって、この疑問の答えを探す羽目になる。
1999年のシーズン終了後、メジャーリーグ野球選手会が<球界の財政に関する諮問委員会>を設立。「現在の球団経営スタイルが、試合の勝敗に不公平をもたらしているのでは、という設問」について検討することになる。メジャーリーグ機構のコミッショナーであるバド・セリグが四人の有識者(元上院議員・大学学長・コラムニスト・銀行家)を諮問委員に指名。この四人が、『大リーグにおける経済格差』について報告書をまとめることとなる。
セリグは当時、最も資金力が乏しいと見られるミルウォーキー・ブリュワーズのオーナーだった。ブリュワーズが間抜けだから弱いのではなく、資金が足りないだけなのだ、と証明したいに違いなかった。翌2000年7月、諮問委員会は報告書を作成する。「資金力の乏しい球団は不公平を強いられている。そういう不公平は球界全体に悪影響を及ぼしており、こうした貧富の格差を是正する手立てを講じるべきだ」と結論した。
その貧富の格差は、最も資金力のある7チームと資金力のない7チームを比べた場合、メジャーリーグの総年俸の格差は4対1。これに対し、プロ・バスケットボールは1.75対1,プロ・フットボールは1.5対1だった、と言う。「球界は成功を金で買っている」と諮問委員の一人(コラムニスト)は断じ、「これはゲームではなく、犯罪だ」とまで糾弾した。
この主張は一見もっとものようだが、事実と食い違う点もあった。それを明確に指摘した委員が唯一人いた。委員の中で唯一の財界出身者ポール・ボルカ―(元連邦準備制度理事会議長)で、他の三人が貧富の格差を憂える中、興味深い疑問点を二つ挙げた。①資金力の欠ける球団がそんなに酷い状態なら、なぜ大金を出してオーナーになりたがる人間が存在し続けるのか?②資金が乏しくて勝てないのなら、全球団で二番目に総年俸が安いオークランド・アスレチックスは、なぜこんなに勝ち星が多いのか?
オーナーたちは①の疑問点には明快な答えが出せなかったが、②に関しては当事者のビリー・ビーンを引きずり出し、本人に説明させることにした。前年の1999年、アスレチックスは87勝75敗でプレーオフ進出こそ逃したものの、ビリーの就任直後の98年は74勝88敗だったから、飛躍的な進歩を遂げたと言ってよい。2000年も快進撃を続けており、何か秘訣があるのでは、とボルカ―は睨んだのだ。プロ野球の成績が財力だけで決まるのなら、例外が存在するのはおかしい。貧しい球団がどうやって大幅に勝ち星を増やしたのか?
ビリー・ビーンはニューヨークへ出向いた。証言することにやぶさかではなかった。アスレチックスは不平等を強いられていると判断が下れば、むしろ好都合だ。選手の総年俸を制限すべきだと決まっても、何の損もない。金持ちヤンキースが他球団に資金提供すべきだと決まれば、益々結構。ビリーは諮問委員たちの面前でスライドを操作し、こんな画面が写る。
映画『メジャーリーグ』:万年最下位のクリーブランド・インディアンスがモデル。<あらすじ>わざと弱小チームを作るため、オーナーが春季キャンプに三流選手ばかりを招集。野球関係者は口々に、「既に盛りを過ぎた選手ばかりではないか」と批判する。選手名簿を見たファンは「名前も知らない選手が半分いる」と口々に嘆く。ビリーは呟いた。
――我がチームの状況は、この映画に酷似しています。
ビリーは悲哀を誘うすべを心得ており、諮問委員たちに切々と語りかけた。アスレチックスにはスター選手を雇う余裕がないせいで、どんなにチーム成績が良くてもファンを増やせない、と。(但し、これは事実に反する)。アスレチックスの様々なマーケティング調査によれば、ファンが一番重視するのは、やはり勝ち星だ。
無名選手を集めて勝利すれば、ファンが増え始め、やがて無名選手が有名選手になる。逆に、有名選手ばかりを集めても、負けてばかりいればファンは球場に足を運ばず、有名選手は無名選手に成り下がる。陽の当たらない選手たちを緻密な軍団に育てて、スターが誕生していく様子を眺めることは、貧しい球団を運営する者にとって極上の幸せだろう。
ビリーの証言は更に続いた。「アスレチックスはよそ並みの年俸を支払えないので、目下の良いチーム状態を長くは維持できない、と思う」。諮問委員が正に聞きたかった通りの回答かもしれないが、ビリーの本心ではない。ボルカ―が薄々感づいたように、野球選手市場は曖昧な基準に頼っている。優れた経営手腕は、うず高く積まれた札束より強い。それをビリーは現場で実証して見せている。1999年に87勝だったアスレチックスが、2000年には91勝、2001年にはなんと102勝して、2年連続でプレーオフに進出したのだ。
年々、金銭面では分が悪くなって行くのに、勝ち星は逆に増えて行く。ひょっとすると、他球団が気づいていない真実をつかんで、投資効率が上昇し続けているのかも知れない。(ビリーはそうだと信じている)。2002年のシーズン開幕当初、最小の投資で最大の効果を挙げるアスレチックスは、何とも不可思議な存在として浮上していた。コミッショナーのセリグらは「異質な例外」と呼び、「連中は運がいいんだ」と呟いた。
開幕の時点で、ヤンキースとアスレチックスの総年俸の差は1999年に6200万㌦だったのが、2002年には9000万㌦となった。おまけに2002年、アスレチックスに悪夢が襲いかかる。実力証明済みの花形選手を三人、フリー・エージェント(FA)で金持ち球団に攫われてしまったのだ。J・イスリングハウゼン、J・デイモン、J・ジオンビーの面々である。
資金の潤沢さで全てが決まると主張するセリグのような人間からすれば、アスレチックスがくじけないのは全く不思議だった。勝利の望みを無くした場合、プロスポーツでは“再建中”と呼ぶ。メジャー球団のうち5チーム前後は常にそんな有様だ。だが、アスレチックスは違う。勝ち続ける気持ちを失わない。
2001年に102勝したアスレチックスは、主力選手を三人も失った翌年も95勝を挙げ、プレーオフ進出資格を得ている。前年より7勝しか減らない計算になり、なぜだろうか?とチーム作りへの良い意味での疑問が湧く。この数字のマジックを理解するために、アスレチックスの損失と、三人の移籍先チームそれぞれの利益について、もう少し踏み込んでみる。
先ずイスリングハウゼン。元々99年のシーズン半ば、トレードで獲得した選手だ。彼は当時、ニューヨーク・メッツのマイナーリーグで投げていた。ビリーは彼と、もっと年俸の高い投手をもう一人プラスこの投手の年俸に当たる金銭をまとめて獲得。代償として手放したのは、それまで自軍でクローザーをやっていたB・テイラーただ一人。この投手も、その数年前にビーンが自らマイナーリーグで見出し、僅か数千ドルで獲得した選手だった。
ビリーは、マイナーリーグの無名選手をメジャーで成功させ、いずれFA宣言した折には数百万ドルの値が付くような金の卵を遥かに安く働かせる。テイラーやイスリングハウゼンの例でよく判るのは、「守護神は買うより育てる方が効率がいい」。既に実績のあるクローザーは当然高い。が、その実績を表す「セーブポイント」の数字は、監督の匙加減一つでどうとでも変えられる。ビーンは、この手を二回使った。今後まだまだ使うつもりでいる。
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