同性婚公認は社会革命だ――世紀後半はインセスト・タブー(近親相姦禁忌)の部分的解消か――
- 2023年 6月 19日
- 評論・紹介・意見
- 同性婚岩田昌征
令和5年6月16日(金)「LGBT理解増進法」が成立した。
5月30日(火)に名古屋地裁が「同性婚認めぬは違憲」判決を下していた。判決要旨に「同性カップルが法律婚による重大な人格的利益を享受することから一切排除されていることに疑問が生じている。現状を放置することは、個人の尊厳の要請に照らして、合理性を欠き、・・・。」(『朝日新聞』5月31日(水)朝刊第31面、強調は岩田)
異性婚家族は、会社や組合等の他の人間集団とは異なって、性愛、出産、共通実子の育児によって世代を再生産するミクロ社会である。21世紀令和の御代同性婚家族が誕生した。性愛、出産(他者の卵精子による)、非共通実子や養子の育児を通して、次世代の育成を担い得るミクロ社会である。同性婚、すなわち同性家族が社会的慣習・習俗の一つに定着する事は、政治革命や経済革命を超えた社会革命だ。一つの社会的タブー(禁忌)が解消したのである。これは、立法問題にとどまらぬ社会思想・社会哲学の主題のはずだ。
私=岩田は、この論題に関して、哲学者諸氏の教えを乞いたい。
ヘーゲル『法哲学』の第Ⅲ部人倫は、第一章家族(A婚姻、B家族の資産、C子どもの教育と家族の解体、家の市民社会への移行)、第二章市民社会、第三章国家、と言う順序で議論される。ヘーゲルの婚姻は徹頭徹尾異性婚であり、ヘーゲルの家族はあくまで異性家族である。ヘーゲルにとっても、同性婚はタブーの領域にあったと見てよいだろう。令和5年の御代にタブーが解消した。
その場合、市民社会論や国家論にタブー消滅=同性婚家族肯定の、市民社会論や国家論への論理的影響が当然予想される。ヘーゲル研究の哲学者諸氏はこの疑問にどう答えてくれるのだろうか。
先日6月13日(火)専修大学神田でルネサンス研究会例会が開かれ、高橋順一氏(早稲田大学名誉教授)の報告を聴いた。伊吹浩一著『はじまりの哲学 アルチュセールとラカン』(社会評論社 2022年)評である。
私=岩田は、アルチュセール、フロイト、ラカン、バタイユ等連発される思想家達の思想内実に全く無知である。ではあるが、高橋氏のA4版6ページのレジュメと黒板を用いた氏の図解のおかげで、伊吹氏や高橋氏の研究が今日の同性婚問題に関連がありそうだと感じた。私=岩田が理解できた限りで、両氏は、異性婚家族社会内で深く進行する父、母、子の間の無意識的、あるいは深層意識的癒着分離の相克から現代資本主義国家のイデオロギー支配、伊吹氏の用語法では「『体制』に従順に従う『自由な主体』」の形成へと議論を進めて行く。
一見して、ヘーゲルの家族、市民社会、国家と同形である。それ故に伊吹氏と高橋氏にもヘーゲル研究の哲学者諸氏へ出したと同質の設問が出て来る。
しかも、両氏の場合には社会的タブーに密接する「エディプス・コンプレクス」――高橋氏のレジュメには明記されていないが、当然「エレクトラ・コンプレクス」――が陽表的に議論されているから、同性婚=同性家族の社会的習俗化の方向性は、ヘーゲルの場合より強く氏等の立論に反射するはずである。
同性婚は一般に社会的タブーであったが、異性婚についてもタブーが存在した。いわゆる近親相姦禁忌(インセストタブー)である。
愛する二個人が兄弟であった場合
〃 姉妹 〃
〃 父娘 〃
〃 母息子 〃
〃 兄弟姉妹 〃 。
上二例は、同性婚であり、今や許容され得る。下三例は、異性婚であり、許容され得る。しかしながら、近親婚タブーに触れるが故に五例ともに許されない。同じくタブーであった同性婚タブーが解消した。とすれば、近親婚禁忌も亦解消される可能性が社会的に生まれつつあるのではないか。同性婚禁忌の法律的否定の原理が「個人の尊厳の要請」である。
父母息子娘を個体、つまり完全な自立自足的個人と見なせば、夫々が同性婚であれ、異性婚であれ、新しいカップルに連合したいと切望したならば、名古屋地裁の判決原理=個体主義に準じれば、何等かのタブーがはたらかない限り、法的には否認できない。
『古事記』によれば、親子婚は「上通下通婚」(おやこたわけ)と言われ、罪であった。また木梨の軽太子と軽大郎女の悲劇の如く、同母兄妹の結婚も亦罪であった。この例は、最高位の支配者にさえ社会的タブー破りが許されなかった事を示す。法より厳しい。
しかしながら、父親は同じでも、異腹の兄弟姉妹間の婚姻は許されていた。すなわち、incest taboo(近親相姦禁忌)は、絶対的ではなかった。
同性婚容認から始まった社会的タブー崩れの行く先は、個体の私有財産神聖論に立脚するウルトラ資本主義か、概念規定がいまだ定かならぬ「個体的所有」論に定礎するコミュニズムか。いずれにせよ、家族市民社会ではなく、個体市民社会。
高橋先生は、伊吹後生の新著を新書250頁に相当する覚書を作りつつ読んだと言う。そのエッセンスが例会出席者に手渡されたレジュメである。ここに日本思想界の一角に本物の世代間知的交流があった。先学をこれほど熱中させた後学の新著とはいかなるものか。門外漢の私=岩田も手にとりたくなり、社会評論社に電話発注した。その際、社長の松田健二氏と会話する中で、本文の問を発した。その疑問、それなりに意味がありそうだ。「『ちきゅう座』に書け。」との社長発言あり。故に門外漢の疑問をあえて明示する。
令和5年6月17日(土)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13088:230619〕
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