樺さんへ― 6月15日と今
- 2023年 6月 20日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
樺さん、あなたがあの闘いの中で亡くなられてから随分と月日が経ちました。6月という季節は鬱陶しい雨の季節ですが、紫陽花の美しい季節ですね。多分、あの1960年の6月15日も街には紫陽花が美しい花を咲かせていたのでしょうね。でも、僕はあの時は目に入りませんでした。6月になると自然に紫陽花を思い、街々で見入るようになったのは幾分か後です。記憶に残っているのは1970年ころからでしょうか。あの時は目に入らなかった紫陽花が目に浮かぶようになったのは風景が変わったのではなく、僕の風景を見る目が変わったのですね、
樺さん、あなたが亡くなられたあの日の国会構内の情景は今も思い浮かびます。小雨が降りだし、暮れなずむ国会構内は忘れがたくあります。国会構内にダリケードとして並べられていたトラックを引き出していた光景は忘れがたくあり、脳裏に浮かびます。数珠つなぎのような形で手を組み、門を開き、僕らはトラックを引き出していましたね。あの後の国会構内での機動隊との押し合いなど、数々場面が忘れがたい記憶としてあります。僕は体が浮き上がるのを防ぐのに必死でした。日々のデモの中で体が浮き上がる危険を察知していて、地から足が離れないようにしていました。冷や汗の出る思いで何度か夢でみたことでもあります。
あんたと共のあの場面に立ち会っていた友は次々とあなたの方に旅立っていきました。そして世間ではあの闘いは、歴次的な事件として記号のようなものなってきています。あそこで何が起きたのかは記号の中に封じ込められてしまっています。僕はあの闘いが記号のようになってしまっていくことに抗うといしてきました。何故なら、僕にとってあの時の記憶は場面、場面の記憶ではなしに、もっと違った何かを残すものであり、何月何日に何々があったという事実の期日を記号にしたようなものには収まり切れないものがあるからです。それは記号として封じ込められるものではなく、絶えず生々しく想起し、現在にそして未来に向かって生きてあるものだかです。この記憶は紫陽花の花が目につくようになったように、当時は思っていなかったことに気が付く記憶です。無意識とした僕をうごかしていたものがみえてくることもあります。国家というか、権力は
この闘いを記号のように封印してきました。あるいは都合のいい部分だけを残して残してといようにです。それが国家や権力のいつもの手口ですし、権力に反抗した行為に対する対応なのですね。
そして、不思議なことはあの闘争を指導した(そういう位置にいたということも含めて)人たちの多くも、一種の記号の中にこれを封じ込めようとしてきました。一部の人を覗いてなのですが、総括という名で記号のなかに封じ込めてきました。これは体が勝手に動いてやってしまったことを怖れて理念に封じ込めようとするようなものです。国家や権力とはやり口はちがうのですが、一種の封じ込めですね。
樺さん、僕はあの時に大学に入ったばかりであり、19歳でした。幸か不幸か革命的な理念の洗練を受けていませんでした。体が先に動いた闘いだったのかもしれません。ただ、この行動を革命的理念に取り込みそこで行動の意味や価値を定めようとは思いませんでした。その闘いは伝統的な革命的理念としてあるものからはみ出している、それから外れているものであり、そこに収めきれるものではないと思いました。伝統的な革命理念からいつ脱している行為でと批判するよりは伝統的な革命理念の方を疑えというきもちんさせるもんだした。
この気持ちは理念的(革命の理念も含めて)には未知なものに踏み込んだものであり、革命の理念として人々を支配してきたもの伝統的な考えに疑いをはさむことをうながし、伝統的な革命観から解放されるようなものでしたね。
僕らは本当の革命理念(革命理念とは社会主義革命がやってくるというものでしたが)、これを探求する一方で、この闘いを国家や権力に対する運動(運動形態)として存続させようとしました。これにはマルクスの共産主義とは市民や地域住民のたえざる反抗という運動にあるのであって、イデオロギーにはないという考えから示唆を受けていました。だから、6月15日の記憶を生きた記憶として引き継ぎために運動のことに心を配ってきました。1960年代後半の全共闘運動はその一つでした。
樺さん、僕らは6月15日を権力に対する異議申し建ての運動の面で引き継ぐことに注力しながら、革命的理念の問題を模索してきました。伝統的な革命理念として僕たちの前にあったのはマルクス主義だったのですが、僕らがきがつき、葛藤したのはマルクス主義はダメだということでした。これは6月15日の僕らの闘いに敵対した日本共産党や革命的マルクス主義派の根本にある理念(綱領)を導くものでありました。そこでマルクス主義にかわって本当の社会主義を求めるということになったのですが、そのこころみは成功しませんでした。現在も続いています。ここには全共闘運動をピークとする反政府・反権力の運動の衰退ということもあり、ソビエトの崩壊もありました。大きな意味では左翼、左翼運動の衰退ということがありました。こんな中でも僕は6月15日の記憶を、あるいはその記憶がもたらすものを過去という記号に封じ込めで未来につなげていこうとしてきました。現在もそんな中でもがいています。
樺さん、僕はあなたに僕があの記憶を忘れず、記憶が促す問いに答えられたとおもうものを報告できたらと思ってきました。これはという報告ができるとは思えないのですが、僕なりにあります。核心的なことだけを語っておきたいとおもいます。マルクス主義の革命論は社会革命論と政治革命論があるのですが、特に政治革命論(統治観力諭)に根本的な欠陥があったといことにきがつきました。これはレーニンや毛沢東を革命的な権威として僕らの前に存在せしめてきたのですが、その政治革命論(統治論)に致命的な欠陥がということですね。レーニンモ沢東や政治論(権力論)は革命後の権力創出では失敗の要因になったのですが、反政府や反権力、いうなら反体制の運動にも悪作用したのです。6月15日に日本共産党が革命的マルクス主義を名乗る面々がなぜ、あの行動に敵対したのかの秘密は彼らの綱領とでもいうべき政治革命論に会ったのですね。当時、僕らも遺伝的に受けつぐことをしいられていた社会主義革命論は政治革命論と社会革命論があったのですが、政治革命論の方の欠陥は大きかったのですね。プロレタリア文学論というのがかつておおきな力を発揮し、やがて消滅していったように、プロレタリア政治論というのはだめだったし、消えて行くべき運命にあるのだと思います。プロレタリア政治論といのは「プロレタリア独裁による統治」という社会主義権力論のことです。政治革命というのは政治権力をどうかえるのか、どのような権力にするのか、ということであるのですが、これに失敗した政治権力論だったということですね。でもこれは過去のことではありえません。
プーチンや習近平の権力はそれと無縁ではなく、その現在的な存在ですから。プーチンの戦争をまともに批判できない(習近平の戦争についてはそれをよそくさせるものですが)、左翼はレーニン主義矢も沢東思想から脱していない存在だということを暗示しているのですね。曖昧で、プーチンの擁護に動いてしまう左翼はやはり伝統的左翼から脱し切れていないのです。
樺さん、僕は長引くウクライナへのロシアのしんこうのことを思いながら、こんなことをつぶやいています。このつぶやきは、樺さん、あなたへの報告です。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13089:230620〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。