『被爆インフォデミック』(西尾正道) ―放射能汚染水の海洋放出を目前にしてー
- 2023年 8月 7日
- 評論・紹介・意見
- 三上治
(1)
放射能汚染水の海洋放出(投棄)が目前となっている。放出用の工事も完成し、後は政府の決断の次第となっている。この事態に対して韓国や中国、また、太平洋諸国からの反対や危惧の声は多く届いている。日本国内でも反対の声は大きくはなってきているが、それでも反応はいまひとつと言える。東電(電力業界)や官僚・政治筋は汚染水(彼らは処理水と称している)が安全であり、健康への影響は微量だという宣伝をしている。東京駅などにそのポスターが恥ずかしげもなく張り出されている。そして、この宣伝はそれなりの功を奏していて「安全らしい」という意識は浸透しているように見える。この海洋放出に一番の影響を受ける魚業従事者たちは漁連という形での反対を表明しているが反対運動の展開にまでは至っていない。福島の漁民は合意なしには海洋放出しないという約束事を一方的に反故にされようとしている。
ここには福島第一原発の事故以来の放射線被爆についての攻防の歴史がある。福島の原発事故以来呈した原発の再稼働という問題と、放射線被爆の問題が登場した。再稼働をめぐる攻防についての言及は省くが、放射線被爆では
政府・官僚・電力独占体の無責任な放射能対策が続けられている。トリチウム
を含む汚染水の海洋放出(投棄)はその節目をなすものであり、この後には青森六ケ所村の再処理工場からの汚染水(一日に原発一基分の汚染水)放出が予測され、また汚染土の拡散的な処理が待ち受けている。こうした事態の中で、政府や官僚、電力独占体の政策(国民の健康被害などを無視した政策)に対して有効な抵抗策が見いだせないということも事実である。
それには二つの理由が考えられる、その一つは放射線被爆による健康被害、とりわけ低線量の内部被爆の健康被害は直ぐには症状が出ず、数年~数十年単位のこととなるため問題意識が希薄になるということがある。僕は放射線被爆の問題は水俣病のような問題として現象する(現象させる)ことを考えてはいたが、
放射線被爆と健康被害の関係(因果的関係)が見出しにくい(時間が関係するため)ための難しさを思わざるを得なかった。もう一つの理由は放射線被爆と健康被害の関係を無視、あるいは隠蔽する科学(エセ科学)の言説が横行したことである。「この10年間は科学的にいえば、まったくインチキな放射線の人体影響
に関する知識が流布される期間であった」(『被爆インフォデミック』西尾正道)とあるがその通りだった。例えば、福島での「子ども甲状腺がん」について放射線被爆との関係が否定されるような言動を存在させたこと、その流布を許したことは象徴であり、海洋放出の言動はその延長にあるものといえよう。
(2)
政府やそれにつらなる専門家たちの安全安心神話(例えばトリチウムについての安全神話)が一方的に流されるのに対し、その神話(嘘)を暴く部分の闘いが弱いというか、困難な場に立たされている。福島第一原発の事故の直後には放射線被ばくの問題がシーベルト(放射線線量)の許容範囲をめぐって話題になったことはある。しかし、その議論はその後に発展しないできた。政府や官僚たちの放射線被爆についての対応がそれなりに巧妙だったこともあるが、彼らを背後で支えたICRP(国際放射能防護委員会)やそれと組んでいるIAEA(国際原子力機関)が科学的な裏づけをしてきたこともある。日本の政府や官僚、電気独占体の対策は彼らの理論を支えにしている。IAEAは最近、処理水と称して海洋投棄する汚染水が国際的な安全基準に合致しているという報告書をだした。政府はあたかも国際的な権威機関からお墨付きでも得たかのような振る舞いをしている。ICRPもIAEAも権力や独占体とは独立した科学的機関ではない。こうした存在とそこから流布される、放射線被と健康被害の関係を批判し、科学的見解を
提示しているのが『被爆インフォデミック』(西尾正道)である。彼は長年にわたって放射線によるがん治療に携わってきた医師であるが、その経験を踏まえ
放射線被爆と健康被害の関係、とりわけ内部被爆の問題を言及している。放射能汚染水に含まれるトリチウムの問題も言及されている。インフォデミックとはニセ科学情報の拡散をいうが、著者はそれを「嘘も百万回いえば本当になる」手法でICRPに催眠術を掛けられている状態という。それから覚睡を期待して書かれたのが本書というが、僕らがほとんど知らされていない真実というか、その情報をえることで覚睡させられる。そういえると思う。
トリチウムを含む汚染水の海洋投棄について、政府や官僚、あるいは電気事業体はそれが安全であり、人体への影響はほとんどないというが、著者はこれについて次のようにいう。「トリチウムの問題は単に経済的な問題であるだけでなく、人類への緩慢な殺人であり、晩発性の健康被害をもたらす実害となることを国民は認識すべきである」(前同)。因果関係が実証しにくい晩発性の健康被害(人体)の影響をもたらすのがトリチウムの拡散である。これはトリチウムを含む汚染水の海洋放出(投棄)がほとんど無害という政府やIAEAなどの見解と真っ向から対立するものである。
(3)
政府や東電の海洋放出に対する見解と西尾の見解は対立する。政府筋は安全で身体に対する影響は考えられないというが、それには何らの実証も科学的根拠もない。ただ、放射線被爆の健康被害がすぐには症状が出ずにその発症が晩発性だということを利用して安全であると言っているに過ぎない。その安全性を根拠づけるものはない。確かに西尾の緩慢な殺人行為だというのも実証が難しいかしい。このことは西尾も自覚している。彼は放射線被爆が症状となって現れるのは晩発性であり、長い時間の中でしかあらわれないこと語っているからだ。
だから、本書の内容は20~30年たって見直されるかもしれないとか語っているほどだ。ただ、僕らは放射線被爆をたいしたとがないということや安全だと
いうことに疑念を抱いている。疑念を突き詰めるのは困難だとしても、それは政府筋の政策への不信としてある。この場合の根拠は内部被爆に対する軽視にあることもわかっていた。政府筋の放射線被爆に対する対策はICRPの勧告によってなされているが、その情報で操作もされている。放射線被爆の人体影響の目安はICRPの勧告が国際的採用され、日本をこれに沿って法体系がつくられているが、ここでの問題は放射線の内部被爆問題が軽視されていることだ。
国際放射能防護委員会とはいうもののICRPは民間団体(NPO)であり、原子力政策を推進する勢力から膨大な寄付や利益・便宜を受けている機関なのである。(中略)、このような原子力推進派のICRPやIAEA(国際原子力機関)の立場は、広島・長崎の原爆投下により得られたデータを根拠に、急性被爆モデルによる外部のみを問題にし、内部被爆問題を軽視することにしている。原子炉の保守・点検・修理・燃料等の交換などの運転コストを下げ、放射性廃棄物処分の費用などの費用を抑えるために、あえて内部被爆の健康被害を軽視する放射線防御体系を組み立てているのである」(前同)
政府が福島第一原発事故後に除染対策などに力を注ぎ、内部被爆の問題に対策も対億もしてこなかったことは明瞭だが、その背後にはICRPやIAEAの内部被爆問題の軽視がある。これは本書で詳しく書かれているが、ICRAやIAEAでは放射線被爆における内部被爆の問題が軽視されてきたし、そこに放射線被爆の
の認識とその対策と政府と西尾の対立がある。僕らは放射線被爆、とりわけ内部被爆の症状が見えるまで時間がかかることと、内部被爆問題の軽視が科学的よそおい持った形で流布されるという二重の事情で、放射線被爆への言及が困難に置かれてきたと言える。この西尾の見解は僕らの困難な壁を崩すヒントがあたえられる。西尾はガンの放射線治療に携わってきた経験とそこで得た知見から放射線内部被爆についての認識を提起している。放射線内部被爆という問題は放射線被爆をめぐる最も難しいし、根源的な問題である。西尾はこの問題にもっともよく迫っていると思う。ICRPでは放射線を「気体」として理解し、素粒子としては理解していないというところから始まる、内部被爆軽視の切開は一読して欲しい。
(4)
汚染水の海洋放出(投棄)だが、これは経産省の政府小委員会が2018年に福島での2か所(富岡町・郡山)と東京での公聴会でその意向が示された。この公聴会では反対意見が相次ぎ、大半を占めたが、政府は公聴会を、民意を聞いたアリバイとするだけで2021年には閣議決定し、実施の目前にある。この公聴会では汚染水に含まれるトリチウムの危険性が指摘され、タンクでの保管継続が求められたが、政府はそれを無視し、その実施を急いでいる。汚染水の保管タンクが満杯になること、トリチウムは薄めれば危険性はないというのが、政府の主張である。これは欺瞞にみちたもので保管という意味では福島第二原発の広大な敷地にタンクを増やせば済むことだ。それ以上に許せないのはトリチウムの放水が安全だという宣伝である。これはかつて原発が安全であるという神話にかわるものだ。かつて原発の安全神話は外部被爆を生じさせないというものであったが、今度はトリチウムが安全だという神話だ。西尾は先にも紹介したように、人類への緩慢な殺人行為だと指摘し、この安全安心神話の嘘を暴いている。
トリチウムを様々の形態で取り込みこと、それを彼は長寿命放射性元素取り込み症候として指摘している。内部被爆のことである。放出された汚染水に含まれるトリチウムは海産物などにとどまり、それを摂取した人に長い期間をとうして健康被害を蓄積させていく。それが病状としてあらわれるのに時間を経るにしても、危険(健康被害)の累積であることは論を待たない。政府がトリチウムを含む汚染水の放出が安全であると言い張るのは、処理水として危険性を取り除いたという子供だましのようなことは別にして、放射線内部被爆の軽視、あるいは無視、隠蔽がある。そのための理論装置を準備してきたのはICRPやIAEAであるが、放射線内部被爆への対応が根拠になっている。この本は放射線内部被爆の進展という観点からトリチウム(トリチウムを含む汚染水の放出)の危険性を指摘している。政府の安全神話の嘘は直ぐに理解されると思う。この本では政府・専門家のトリチウムの安全安心神話(嘘)と真実が箇条書き風にまとめられている(126p)。これは政府がトリチウム人体への影響は少ないということにたいして、環境中で濃縮される指摘している。僕らは環境の中に濃縮されたものを取り込み、放射線内部被爆にさらされるのである。このまとめられた箇所をよむだけでトリチウムに対する宣伝の欺瞞性が分かると思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13169:230807〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。