クリントン戦争とプーチン戦争の相似形――両戦争の終結様式に相似形ありやなしや
- 2023年 8月 27日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
露烏戦争は近現代ヨーロッパにおける国民国家・民族国家体制確立戦争の最終段階のように思われる。
①南欧におけるスペインとポルトガルの国民(民族)国家成立、
②西欧におけるオランダ、フランス、ベルギー、イタリアの国民(民族)国家成立、
③中欧におけるドイツ、オーストリア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキア、ポーランドの国民(民族)国家成立、
④東南欧におけるギリシャ、ブルガリア、セルビア、BiH、北マケドニア、スロヴェニア、モンテネグロ、アルバニア、コソヴォの国民(民族)国家成立、
⑤東欧におけるベラルーシ、ウクライナ、ロシアの国民(民族)国家成立、ただし未完。
16世紀から21世紀第1四半世紀にかけてラテン系諸民族、ゲルマン系諸民族、そしてスラヴ系諸民族が自分達の国民(民族)国家を成立させて来た。その過程の中で大方向と小方向の抗争があった。大イベリアか否か、大オーストリーか否か、大ドイツか否か、大ユーゴスラヴィアか否か、そして21世紀第1四半世紀に大東スラヴ国家形成か否か。プーチン露国に大志向があり、ゼレンスキー烏国に小志向があったとしても、ともにヨーロッパ国民(民族)国家体制形成史上の自然現象であって、前者を特段悪魔視し、後者を別格天女視する理由はない。
両志向の抗争が悲劇的血河に結果する、そして結果して来た大きな客観的要因は、準ヨーロッパ大国の干渉政策にある。すなわち、大英帝国と英国起源準ヨーロッパ国家アメリカとによる干渉である。そして、21世紀に入る以前は、ヨーロッパの国民(民族)国家形成問題は、英米主導で整序されて来た。その最新かつ最後の実例が1999年3月24日から6月10日に到るNATO大空爆によって実現されたコソヴォ国家のセルビアからの強制的分離と独立である。
21世紀第1四半世紀の露烏戦争は、もはやヨーロッパ諸国と準ヨーロッパ二大国の実力だけによっては、停戦も終戦も展望できない所にその世界史的意味があるのだろうか。
ここで、NATO対セルビア戦争と露烏戦争の相似形構図を対比しておこう。
コソヴォ分離独立 ⇔ ドネツク・ルガンスク等分離独立
NATO支援のアルバニアとの合併志向 ⇔ ロシアとの合併試行
本国セルビアの対コソヴォ政策:ATO、すなわち反テロ軍事作戦 ⇔ 本国ウクライナの対ドネツク・ルガンスク政策:ATO、すなわち反テロ軍事作戦
セルビアのATOに対してクリントンNATOが対セルビア大空爆侵略作戦=ウクライナのATOに対してプーチン露国が対ウクライナ特別軍事侵略作戦
セルビアはロシアから軍事的に無支援、外交的に弱支援 ⇔ ウクライナはNATOから軍事的に全面強支援、外交的に全面強支援
セルビアは人口と面積ともにウクライナの6分の1、NATOの軍事力は露国のそれを上回る。NATOは、セルビアが数日で降伏すると計算していた。それはプーチン露国の計算と同様に完全に誤算であった。しかも、ウクライナと異なって、セルビアは完全に独力で抗戦し続けた。ウクライナの場合、NATO諸国からの軍事的・外交的支援がなかった場合、何週間抗戦できたであろうか。
たしかに、NATO軍本体は、連日の大空爆だけにとどめ、地上軍を侵攻させなかった。しかしながら、アルバニアとNATOに支援されて越境するコソヴォ解放軍とセルビア軍との地上戦闘は激しくたたかわれていた。そのうえ、英米は、NATOに加盟したばかりのハンガリーに圧力をかけて、北からのヴォイヴォディナ侵攻を画策していた。当時のハンガリー首相オルバンはそれを拒絶した。2022年になって、セルビア大統領ヴゥチチは、その事実をオルバンから知らされ、その公表をオルバンから許されて、セルビアのジャーナリズムに語った。日本を含め、国際社会の関心を惹かなかったと思う。
1999年3月24日、NATO大空爆が開始された瞬間、ロシア首相プリマコフは、訪米のため、大西洋上の機中にあって、空爆を知って、即座に機をモスクワに向けて反転させた。NATO空爆への抗議の姿勢であった。
エリツィン大統領下の露国の対米硬はこれだけで終わった。5月中旬にはプリマコフは解任された。
親欧米のチェルノムイルジン元ロシア首相がロシア代表となって、フィンランド首相アハティサリと組んで、クリントン大統領、オルブライト国務長官、ストロブ・タルボト国務次官の、セルビア大統領ミロシェヴィチに対する強硬路線の実行役となった。コソヴォからのセルビア軍・セルビア警察の完全撤退が先決で、その完了を見届けた後に大空爆を停止する。さもなければ、地上軍の全面侵攻。ミロシェヴィチに交渉の余地を与えない。これが眼目であった。二人は最後通牒の説得役・使者にすぎなかった。
アハティサリの回想録、Marti Ahtisari、Misija u Beogradu、“Filip Višnjič”、Beograd、2001、(『ベオグラード使節』、フィンランド語からのセルビア語訳)第13章「ボン―ベオグラード―ケルン」(pp.173-184)にミロシェヴィチとの会談の様子が詳しい。
二人は、夫々、フィンランド機とロシア機で「破壊されたドナウ河の諸橋梁を見ながら、」6月2日の午後5時頃ベオグラードに着いた。5時55分にミロシェヴィチとの第1回会談。NATO要求を一条一条読み上げる。「撤退―確認―空爆停止」。6月3日午前9時、第2回会談。ミロシェヴィチは、「前夜、全議会政党の党首達にNATO要求書を見せた。今日の午前10時に議会が開かれる。その議会に出席してくれ。」と求めて来た。私=アハティサリは断った。午後1時に二人はミロシェヴィチと第3回会談。そこで、「政府と議会は御二人の持って来た和平提案を受け容れた。」と知らされた。
NATOの和平提案は、国際法上コソヴォはユーゴスラヴィア(セルビアとモンテネグロ)に属するが、事実上はそこから分離されると言うものだ。ミロシェヴィチは、実質上降伏したが、建前上主権を維持出来たことになる。
以上のような1999年6月上旬の国際的実力優位は、今日NATOと露国のどちらの側にも見られない。それを知りながらも露烏両国民間の非交戦状況実現への手立てを考える、それが私達第三者的実生活者=常民・庶民・凡人達の義理人情であろう。
市民社会の普遍的価値の担い手ではないかもしれない。
令和5年8月25日(金)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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