とうとうはじまったか 汚染水の海洋放出
- 2023年 8月 28日
- 評論・紹介・意見
- 三上治
テレビの報道番組を見ていた。場面は岸田首相と坂本全漁連等との会談だ。多分、8月22日の夜だった、と思う。「数十年に渡ろうとも全責任」を持つと岸田首相は言った。これを聞いていて僕は驚いた。こういう無責任なことがいえるなということであり、こういう発言自体が無責任をあらわしているが、岸田首相の
政治的資質というか、性格を示していると思えた。坂本会長はこれを重い言葉だと評していたが、どうしてどうしてこれは軽い言葉である。なんの根拠も確信もないことをその場を取り繕くるために言っているにすぎないからだ。これは一種の政治的放言である。「福島漁連との約束」を破っておいて、全責任を持つなんてどんな神経でいうのか、と誰しもがおもうことである。
この発言は「数十年にわたろうとも」という形で汚染水の海洋放出が環境に悪影響をもたらすだろうということを首相も否定していない、暗にそれを認めている。政府筋は汚染水の海洋放出が「安全である」とかIAEAのいう国際基準に合致しているなどというが、本当のところではそれを信じてはいないのだろうと思う。要するにこれらは根拠を持つ事ではなく、海洋放出のための方便(政治的言葉)にすぎないことが分かっているのだと思う。
汚染水の海洋放出にあたって僕らが注目してきたのはメデイアの発言だった。
政府が無理と危険を承知で海洋放出に踏み切ってきたのは政治的理由だった。彼らが言うように汚染水の保管が大変な状態になってきているということもあるだろう。最もこの理由に対する対抗的な方法(保管の解決方法)はいろいろと提示されているし、可能性があることだと思える。政府や東電がそれを拒否して
海洋放出に踏み切ったのは海洋放出が安価だということがある。けしからぬはなしだが、これがあると推察される。
だが、それ以上に背後には原発政策の転換がある。再稼働や新規建設を積極的に進めるという転換があるが、同時に汚染問題の処理に踏み切ったということがある。福島第一原発事故はその事故による放射線被爆を生みだした。よく言われる急性被爆の状態を出現させたのである。そして、また、放射能汚染が内部被爆を生み出すことも明らかにし、核のゴミ問題をも提示した。原発はその事故によって急性被爆の現象が起きるのであるが、同時に内部被爆を生みだす放射線汚染という問題を明るみにした。福島第一原発の事故は多くの被爆を招く放射線を生みだした、そこから避難することを余儀なくさせるというものであり。福島での漁業などを禁じた。もちろん農業もふくめてである。これは急性被爆を生みだす放射線の露出であるが、同時に内部被爆を生みだす放射線の環境への残留というものこともうみだした。福島第一原発の事故は急性被爆をもたらす放射線の露出と同時に内部被爆をもたらす放射線露出でもあった。放射線の露出は二重に結果するものだった。
放射線の露出がもたらすこの二重の問題に対して政府や東電はもっぱら急性被爆に対する対応策を講じようとしてきた。これについての問題はここでは省くが、一番大事なことだが、政府筋はこの内部被爆の問題を軽視してきたことであり、それ以上に内部被爆などは存在しないというように、それを隠蔽してきたことだ。内部被爆の問題は直接身体に放射線を浴びる場合と食部など摂取(環境に残留する放射線)を取り入れるなどのことであるが、それは軽視し、また存在しないという立場を取ってきたことである。遠くは原爆を投じたアメリカが放射能の残留とその研究に神経をとがらせ、禁じてきたこともあるが、ICRPやIAEAなどの国際的な原子力対策機関もそれを軽視してきたことがある。放射能の残留と内部被爆という問題は核兵器にせよ原発にせよ、その存続の根本問題に関わるから、その研究も言及も避けてきたのである。確かに、この内部被爆ということは急性被爆と違って、その病状が現れるのに時間を要するし、実証が難しいいしことがある。それには時間を必要とするのである。先に言ったように核兵器や原発のような人工的放射線を輩出することについての歴史的な研究が阻まれ
隠蔽されてきたこともある。
政府は福島第一原発の事故によって急性被爆の問題を起こす安全神話が壊れると同時に、内部被爆をもたらす問題に直面した。これは核のゴミの処理もんだいとしてクローズアップされたが、原発の排出する汚染水の問題としても出てきた。政府がとってきた放射線被爆に対する対応は急性被爆に対する対処であり、内部被爆の問題は軽視、あるいはないという対応だった。僕が先のところで注目してきたメデイアはこの政府の対応の枠組みにあって、放射線の内部被爆というところには視線がいかなかった。だから権力の所業としての放射線の放出ということに対する監視、あるいは批判という点において基本的な視座を欠落させ、部分的な批判しか出来なかったのである。彼らの対応の鈍さも、いい加減さもここに原因があった。
汚染水の海洋放出において、汚染水がどのように環境を悪化させ、内部被爆に結果するのかは未解明である。僕はそのすぐれた想像力と経験が導いた分析力でこれに届いていると思われるのは西尾正道の見解だけだと思う。このすぐれた知見は一部の人に知られているだけで、一般的には未解明と言ってもおいい。
だがこの未解明は汚染水による内部被爆がいまだ実証しきれていないということであり、逆に言えば内部被爆がないということも実証はされていないということである。政府は内部被爆が実証されていないということを持って、それはない安全だと言っているだけである。ここには実証には時間がかかるというだけのことだ。政府は未解明であることをもって安全であり、内部被爆などはないと言っているだけである。そしてそれが科学的立場であるという。ここにはすり替えがある。内部被爆のことが実証に時間がかかるということは、被爆がない、ということではないからである。まして、それが科学的ということも何の近経もないことだ。人々は実証に時間がかかるにしても、そこに内部被爆、内部被爆に連鎖する環境の悪化があるのではという疑念を持っている。これには様々の濃度があるにしても、かなり広がりのあるもので、岸田首相が「何十年にわたって
」という言葉を口にすることも疑惑があるということだ。科学的ということについて田尾陽一はこう語っている。
「処理水海洋放出に反対している福島漁民の主張は、ある意味で科学的である。「科学」は未知のものや現象への、直感的な好奇心や恐れを原動力にしている。直感的であれ、漁民が長年の経験に基づき、海やそこに生きる生物(人間を含む)への影響に懸念を持つことは正しい「科学的」判断である。」
何の科学的根拠も示さずに、ご都合主義的に「科学」を持ち出す政府の見解は非科学的なのだ。中国の汚染水放出への対応に対し、科学的な話をなんていうのはばかげたことだ。
汚染水放出が始まった。僕らはこの汚染水放出との闘いが長期的な、あるいみでは永続的なものであり、放射線の内部被爆との戦であり、長期のものであることを自覚している。汚染水放出という政府の行為にたいして、一過性的な闘いに終わらせてはならない。ここが大事なところであり、汚染水放出変闘いには未来からの視線と一過性に終わらせない工夫と知恵が必要である。浪江での現地での闘いを含めて、昔よく使った言葉を使えば、脱原発闘争の新しい地平を開かなければならない。これはこれまでのままでいいのかという自問とそれを含めた討議から始まる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13202:230828〕
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