日本の就学前教育=保育制度は、なぜややこしいのか? ― 「幼保一元化」って何?・・・(1)
- 2023年 9月 13日
- 時代をみる
- 幼保一元化池田祥子
前回、私は〝「子育て」支援ではなく「子育ち」支援を”という観点を提示した。文字にすればたった一文字の違いでしかないが、しかし、日本の子ども達の「育ち」の困難さと、親、とりわけ母親達の「育児」の負担と悩みの根源に、この一字違いは大きく影響を及ぼしているのではないか。今回は、もう少しその辺りを考えてみようと思う。
「いろいろ説明を聞くのですが、イマイチ保育制度の現状はよく分かりません」という感想も耳に入って来るし・・・
ところで、最近改めて目にした森崎和江の次の言葉は、私の思いにピタリと重なるものであった。
― 私は「子育て」という表現を好まない。子は育つのである。私のように不十分な親の実質を、ごく幼い折に感じとり、親の過不足をみずから補いながら育つ。親はその土壌の役を果たすしかない(「子は育つ」『母と息子』筑摩書房、1994年)。
日本の幼稚園の特異性・エリート性
明治以降の日本の近代化を考える際に、1872(明治5)年の学制の公布は、内容的には問わないとして、時期的には西欧諸国の国民教育制度の整備と比べてもそれほど後れを取るものではない。また、それに次いで、就学前の幼稚園の設置も、1876(明治9)年、驚くほど早期に、東京女子師範学校付属幼稚園として設置されている。ただし、「全国に1園」から、の出発である。
幼稚園(キンダーガルテン)の創始者とされるフレーベルは、忙しく働く親たちの元で、放り出されたままの子ども達を目の前にして、「この子らが自由に安全に遊べる子どもの園」をつくったとされる。貧しい地域の、貧しい家の子ども達が対象であった。
一方、日本の幼稚園は、いまの「お茶の水」(湯島)界隈。江戸時代からの武家屋敷の立ち並ぶ地域にまずは1園、創設された。名前こそ「幼稚園」と、フレーベルの「キンダーガルテン」をモデルとしてはいるが、中身はまるで対称的である。
規程上では満3歳以上の子どもが対象であったが、当初は年長児(満5歳児)が主。半日保育で、送り迎えは女中や書生によるものが多かったようだ。中には馬車で、というのもあったとか。
小学校ですら「国民皆学」までには、日清戦争、日露戦争を経なければならなかった時代、この就学前の「幼稚園」は、まさに教育意識の高い上層階層の子どもたちの就学前教育機関として機能したのである。
ただし形式上は、小学校につながる「就学前教育」ではなく、「家庭教育の補完」という位置づけであった。こうして、幼稚園の内容を表わす言葉としても「教育」ではなく、「保育」という言葉が用いられた。保育者の呼び名も「保姆」として、「家庭における母親の子育て」へのプラス・サポートという意味が込められていた。
その後は、各地方の主だった市町村に公立の幼稚園がつくられ、あるいはキリスト教、仏教関係の私立幼稚園等々もつくられていくが、形式的には「家庭教育の補助・補完」、実質的には小学校への早期準備教育として、幼稚園は広まっていく。
ここで、留意しておきたいのは、日本の幼稚園にまつわる「特権性」(早期教育)と幼稚園を支える「家庭における母役割」の意識・重要性である。
日本の「託児所(保育所)」の登場―救貧政策と「家族の責任」
一方の保育所は、明治末から大正期にかけて、都会を中心とした「賃労働」の拡大に伴って登場する。つまり、夫の病気・事故・失業、その結果としての低賃金・無報酬など、または夫の死亡・離婚等々によって、家庭の主婦が働かざるを得ない状況が広がってくるのに応じて、「子どもを日中託する場」としての「託児所・托児所」が、ほぼ自然発生的に施設化されるのである。
まずは東京や大阪を中心として増えて行く「託児所(托児所)」が、日中戦争も始まる頃、全国的な施設として広まり、1938(昭和13)年、「社会事業法」の中に厚生省管轄の「託児所」として法定化される。もちろん、この「託児所」は、救貧対策の一つとしてであり、職員の資格や施設設備の基準規定はないままである。まさに、言葉通りの「子どもの預かり場所」である。
しかし、就学前の子どもたち(貧しいがゆえに小綺麗ではないとしても)が日中集められ、おやつや食事を摂ったり、遊び(唱歌、遊戯、運動あそびなど)や午睡をしたり・・・その内容は、まさしく「幼稚園」と変わらず、それこそ「自然に」、託児所の職員たちも自らを「保育者」と称し、日々の実践を「保育」と認識し自称したものと思われる。
ところが、「保育=幼稚園」と優越的・排他的に認識していた文部省は、このような託児所の動向に対して、『幼児教育の諸問題』という文書の中で次のような苦言を呈している。
― 本来「保育」という言葉は幼稚園教育のことを意味するものとして明治以来通用してゐたのであるが、託児所側が「託児」と言ふ名称を嫌って「保育所」と呼び、・・・厚生省が文部省に無断でかかる名称を許容すると共に、自らも用いてゐる・・・(1942・昭和17年)
文部省にとっては、幼稚園に特定されるべき「保育」という言葉が、託児所なんぞに使用されるのはもっての外!だったのであろう。
しかし、そのような文部省の高踏的・排他的な姿勢もどこ吹く風!厚生省は、現場の図太さに乗っかりながら、そのまま戦後になっても「保育所」という名称を使い続けるのである。もちろん、文部省ではなく厚生省が用いることによって、自ずからその「保育」という言葉の意味や社会的機能は変化していくのであるが・・・。
さらに戦後は、「児童福祉」という新しい理念も採用され、保育所は救貧対策のための施設ではなく、「すべての子どもたちの福祉施設である!」と輝かしく強調される。しかも戦後しばらくは、「幼稚園と保育所の二枚看板」もOK!という度量の大きさを示してもいる。
だが、戦後の混沌ゆえの大らかな自由な時代は長くは続かなかった。現実に、個別の地域では、幼稚園と保育所、どちらに行ってもOK!となれば、当然「子どもの奪い合い」が始まる。さらに、1950年前後、国の財政負担の軽減が求められ、保育所入所の子どもを「限定」せざるをえなくなる。
児童一般の福祉を謳う厚生省は、保育所を戦前のような救貧施設に戻すことはできない。では、どうすれば保育所の入所の子どもを限定できるのか・・・。ここで採用されたのが、1949年、第24条の行政の措置規程として取り込まれていた「保育に欠ける」という用語であった。つまり、「保育に欠ける」とは、「家庭が貧困であるかどうかは問わない。ひとえに、日中、家庭内に保護者(主として母親)が不在である場合」というように説明される。
こうして、「保育に欠ける」子どものための「保育所」・・・という戦後の保育所の奇妙な性格づけがなされたのである。せっかく、「幼稚園の教育」を表わす「保育」という用語を自らも使うようになりながら、「保育に欠ける」という用語によって、ここでの「保育」は「家庭での母親による子育て」に限りなく重なっていく。つまり、「保育に欠けない!」子どもとは、家庭で母親による養育を保障されている子ども、つまり社会的に標準化された、問題のない子ども、ということになるのである。
話が少し先走ることになるが、1989年11月に第44回国連総会で採択された「子どもの権利条約」には(日本は、1994年に批准)、「社会の基礎的な集団」としての「家族」に対して、「社会においてその責任を十分に引き受けることができるよう必要な保護および援助を与えられるべきである・・・」と規定されている。つまり「家族」の持つ「子どもの成長や福祉の環境としての責任」を果たせるよう、「社会(国家)」は「家族」そのものを支え、保護し援助すべき、というのである。
それに対して、日本の児童福祉法は、第1条で、子どもの権利を謳い、第2条2項で次のように規定している。
― 児童の保護者は、児童を心身ともに健やかに育成することについて第一義的責任を負う。
以上のように、戦後の保育所は、せっかく「保育」という幼児教育を表わす用語を獲得(⁈)しながら、逆に、限りなく「家庭」の子育て責任を問い、「家庭の子育て」の不足を補うという、まさしく自らを戦前的な「家庭支援」施設に限定化してしまった、と言えるのではないだろうか。
戦後の幼稚園の「幼児教育」の占有
東京帝国大学時代から、通学途上の東京女子師範学校附属幼稚園の子どもたちと馴染んでいたと言われる倉橋惣三は、大学卒業後は東京女子師範学校に講師として就任し(1913・大正2年)、同校教授となった1917(大正6)年、付属幼稚園の主事となり、その後、戦後の初めまで、全国の幼稚園保育(教育)に対しての指導的役割を果たすことになった。
ルソーやペスタロッチ、さらにはフレーベルの教育思想・教育理論を学び、遠く現地にまでも足を運んでいる倉橋惣三は、日本の幼稚園が、上流階層の子ども達に特権化されていること、したがって、「幼稚園」が「幼稚園」であるためには、対象年齢も3歳未満にも広げられ(繰り下げられ)、幼稚園の保育時間も、「早朝より夕刻に及ぶも可」と、考えていたことは有名であり、一部は、「幼稚園令」(1926・大正15年)施行に影響を与えている。
しかし、戦後初期の教育改革に当たった際、倉橋惣三は、城戸幡太郎とともに、「(幼稚園と保育所)いずれも一割以下といった収容幼児数」だから、「この際はまずお互いにどっちでもよいから、幼児収容機関が殖える方がよいのではなかろうか」(坂元彦太郎:文部省説明員)ということで、この時期における幼稚園と保育所の「一元化(一体化)」を先延ばしすることで、結果として、戦後に再び、両者の「二元体制」を延長し制度化(固定化)することになってしまったのである。
もっとも、戦後初期には、文部省(幼稚園側)も、『保育要領―幼児教育の手引き』を刊行し(1948年)、幼稚園はもとより、保育所や、家庭内での保育のガイドラインとしても通用するように配慮されていた。子どもたちがどこに居ようと、その「保育=幼児教育」の内容・方法に変わりはない、という理解と位置づけであった。
しかし、保育所側が、子どもの入所規定を「保育に欠ける」に限定し、幼稚園との差異化を図ったと同様、幼稚園側も、少し遅れて1956年、幼稚園の「保育要領」を「幼稚園教育要領」に改訂し、これ以降、学校教育法の中に「保育」という用語は残り続けながらも、他の公的な場では一貫して「幼稚園教育」という用語に限定・固執され、それ以降、文部省や幼稚園が公的な場で「保育」という言葉を使うことは皆無となった。
こうして、戦後、文部省・厚生省ともそれぞれの管轄の「幼稚園」「保育所」に固執し、結果として、戦後の縦割り型「幼保二元体制」が構築されるのであるが、これが、どのようにして「幼保一元化」構想を呼び起こし、「幼保一元化」が現実の政策課題となったのか。しかし、現在なお、「幼保一元化」の実現がはかばかしくなく、むしろより一層、複雑化しているように見えるのはなぜなのか。次回の課題である。(続)
※お詫び 本稿は9月6日に入稿していましたが、編集部の手違いで掲載が遅れたことお詫びいたします。 編集部
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