リハビリ日記Ⅴ 41 42
- 2023年 9月 21日
- カルチャー
- 文芸評論家阿部浪子
41 熱田優子のこと
数年前までは、庭の片隅に紫と白のキキョウの花が咲けば、秋も近いと思ったものだ。しかし、今夏の残暑は格別である。夕涼みの風情などまったくない。隣家のブラジル人の4人の子たちも、外にでてこない。猛暑がかなり苦手のようだ。空は青い。辺りは静まり返っている。独りとり残されたみたいで、怖かった。
ラジオをつけると、甲子園では浜松開誠館高校と北海高校の試合。わたしの姉2人は、開誠館高校の前身、誠心学園高校を卒業している。佐野心率いる開誠館を最後まで応援したが、負けた。北海の頭脳プレイに屈したのかもしれない。
監督、佐野心の祖父は、昭和初期に活躍したプロレタリア詩人、佐野嶽夫である。父は元プロ野球選手の佐野真樹夫。伯母は女優の高山真樹である。佐野嶽夫には「棕櫚の木」などの詩集があるが、「小林多喜二追悼の歌」の作詞で知られる。多喜二が国家権力に虐殺されたのは、1933年2月20日。その後、築地小劇場での労農葬で嶽夫の詞は発表される予定であったが、労農葬が解散させられ不可能となる。なお、作曲は吉田隆子。
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熱田優子の回想から山本健吉のことが飛び出てこようとは。衝撃的だった。山本と昭和初期の左翼運動とを結びつけるなど、わたしはそれまでしてこなかった。いや、1930年にたしか、山本は「岩藤雪夫論」を発表してはいる。雑誌の目次欄で見た。
優子の回想によれば、山本は若いころモップルにかかわる活動家だった。2人は闘士で同志だ。それを山本は他人に知られたくなかった。だから優子もそれまで口外してこなかったという。モップルとは当時〈解放運動者を救援する会〉と呼ばれた。山本は優子をリードする立場にあった。だがほどなく結核にかかり運動を退く。山本には優子に悪いことをしたとの思いが残ったそうな。
戦後、モップルは4年に1度、同窓会を開いている。そこで2人は再会した。
あのとき山本が運動を続けていれば後年の芸術的開花はなかったとも、優子は言った。
わたしは明大大学院で山本の、芭蕉にかんする俳句と随想の講義をうけた。本名、石橋貞吉先生はきびしい人だった。静かな感じの学者だった。授業は教室ではなく研究室で行なわれた。4人の学生がいた。50分くらいで終了したが、その講義内容は充実していた。
42 熱田優子と内田生枝
「りーちゃん。あしたは黄色いタオルを玄関に出しましょうね」西隣のりえこさんに電話で伝える。彼女は承知していた。
自主防災隊の訓練日だ。午前8時。各戸の玄関のドアでは、黄色いタオルがハタハタと音を立てているだろう。〈無事です〉というメッセージを、自治会組長のきみとしさんが見てまわる。確認する。黄色いタオルと説明書は1週間前にとどいた。説明書を読みながら、もし本番に遭遇したらどうしよう。わたしは不安に襲われどきどきした。
リハビリ教室「健康広場佐鳴台南」に行く。新教室での初日だ。昨秋オープンした姉妹店である。施設長の伊藤先生が迎えてくれた。伊藤先生はスマートになったようだ。理学療法士の清水先生が紹介される。とびきり美男ではないが、素朴で堅実な人のようだ。介護職の内藤先生も気配りがあり、やさしそうな人だ。とりあえず、わたしは安心した。
トレーニングの内容はこれまでと変わらない。が、清水先生のベッドでの施術がくわわる。仕事熱心だ。どこぞで職業訓練をうけているにちがいない。わが右の患足は床から浮いている。よろけると危ない。後遺症のせいだ。肢が縮まっている、マッサージで伸びていくだろう。お尻の筋力をさらにつけていこう。先生の技術と言葉にわたしは納得する。
〈こんなに丁寧にしてもらってありがたいわ〉生徒のもりべさんがうれしそうだ。
3時間15分は過ぎた。来週も通所しよう。テーブルの紫の小さな花がかれんだった。
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熱田優子は昭和初期、長谷川時雨が主宰する「女人藝術」と「輝ク」の編集人をしていた。
わたしが訪ねると、優子は内田生枝とともに、中野の公団住宅の1室に住んでいた。老後、意気投合した同性どうしが助けあって暮らす。いい同居の形態だと思った。2人は〈いとこ〉という名目で公団住宅を借りていた。平林たい子が保証人だと優子は言った。
戦後、優子は職業指導協会に勤務している。たい子が会長をする婦人少年協会の傘下にあった。退職するとき〈100万円〉が支給される。優子は整体専門学校に入学。マッサージ師になり家計を支えていくのだった。
生枝は地方から上京し、まず作家の林芙美子をたずねる。白いご飯に生卵。ごちそうだ。戦後まもないころのもてなしである。たいそう感激したと生枝は話した。つぎに文芸誌「文藝首都」に所属する。大原富枝、芝木好子とともに作家的将来を嘱望されたが、脱落。〈自分は怠け者だった〉と、生枝は省みる。富枝とは晩年まで交流している。〈大原さんは入信してから他人の悪口は言わなくなった〉という。
生枝はその後も「女人像」で書きつづけるが、大学の通信教育部に勤務して事務員になるのだった。
優子に初めて会ったのは、『八木秋子著作集』(全3巻、JCA出版)の出版記念会の席である。優子は痩身の人で、どこか寂しげであった。千葉出身で医師の娘だ。
わたしは、帰りぎわ優子に取材をお願いした。
取材当日、秋子のことはもちろん「女人藝術」のメンバーのことが話題にのぼる。
〈私たちからみれば、八木さんはどうということないもんね〉と、優子が言う。〈八木さんの文章は浮きあがってる。認識不足のところがある。成熟ということもあるのに〉と、生枝が同調する。
2人は他のメンバーのことも評価しない。否定的だ。生枝はとりわけ辛辣だった。口が悪い。わたしは黙って聴いていた。
優子はたしかに知り合いの多い人だった。人物回想記が書けそうなくらい。しかし優子には著書がない。生枝には小説集『じじばば谷へ行こう』(近代文芸社)がある。
優子の見果てぬ夢へのわだかまりが、嫉妬心をよぶのだろうか。女のやっかいな対抗心かもしれない。
優子のほうが先にあの世へ旅立っている。1人になった生枝は怒りっぽくなった。わたしはときおり電話で話していた。
今でも、2人からは研究のヒントをもらったと思っている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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