◆女・母・家族・を問う(1) 今さらながらの「〝母”というペルソナ」
- 2023年 12月 10日
- 時代をみる
- 家族池田祥子
金原ひとみの寄稿文から
今年の11月15日の朝日新聞に、金原ひとみの「『母』というペルソナ」という寄稿文が掲載されていた。金原ひとみは1983年生まれ。デビュー作の「蛇にピアス」で芥川賞を受賞している(2004年)。
彼女は次のように書いている。
― 子供は可愛いし後悔はない、しかしそれとは別の次元で、人をあれほどまでに追い詰める育児は、この世にあってはならないと断言できる。保育園に入所できたこと、経済的に困窮していなかったこと、このどちらかが欠けていたとしたら、私はほぼ確実に、育児の季節を生き延びることはできなかっただろう。あれはそれほどまでに、非人道的な生活だった―
ここで言われる「非人道的な生活」!という言葉・・・「結婚」をそこそこ夢見ながら、現実には未婚・非婚となった人たち、あるいは、結婚しながらも、「子づくり」に至らなかったか、諦めた人たち、・・・そのような人々にとって、この「非人道的な生活」という言葉は、かなり衝撃的ではないだろうか。 自分たちが到達できなかった「子づくり・子育て」だからこそ、やはり「夢」として掲げていたい人たちもいるだろう。
これを読んだ時、私は確かに、金原ひとみよ、ここまで言うか?!・・・と思ったのは事実である。
もちろん、金原ひとみも、「条件」次第では、「子育て」がまた別の様相を呈することは知っている。
― 条件が違えば、育児は全く違う様相を呈する。頼れる実家や義実家の有無、自分と配偶者の体力、精神的時間的余裕、経済力、双方の職場の理解、寝る寝ない体が強い弱い、などの子の個人差、これらの条件の組み合わせにより、育児はイージーにもベリーハードにもなり得る。自分で選び取れる条件だけではないからこそ、出産育児は常に綱渡りとも言える・・・―
しかし、彼女の産後および育児の実際は違った。
― 産後うつに陥った私は、長女が赤ん坊のころ何度も自殺への衝動に駆られた。理由なき自己嫌悪と責任の重さへの恐怖で正気が保てず、万力で身体中を締め付けられバチンと体内のものが飛び散る寸前のところで、今日を乗り越えることだけを繰り返していた―
ただ、そのような彼女が、第1子が8歳、第2子が5歳の時、フランスに滞在中のある休日の昼下がり、たまたま1冊の本を選んで読み始めた時、「本は緩やかに面白みを増し、そのまま昼寝でもしてしまおうかと思ったその瞬間、唐突に郷愁を感じて文字を追う視線を宙に泳がせた」と。つまり、彼女が「子供を産む前の自分」と改めて「邂逅した瞬間だった」のである。その時に、彼女はようやく自分自身が「母」というペルソナをかぶっていたことに気づいたという。「母」というペルソナの下に、かつての自分自身が辛うじて生き続けていたことに気づいた瞬間だったと。
<女><母>それぞれの神話
上記の金原ひとみの寄稿文を読んだ直後は、私は、「ペルソナ」と言われる「母」の仮面を思い描きながら、少しの違和感をも抱きつつ、はるかな昔を手繰り寄せていたのだったが、その直後に、私の娘が、金原ひとみの文章を電車の中で読みながら、流れて来る涙を隠しようがなかった、と言うのを聞いた。彼女は、第1子を産後14時間後に亡くし、いま現在は2歳の男児を育てている最中である。また11月29日「ひととき」欄の、金原ひとみに共感する投稿をも目にすることになった。
その時に改めて、私自身が、基本的な問題としてきた『<女><母>それぞれの神話』(1990年、明石書店)もまた、同じテーマではないか。「非人道的な生活!」という言葉になぜ今さら、たじろいでいるのか・・・と恥ずかしくなった。
思い出してみよう!戦前の日本は、「家」制度の下での女の差別(女の腹は借り物、良妻賢母、男の甲斐性と妾、公娼、等々)は顕著であったが、戦後は、「民主主義!」「男女平等!」の掛け声の下、「女性差別」は社会制度の中に巧妙に織り込まれ、「妻たちの思秋期」「母たちの〝育児ノイロ-ゼ”」が表面化するのは、1970年代以降である。
今から思えば、三益愛子の「母もの映画」は、戦後間もない時期に「母の愛情」「母の切なさ」を、多くの男女や子ども達にまで広めたのかもしれない。私の家に居た「姐や」が私の妹をオンブして、小学校低学年の私と、学校に上がる前の弟を連れて、よく「母もの映画」に連れて行った(それが「姐や」の子守りの一つの形だった)。弟と妹は映画館ではほとんど寝ていたようだが、「姐や」と私は思いっきり泣いていた。私とほぼ同じ年頃の松島トモ子や白鳥みづえの子役もすっかり馴染んでいた。
1950年代半ばから60年代にかけて、最初は「2DK」の団地が建ち始める。「核家族と2人の子ども」がモデルだった。かつての家は、玄関の戸も引き戸が多くて、ガラガラと子どもでも開けられた。裏口は大抵カギはかかっていなくて、御用聞きだけでなく、近所の人が顔を覗かせた。まして、農家の大半は、庭もあり、縁側もあり、玄関から土間はほとんど開けっ放し・・・大人も子どもも「居ますか~」だの「オゴメ~ン」だのと言いながら家の中に入って行けた。
2DKの団地から、それ以降の「マイホーム」や「マンション」では、玄関のドアは重く、いつも鍵がかけられた。「家」の構造が、各家族ごとに個別化され、区切られていく。こうして、「家事・育児」を担わされる女(主婦)の生活する場所は、このような「閉鎖された空間」となっていった。
さらに、戦後間もなくのベビーブームは、60年代になるや、「高校全入」運動となり、それに続いて大学受験も熾烈になる。その結果、低学年からの塾通いも当たり前になり、「受験競争」は常識となる。
「男は稼ぎ、女は家事育児」・・・社会が当たり前として制度化したこの性別役割の下で、男たちは「働きバチ」となり、結局、女・母が、「ひとり」で、「育児」と「教育ママ」(実際は「教育パパ」も登場しているし、少なくはないが)の役割を引き受けさせられたことになる。
さらに、この男女の「性役割」の元では、男は「稼ぎの高」で評価され、女は「子ども」の「出来具合」で評価される。・・・「子どもの出来具合」とは?
健康な子ども・・・病気になりにくい健康な身体
不登校ではない
学校の成績優秀、有名校に進学
「不良」ではない
犯罪者でない
ここまで辿り直して来ると、「母」として、「良き母」としての生活や努力が「非人道的な生活!」という言葉で表現されることに違和感はなくなる。しかし、逆に「母というペルソナ」を拭えば、その下には、本来の「自分自身」が生き続けているよ!という金原ひとみの提言に逆に首を傾げたくなってしまう。
そうではなくて、やはり、「非人道的な生活」を強いてしまう「母というペルソナ」自体の正体をもっと明らかにし、男/女、大人/子ども、それぞれの関わりを、「家族・家庭」に閉じ込めることなく、いま少し、個々の関係や、あるいは多様な関係に開いていく方途・方法を考え、そしてさらに、いろいろな現場で少しずつでも現実的につくり出していければ・・・と思うのだ。(この稿終わり)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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