世界のノンフィクション秀作を読む(44) R・ステフォフ(サイエンス・ライター、生・没年不詳)の『ダーウィン』(大月書店:刊)――世界を揺るがした進化の革命(下)
- 2024年 1月 10日
- カルチャー
- 『ダーウィン』R・ステフォフノンフィクション横田 喬
◇第四章 理論の誕生
<種とは何か>種は、生物分類学の基本単位だ。近代分類学の基礎を築いたスウェーデンのC・リンネはあらゆる生き物を植物界と動物界とに二分した(現代の生物学者は、植物界・動物界・菌界・他に微小な単細胞生物の二つの界と、計五つの界に分類する)。
種とは何なのか。ダーウィンは、互いに交尾または交配して繁殖力のある子孫を産み出せる生き物の集まりを種と定義した。科学者は今日、同じ種の生き物が繁殖できるのは、共通の遺伝物質を持っているからだ、と知っている。1980年代には、類人猿と人間の遺伝物質の研究から、人間とチンパンジーの間柄は、人間とゴリラ、チンパンジーとゴリラの間柄より近いことが発見された。
種の見極めには驚くほどの一貫性がある。かつてニューギニアの熱帯雨林の島で、西欧の動物学者が七〇〇を超える鳥の種を見つけたことがある。中には、鳥の体を詳しく調べてみないと見分けられない種もあった。ところが島の住人たちは、鳥の行動や棲み処などの僅かな手がかりを基に、いとも簡単に鳥を見分ける。科学者たちは度々舌を巻いた。
1836年秋、ビーグル号が英国に帰り、ダーウィンは帰宅。長い航海で入手した数々の資料を分類するという長く厳しい作業が始まる。七七〇頁も書き貯めた日誌。地質学と動物学について記録した夥しい量のノート。鳥、植物、昆虫、岩石の数千もの標本。うち動物の標本は、鳥、昆虫・・・などとグループ分けし、各分野の第一人者に分類と記述を頼むことになった。何年もかけて郷里へ送り続けた化石や標本が大評判になり、科学界はダーウィンに絶大な期待を寄せていた。
父ロバートは息子が博物学に専念できるよう十分な資金を用意。『ビーグル号航海の動物学』の出版費用には政府から助成金をもらうこともできた。1839年、従妹のエマと結婚し、身を固める。ダーウィンの『航海記』はよく売れ、彼は自分がものを書けること、それが受けることを知り、感激した。
同年~1843年、ダーウィンが注釈などを加えて編集した『ビーグル号の動物学』全五巻を刊行。さらに、『ビーグル号航海の地質学』三巻の執筆にも着手した。この頃、彼の頭の中で、種の変異というテーマが大きく膨らんでいく。
例えば、ダチョウなどの飛べない鳥にある小さくて役に立たない翼。一部の蛇の体内で見つかる脚の骨。ダーウィンはこのような無駄な構造が、これらの鳥や蛇の祖先が、かつては空を飛び、脚で歩いていた標ではないかと思うようになった。
彼はこの頃、気晴らしにT・マルサスの『人口論』(1798年)を読んでいた。マルサスが指摘したのは、殆ど全ての種が生き延びられる数より遥かに多くの子を産むという点。彼が説いた「自然淘汰」の考え方にダーウィンは賛同。「一部の生き物が死に、残りが生きて繁殖するよう『選択』する、眼に見えない原則(「自然選択」)が見つかった」とした。
1838年末までに、ダーウィンは偉大な業績の核心に辿り着いていた。進化の理論とその仕組みである自然選択だ。が、彼はこの重大な新説を慌てて発表しようとは思わず、沈黙を守って種に関する事実を淡々と集積し、研究を続けていた。
◇第五章 「悪魔の牧師」
1844年、ダーウィンは研究の概要を二部構成にまとめた。第一部では家畜や栽培植物と野生生物に見られる変種を取り上げ、どのように自然選択が進んでいくかを説明。第二部では自然選択に対する賛否両論に検討を加えている。彼は出版をためらった。実際に出版したのは1859年で、随分年月が経っている。なぜ、それほど長い間、待ったのだろうか?
生物進化の思想は、聖書に描かれた天地創造と矛盾するだけでなく、ビクトリア朝社会の平和を乱す唯物論に勢いを与えるものでもあった。唯物論では、宇宙の活動は物質と自然の法則によって説明できると考える。そうなると、多くの人々にとって、神の存在はなくてはならないものでも、疑う余地のないものでもなくなった。
『種の起原』は四〇〇頁を超えるかなりの厚さになった。多彩な話題を取り上げ、鳩の繁殖家、魚の化石、ロシアのゴキブリ、氷山の考察から、猫、鼠、蜂、ムラサキツメクサを繋ぐ僅かな生態上の関係までを論じた。地質学、解剖学、植物学、動物学の分野で、十年に亘って続けてきた読書、観察、収集、実験を踏まえ、二つの要点を導き出している。
一つ目は、種は進化し、それぞれの環境に合わせて適応するという点。二つ目は、新しい種をゆっくりと形成して来た基本的な仕組みは自然選択であるという点。自然選択では、生き残りと繁殖に最も適した機能を具えた生き物が有利になる。自然選択は世界中の至る処で、どんなに微かな兆しも逃さずに、あらゆる変種を毎日、毎時間ごとに吟味していると言えるだろう。そうやって悪い物を切り棄て、良い物を全て残して積み重ねていく・・・。
ダーウィンは『種の起原』を、奇跡的な神の創造に反対する「一つの長い議論」と呼んだ。最後の章で議論をまとめ、自然とその法則に感じた驚異の念を描いて結びの文とした。
彼にとって、超自然の神秘を創造する必要はなかった。目の前に繰り広げられる地上の世界が、十分に畏敬の念を呼び起こしてくれたからだ。
<様々な種類の沢山の植物、繁みで歌う小鳥たち、飛び交う多様な昆虫、湿った土の中を這うミミズ。こうした生き物がいっぱいの賑やかな土手を注意深く観察し、それぞれ全く違った形態ながら複雑に依存し合っている精巧な造りの生き物が、全て私たちの周囲で働いている法則によって産み出されてきたのだと考えると、興味をそそられる。(中略)この惑星が不変の重力の法則に従って回転している間に、それほど単純な始まりから最も美しく驚異的な無数の形態に進化してきて、今もなお進化しているのだ。>
◇第六章 ダーウィンの遺産
英国の哲学者・生物学者H・スペンサーはダーウィンの進化論を早くから支持し、自然選択を一言で表現する「適者生存」という言葉を考え出した。宗教界は最も頑固にダーウィニズムに反対し続けた。ダーウィンの思想は、みんなが持っている信仰心を冒涜する、と考えたからだ。ダーウィニズムは、科学的な障害にも直面してきた。生物の特徴がどのようにして親から子へと伝わっていくかが、分からなかったのだ。
オーストリアの博物学者G・メンデルの研究が一石を投じる。彼は1850年から一五年に亘って、植物の雑種(異種間)の交配の実験を何千回も繰り返した。実験に使ったのは、背の高いエンドウ豆と背の低いエンドウ豆。両者を交配すると、その子は全て背が高くなることが分かった。ところが、この二世代の子同士を交配すると、三世代目には背の高い豆が三つに対して一つの割合で背の低い豆が現れる。その結果、メンデルは親の特徴が子で「混じり合わないこと」を観察していた。
1900年頃、遺伝の問題を研究する科学者たちがメンデルの論文の重要性に気付く。新しい細胞生物学が生まれ、遺伝は親から子へと遺伝子を運ぶ特別な細胞によって支配されていることが判明する。1953年、J・ワトソンとF・クリックが遺伝物質(DNAの分子から成る)を発見し、遺伝の研究は飛躍的な進歩を遂げた。
▽筆者の一言 ダーウィンは1882年、郷里で73歳で亡くなった。友人らの働きかけで一週間後、首都ロンドンのウェストミンスター寺院で国葬に付されている。イギリスで国葬と言えばチャーチルを連想するが、同時代の人々がいかにダーウィンを重んじていたかが判る。ダーウィンは、こんな名言を残している。「最も強いものが、あるいは最も知的なものが、生き残るわけではない。最も変化に対応できるものが生き残る」。ダーウィンの誕生200周年と『種の起原』出版150年周年記念の催しが2008年に世界中で行われ、日本でも東京や大阪などで行われ、関連書籍も多く出された。
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