ご祝儀の言葉も言う気にならない新政権
- 2011年 9月 1日
- 時代をみる
8月31日
テレビでは世界陸上の選手のインタビューが続く。聞いた人も多いだろうが準決勝戦で敗れた福島千里の発言は好感が持てた。これに比べて民主党の代表選候補の発言は興味はあったが共感できるものはなかった。野田新首相の発言もそうである。このような対比をすること自体が紋切型なのだよという声も聞こえてきそうであるが、これはやはり考えさせられるところでもある。
政治家でも気のきいたフレーズくらいいう人はいたしそれが時代の言葉になったものもある。今の政治家はすぐに言葉尻をとらえられバッシングされる傾向があって面白いことも、本音も言いにくくなっているのだろうが、僕らのこころに刺さる発言は少ないのである。政治とは共同の意思の表現である。その基盤をなすのは国民の共同の意思(諸個人のこころの動きの総和)である。これを今風の言葉で言えば民意ということになる。メディアが政党支持率などとしてよく使うものである。さらに歴史的に累積されてきた共同の意思であり、歴史的な流れの中にあるものだ。政治はこの共同意思の表現であり、政治家はその人格的体現者であり、政党はその集団的体現者である。政治は共同意思を運動として表現し、法などの制度的構成としてそれを表わす。共同意思は縦糸に国民的意思を横糸に歴史の意思を織り込んで生成されるが、政治理念(政治的構想)はその結晶である。政治家や政党にとって政治理念(政治的構想)が生命であるのは、それが共同意思の身体であるからだ。昨今の政治家や政党に魅力がないのは共同意思を意味する政治的理念が曖昧だからである。国民の意思も歴史の意思も掴みがたくなっていて、かつてなら力のあった政治理念が解体に瀕しているという現在の事情はある。政治的なもの貧困さの背景を理解できる。しかし、政治家や政党の政治行為において、重要な政治的決断において政治理念の果たす役割の大きさを僕らは身近な政治状況の中でも見てきた。沖縄問題での民主党の政治的決断のなさや役割放棄は彼等の政治理念のなさの結果である。戦後の日米関係をどうするかの政治的理念なしには「日米同盟」などに引きずられるだけである。右往左往の円高対策も同じだ。あるいは原発の存続の是非も同じである。政権交代後の民主党政治の混迷は民主党の政治家や政党の政治理念のなさの帰結である。日本の社会をどこに導くのかの政治的理念が形成しえない限り、政局という政治抗争の中で政治的混迷は深まるばかりである。政治家や政党の劣化が言われるこのごろだが、それは世代の問題というよりは政治理念の劣化の問題である。そこに糸口を見いだすべきだ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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