アジサイの季節になって―長めの論評(二)
- 2010年 6月 13日
- 評論・紹介・意見
- 60年安保三上治岸信介憲法改正
歴史はおもしろいもので必要に応じて様々の役者を用意する。これは歴史という舞台が用意するのか、人が舞台の中で役者になっていくのかは分からないにしてもである。安保条約の改定には岸信介という格好の役者がいたが、彼が首相でなかったなら反対闘争もあそこまでは盛り上がりはしなかったであろうとさえ言われたものである。
岸信介は太平洋戦争の開戦をした内閣の一員で戦後に戦犯として三年近くを巣鴨の東京拘置所で過ごしている。彼は戦後の吉田茂(1951年にサンフランシスコ条約と日米安保条約を調印した)とは対立関係にあった鳩山一郎(鳩山由紀夫の祖父)に近い立場にあった。吉田茂と鳩山一郎の系譜として対立していた自由党と民主党を合同(保守合同)させ自由民主党を結成するに力を発揮し、幹事長になった。1955年のことである。1957年に病気で倒れた石橋湛山の後を継いで首相になるや安保条約の改定に突き進んだ。正確には1958年の10月から1960年1月の調印まで15カ月をかけてそれをやったのである。その後の1960年6月までの安保闘争は安保条約の批准反対の運動として盛り上がったのである。
岸が政治生命をかけて推進しようとした安保条約の改定とは何であったのだろうか。1)これは直接的には1951年に吉田茂の締結した安保条約の改定をめざすものであった。というのはこの条約は朝鮮戦争下で日本の独立(連合軍の対日占領状態の終焉)と引き換えのものであったから、不平等で片務的なものと言われていたからである。彼は意図としてはこれを相互契約的な条約に改めようとした。2)岸は政治理念としては戦後のアメリカの占領政策の清算と日本の独立を掲げていた。この点はアメリカべったりと言われていた吉田茂よりは占領政策清算を旗印にしていた鳩山一郎に近かったのである。(どちらがアメリカに対して自立的立場を取ってきたかは別のことである)。3)岸はこの安保改定を第一歩として日本の本格的な再軍備(彼は日本の核武装を容認する発言をしている)と憲法改正を構想していた。憲法改正については内閣府の下に憲法調査会を発足させていた。1957年に発足した第一次憲法調査会である。彼の占領政策の清算は安保条約の改定からはじまって憲法改正で目標を達するというものであった。この安保条約の改定は旧条約の部分改定や運用の改定でなくて全面改定をめざすものだった。だから、これは新安保条約締結とも呼ばれた。
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〔opinion016:100613〕
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