新内閣に注文したってしかたがないと思うが
- 2011年 9月 2日
- 時代をみる
- 三上 治
『源氏物語』に除目の事が出てくる。国司などの諸官を任ずる儀式の事であるが、一族の命運を期待する上級・下級貴族の悲喜劇が良く描かれている。大臣に任命されるか、どうかで大騒ぎの様相が伝えられる度に昔の名残かと思ったものだが、最近はこういう雰囲気は幾分か薄れてきているようだ。こうたびたび内閣が変われば、大臣の権威も下がってきているのだろう。こうした制度的な地位に伴う権威ではなくて、彼らが何をやりたいのかが問題になればいい。
菅内閣は一言でいえば「何がやりたいのか」「何をやろうとしていたのか」の不明な内閣であった。彼を担いだ仙谷や枝野、前原なども同じ類の面々である。これは現在が人々にしいている精神状態(心的状態)を象徴しているところがあり、その意味で時代的だったといえるかもしれない。「やるべき事がない」「何をしていいかわからない」というのはかつてなら中流のニヒリズムといわれたものだが、これは菅や仙谷などの政治信念や政治理念に色濃く反映していたのではないか。予想もしてない内に歴史の舞台が彼らを権力の座に押し上げた。彼らは長年の政治生活で権力闘争の手連手管は身に付けたが、政治的=社会的イマジネーションは貧困だったのだ。権力の座に就き、様々の問題に直面するが政治信念も政治理念もないので場当たり的な対応をする。そして場当たり的な対応が彼らを恐ろしい結末に招く。それを象徴するのが政権についた民主党を内部分裂化させた小沢排除だった。政治資金法違反という旧勢力側の小沢排除にのって権力の座に就き、「クリーンな政治」という欺瞞的な政治理念でそれを合理化したことだ。「政治とカネ」について菅や仙谷、あるいは前原に明瞭な政治理念があればいいが彼らにはそれはなかった。メディアの「クリーンな政治」という理念にのっかり、それで政治的人気が確保できると錯覚しただけである。前原や菅は「クリーンな政治」ところではなくカネ《献金》の問題で足をすくわれてきたのだ。「政治とカネ」についての明瞭な政治理念があればこんなことが取りざたされることもなかったはずである。この「政治とカネ」についての問題は原発についても言えることで、彼らは「クルーンなエネルギー」として原発推進を宣伝していた。3月11日の福島原発震災が原発についての信念や理念を変えたのはいい。それならその転換を国民に納得できるように説明せねばならない。そうでなければ場当たり的で、権力の座だけに執着しているという国民的不信は消えなかったはずだ。「なにがやりたいのか」分からないままに権力に就き、その座にあった菅政権を野田政権は超えられるのだろうか。
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