唐澤太輔(秋田公立美術大准教授)の『南方熊楠』(中公新書)――日本人の可能性の極限を思わせる巨人の生涯と思想(下)
- 2024年 5月 25日
- 評論・紹介・意見
- 南方熊楠唐澤太輔横田 喬
1900年9月1日、約八年間滞在したロンドンを後にし、熊楠は日本へ帰国する。迎えてくれた弟・常楠は、亡父の後を引き継ぎ、酒造業で成功していた。「南方酒造」の那智勝浦支店の応援を名目に熊楠は勝浦へ赴き、04年9月までほぼ三年間、留まる。当時の熊野那智の様子を、熊楠はこう述べる。「蒙昧と言えば蒙昧。熊野者と言えば人間でなきように申せし僻地なり。(実は今も)今日の南洋のある島の如く、人の妻に通ずるを尋常の事と心得たる処あり。」(「履歴書」、『全集』七巻)
当時未だ相当量の原生林を残していた熊野の森は、生物採集に最適だった。また、都市では決して見ることが出来ないような、特に性にまつわる民俗が生き生きと残っていた。熊楠は那智山麓の旅館に留まり、植物採集などに精を出した。生活費は、常楠からの月々二十円の仕送りであった。熊野那智山は古来、「死」の影が付きまとう。文覚上人は那智の滝で修業中に一度息絶えたが、不動明王の計らいで再び蘇ったなどという伝説がある。
熊楠はこの時期、「生」を放棄したいほど自暴自棄に陥っていた。「死」を意識していたこの時期こそ、彼の思想は最も深化し、輝いていたのである。膨大な数の粘菌や隠花植物を採集したのも、この時期。那智隠棲期、明らかに熊楠の「生」は輝いていた。◇那智山を下りる熊楠――田辺時代①
1904年10月、熊楠は那智での生活を切り上げ、紀伊半島中西部の田辺町(現田辺市)へ移る。田辺には、中学時代からの友人、喜多幅武三郎(医師)が住んでおり、頼りになった。翌々年7月、熊楠は喜多幅の紹介で、田辺闘鶏神社宮司の娘、田村松枝と結婚する。当時としては晩婚で熊楠数え四十歳、松枝は数え二十八歳。翌年には長男熊弥が誕生する。
06年、時の内閣は神社合祀政策を全国に励行。<各地にある多くの神社を合祀し、「一町村一神社」を標準とせよ>という神社国教化政策の一環でもあった。この政策により、1914年までに全国に約二十万社あった神社のうち七万社が取り壊された。熊楠の田辺の住まいの近所にあった神社の合祀と鎮守の森の伐採が決定する。熊楠はこの神社境内のタブノキの倒木から粘菌を発見しており、その社の取り壊しは到底許せぬ暴挙だった。
熊楠は地元新聞『牟婁新報』に神社合祀反対の論陣を張り、反対運動を本格化させていく。彼は、自然の風景・生態系は「マンダラ」の様に複雑・絶妙なバランスの上に成り立っており、一時に利益のために破壊してはならない、と強く主張した。今から百年以上も前に、既に「エコロジー」の基本概念を理解、実践に移した熊楠には先見性があった。
最初は孤軍奮闘だった神社合祀反対運動は徐々に広まり、合祀政策は1918年に廃止が決定され、一応の収束を見る。反対運動の折、熊楠は「家宅侵入罪」で18日間、投獄されている。和歌山県主催の集会に酒に酔って乱入。大声を出して、持参していた菌類標本入りの信玄袋を投げつけるなどの暴行に及んだのだ。
熊楠は入牢中、獄内でステモニチス・フスカという粘菌の原形体を発見している。彼は粘菌を発見する非常に鋭い嗅覚を持っていたようだ。当時の生物学では、生物を動物と植物の二界に分け、菌類は植物の一部とし、粘菌は菌類に組み込まれていた。が、粘菌は植物と共生する一方、バクテリアやカビなどを捕食する「動物性」をも具える非常に不思議な生命体だ。熊楠は「原始動物だ」と言い、「菌虫」と呼びたかったようだ。
この粘菌研究が注目を浴び、植物学好きの昭和天皇への御進講というハレの日がやって来る。1929年6月1日、南紀行幸の際、田辺沖の神島での拝謁。粘菌標本百十点をキャラメルのボール箱に入れて献上し、25分の予定の御進講は天皇の希望で十分ほど延長された。戦後の62年、昭和天皇は伊勢神宮参拝の後。再び南紀へ行幸。「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と歌を詠んだ。一民間人の名が詠まれるのは異例である。
◇蓄積した知が爆発――田辺時代②
熊楠は1911年2月、「山神オコゼ魚を好むということ」という論文を雑誌に発表。その少し前に柳田国男も「山神とオコゼ」という論文を別の処に発表していた。熊楠の論文を読んだ柳田は喜び、手紙を送る。二人の濃密な交流が始まり、書簡の往復は15年に及んだ。
翌々年12月、柳田は何の予告もなく、田辺の熊楠を訪れた。直接会い、民俗学に関する様々な議論がしたかったのだ。熊楠は取敢えず、柳田に近くの旅館で待ってもらった。熊楠は緊張をほぐそうと先ず銭湯へ行き、更に飲み屋を二軒はしご。旅館へ向かい、柳田や連れの学者と痛飲し、泥酔して嘔吐する始末で、学問的な話は全く出来なかった。翌日、柳田は改めて熊楠宅を訪問する。が、主は二日酔いで起きれず、臥したまま対話した。
熊楠は極端な人見知りだった。恥ずかしがり屋で、初対面の人だと正視できず、横を向いて応答していたという。緊張をほぐすため、しばしば酒を大量に飲むことがあった。酒を飲まない熊楠は、非常に大人しかったと言われている。繊細な神経の持ち主だったのだ。
熊楠と柳田は書簡を往復するうち、両者の特に「性」に対する意識の違いが決定的に明らかになる。官僚出身で、エリート学者の柳田は「卑猥なる記事」が好きではなかった。一方、在野の研究者・熊楠は「猥鄙の事を全く除外しては、その論少しも奥所を究め得ぬなり」と書簡で反論。「性」のような話題の中にこそ、人間の本質があるとさえ考えていた。
熊楠は1913年11月6日に「情事を好く植物」という論考を発表。風俗壊乱罪で告訴され、罰金刑を受けている。熊楠は大真面目で「卑猥なる文」を書いていた。そこに人間の本質を見ていたからだが、柳田にも世間にも、それを理解することはできなかった。
熊楠が田辺在住の友人の娘を奉公人として、東京の柳田の家に紹介。子細は不明だが、娘は三か月で柳田家を飛び出してしまう。これが熊楠と柳田の絶信(別れ)の最大のきっかけではと言われる。熊楠の死後、柳田はこう述べた。「我が南方先生ばかりは、どこの隅を尋ねて見ても、是だけが世間並みといふものが無い。(中略)私などは之を日本人の可能性の極限かとも思ひ(後略)」。世間や世人なるものは、彼にとって最も遠いものだった。
熊楠は植物の採集・観察に没入した理由を、次のように赤裸々に語っている。「小生は元来甚だしき癇癪持ちにて、狂人になることを人々患えたり。自分このことに気が付き、(中略)宜しく遊戯同様の面白き学問より始むべしと思い、博物標本を自ら集むる事にかかれり。是はなかなか面白く、また癇癪など少しも起こさば、(中略)今日まで狂人に成らざりし」(柳田国男宛書簡、1911年10月25日)。熊楠のこの極端な在り方こそ、柳田をして「日本人の在り方の極限」とまで言わしめた理由であった。
熊楠は夢に強い関心を持っていた。「さて烏羽玉の「夢」てふ物は死に似て死に非ず生に似て生に非ず、人世と幽界の中間に位する様な誠に不可思議な現象で・・・」(「南方先生百話」)と述べ、夢とは「現世」と「あの世」との間にあるものだとした。
彼は、しばしば現実と夢とを混同することがあった。自身を「夢のような人物」と呼び、「熊公かかる夢の国におりて、夢影を尋ね、夢事を夢魂に訴えて止まず。」と友人宛ての書簡に記した。38年12月9日、盟友毛利清雅が脳溢血で亡くなる。40年10月には、飲み仲間で熊楠の採集・写生活動の協力者だった川島友吉(号:草堂)が胃潰瘍で死没。そして誰より頼りにしていた和歌山中学以来の親友で医師の喜多幅武三郎も、脳溢血で41年3月10日、亡くなった。特に喜多幅の死はショックで、書斎に終日籠り切りになるほどだった。
すっかり元気をなくしていたこの頃、熊楠は腎臓を患っており、自身の死も近いことを予感していた。12月に入り、病勢は急に進行。肝硬変による黄疸の兆しも見え出した。傍らで付き添った長女・文枝によると、亡くなる寸前、熊楠は「天井に紫の花が一面に咲き、実に気分が良い」と言い残した、という。41年12月29日朝6時半、熊楠は逝った。八十二歳だった。
▽筆者の一言 今から四十年ほど前、私は未だ達者だった南方文枝さんを新聞記者として取材している。後年期の熊楠の助手役として粘菌の標本づくりを手伝った彼女は、きっぱりと言った。「粘菌って、とても美しいんです」。顕微鏡写真で確かめると、球形や円柱状、粒状など様々な形態をし、赤や黄・青・白・黒・・・と色々の色彩を帯び、確かに美しく映る。熊楠は、なぜ粘菌という奇妙なシロモノの研究に一生を打ち込んだのか。その疑問が一瞬で氷解した。人間は美しく映ずるものに無性に心惹かれる。我が大先生も、美々しい色合いの虜になり、野山をついつい駆けずり回ったのだろう。その熊楠には剽軽な一面があり、人を笑わすのが好き。昭和天皇への御進講の際にもその癖が出て、天皇が思わず吹き出しそうになり、必死でこらえる場面があったらしい。「すめらぎ(天皇)は不自由で気の毒や」と呟いていた、とか。熊楠は更にこうも言ったそうだ。「多方面に目配りが必要やから(天皇は本来)ゼネラリストであるべき。が、植物学に入れ込み過ぎのスペシャリストや。すめらぎ(の身)としては、どうなんかな?」。文枝さんが話してくれた秘話は含蓄に富み、熊楠という類稀な人物のスケールの大きさを偲ばすのに十分だった。
〔opinion13726:240525〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。