シーラカンスは生きた化石を超えることができるか
- 2024年 7月 14日
- 評論・紹介・意見
- 乾佐伎俳句髭郁彦
一冊の句集を受け取った。乾佐伎の第二句集『シーラカンスの砂時計』が郵送されてきたのだ。俳句とは無縁であり、作者についてもまったく知らない私ではあるが、タイトルに惹かれてページをめくってみた。
言表連鎖による一般的な論証性に導かれることがない、限定されたカテゴリー内での詩的創作活動である俳句や短歌は、日常的な論証性を超えた特別な論理があるゆえに、私は今迄、俳句や短歌という定型詩の内包する問題の検討を避け続けてきた。正直に言うならば、この難問に立ち向かう勇気がなかったからである。私がこれらの定型詩に関連する問題を避けて来たのにはもう一つ、より単純な理由がある。それは、俳句の持つ短さが (それをエコノミーの法則として捉えることも可能であるが) 特殊なものである以上に、私には詩的音楽性を感じる感性が欠如しているからである。ポール・ヴェルレーヌが「何よりも先ず音楽を (de la musique, avant toute chose)」と詠った詩的感性、それが私には完全に欠如しているのである。
それだけではない。更にもう一つ大きな難問が存在している。それは句集の持つ連続性の問題である。一つ一つの句は短いが、句集は多数の俳句の連鎖から成り立っているゆえに、句集全体をどう捉えるかという問題は容易に解決できるものではない。この問題に加えて、俳句と短歌とを区分するものが、5・7・5と5・7・5・7・7という音節数の違いだけであるとは思えないが、それではその本質的な差異は何かということが、私には上手く理解できなかったのである。だが、『シーラカンスの砂時計』の創造性とは直接関係しない余計な問題をこれ以上語ることはよそう。問題はこの句集自身なのだから。
ただ、本論に入る前に、一言だけこの書評的テクストの構成について述べておく必要性がある。俳人でもなく、文芸評論家でも、文学研究者でもない私は、自分の知っている分野の方法を使って、『シーラカンスの砂時計』という句集と対峙しなければならない。それゆえ、記号学及び言語学に関する私の知識に基づく方法的論的アプローチを用いて、以下の三つの分析装置から、この句集について検討していこうと思う。三つの視点とは、「シニフィアンの優位」、「特定名詞の反復によるイマージュの増幅効果」、「オクシモロンによる想起空間の開示」である。何故この三つの視点を問題設定として選んだのか。それはこの句集を単なる句集として見るのではなく、言語記号によるイマージュの構成体を形成する作品としての連続性と断絶性とを表象するテクストとして捉え、考察していこうと思い、そのためには今述べた三つの分析装置を用いることが最適であると判断したからである。それぞれの分析装置を使い具体的に如何なるテクスト分析を行うかという点については、以下に続く三つの分析セクションで考察していく。
シニフィアンの優位
シニフィエ (signifié) よりもシニフィアン (signifiant) の方が優位であるという問題、つまりは、内容よりも形式の方が、あるいは、意味よりも表現の方が記号の機能の側面で優位であるという考え方は、ジャック・ラカンによって語られたものである。この説に従えば、フェルディナン・ド・ソシュールが『一般言語学講義』で提示しているコインの裏表に譬えられたシニフィアンとシニフィエの不可分さは記号体系内の問題とされ、記号が実際に作用する場面では一つの前提に過ぎなくなってしまう。このことはシニフィアンによって導かれる意味は、言表連鎖の差異によって決定されるものであって、最初から確定されたものではないことを示している (ミハイル・バフチンは辞書的な意味とテーマの違いを強調している)。問題はシニフィアンが多くの意味を生み出し得るということである。
『シーラカンスの砂時計』というテクストの考察に入ろう。この句集を読んで、私が最初に興味を持ったのは、意味に関する二つの異なったの戦略 (stratégie) が遂行されている点である。一つは「シーラカンス」という特定の名詞を繰り返し使用することによって生じるイマージュの多様化の戦略であり、もう一つは、様々な言表連鎖の中にこの語を位置づけることによって生じるテーマの明確化を浸透させるディスクール戦略である。この二つの戦略に関しては次のセクションでより詳しい分析を行うが、その前に一つだけ強調したい点がある。それはこの二つのテクスト戦略はテクストの開在性という側面から考えて、この句集の中で非常に効果的に機能しているという点である。
「シーラカンス」という名詞の持つ特異な意味空間を中核とすることで、このテクストにおけるテーマ生産性は確固とした基盤の上に築かれることとなる。それだけではなく、その特異な意味を持つ名詞が様々な言表連鎖 (この場合は様々な句というべきであろうが) の中に、ロラン・バルトが『映像の修辞学』の中で提示した概念語を使えば、投錨 (ancrage) されることによってイマージュ空間が拡大している。それは生きた化石であるシーラカンスの存在性を増幅することで、シーラカンスが大海を、あるいは、天空を自由に泳げるように作者が導いているような印象を与えるものである。しかし、この点については「オクシモロンによる想起空間の開示」のセクションでより詳しい分析を行う。
今述べた二つのテクスト戦略は独立的にその効果を発揮しているのではなく、相互に連関しながらその機能を強化している。「春を向くシーラカンスの羅針盤」という句と「シーラカンス大海原に星を撒く」という句、あるいは、「シーラカンス海より深い夢の中」という句と「砂の内シーラカンスの砂時計」という句の連続性と断絶性を見ただけでも、このことは十分に理解できる。それは「シーラカンス」という語におけるシニフィアンの優位性を明確に提示している。この優位性は言表連鎖による物語世界の構築に大きく寄与している。この句集が一つのファンタジー世界を想起させるのは、作者のテクスト戦略が成功しているためである。
特定名詞の反復によるイマージュの増幅効果
イマージュの増幅とは何であろうか。それは例えば、こういったことである。次のような映画の冒頭シーンを思い浮かべて欲しい。沢山の人々が行き交う大通りが遠くから映し出されている。そのすぐ後で、画面は徐々に一カ所にフォーカスされていく。そして、ある人物がクローズアップされる。こうした映像的なテーマ提示に類縁した方法が『シーラカンスの砂時計』の冒頭には見られる。この句集の最初のセクションには「ジャングルジムの風」というタイトルがあり、その冒頭の句は「希望とはジャングルジムの中にある風」であり、二番目の句は「シーラカンスのDNAに近未来」である。ジャングルジムのある公園が映し出され、そこに物語の主人公であるシーラカンスが登場するといったイマージュをわれわれは抱く。ここからシーラカンスの物語が始まる。
シーラカンスという特定の名詞を反復させることは、物語の主人公の動きを示すことである。散文的な語りにおいては、主人公の行動は時間軸に沿って論証づけられる必要性があるが、韻文においてはこの論証性はエコノミーの法則によって消去することができる。これは散文的論理に従った言い方であるが、韻文的論理を中心に見る言い方をすれば、それは偏在性を基盤とした論証性の優位と述べることができる。キーとなる語が句の連続性の中に投錨されているために、モンタージュ (montage) のようにある句のイマージュと他の句とのイマージュが結びつき、この句集の中心となるテーマであるシーラカンスの動態性が明示され、シーラカンスの行為を中核とした物語が展開されていく。つまり、一つ一つの句に偏在するシーラカンスのイマージュがシーラカンスの物語の新たな創造によって増幅され、物語世界が広がっていくことによって、この句集の中で、シーラカンスは自由な遊泳を繰り広げていくのである。
ここで、ジュリア・クリステヴァが提唱した間テクスト性 (intertextualité) という用語を使いながら、この句集の内包する間テクストを巡る一つの問題について考察してみたい。『シーラカンスの砂時計』を読み終えてからずっと抱き続けた疑問がある。それは特定名詞の反復によるイマージュの増幅効果という方法を乾佐伎はどのようにして学んだのかという疑問である。この疑問は『吟遊 第102号』に書かれた乾のエッセイ「空飛ぶ法王への手紙」を読んだ時に了解できた。このエッセイの中で引用されている夏石番矢の六つの句全てに「空飛ぶ法王」という特定名詞句が登場している。この特異な語を繰り返し用いることには、上記した乾のテクスト戦略と同様の方向性が存在している。乾は夏石からこうしたテクスト戦略を学んだと考えられる。それと共に、そこには重層的イマージュを構築していくという目的を持った間テクスト性が存在している。こうした方法論的な一致の中には、あるテクストと他のあるテクストとの対話関係が見出される。この問題は興味深い問題であるが、二人の句の共通性や類似性を分析する作業をここでは行わない。何故なら、この比較検討のための十分な資料を私は持っていないからである。それゆえ、これ以上この考察は行わないが、ただ、「空飛ぶ法王」というテーマ語と「シーラカンス」というテーマ語との意味論的差異については述べておく必要性がある。二つのテーマ語は、共に物語世界の増幅効果を担っているが、前者にはない後者の特徴として、シーラカンスという語の持つオクシモロン (oxymoron) 効果による豊穣化という問題がある点は注記すべきである。しかし、この問題の探究は次のセクションで行うこととする。
オクシモロンによる想起空間の開示
オクシモロンは撞着語法と訳され、二つの相反する語を結びつけることによって新たな意味効果を生成する表現方法である。「小さな巨人」、「賢い愚者」、「氷った炎」、「光り輝く闇の世界」といったものを例示することができる。一般論理に従えば、AとBとが意味的に相反しているならばAでありBでもあるものは矛盾しており、論理的に存在できないはずである。だが、オクシモロンは敢えて対立する二つの語を連結することで意味空間に新たな広がりを生み出す。それゆえ、文体論上注目できる表現方法となるのである。
シーラカンスという語自身はオクシロモンではない。しかしながら、シーラカンスは「生きた化石」という別名を有している。この別名はオクシモロンである。ここで注目すべき問題は、「化石」という語が死のイマージュに通じている点である。そこに「生きた」という語が重ねられることで、時間の中に偏在するシーラカンスの存在性が語りの時という時間軸に投錨される表現的効果が獲得される。この生と死のイマージュの二重性は、物語空間を押し広げると共に、イマージュ空間を拡大させていく。更に、この句集のタイトルにある「砂時計」という語は近代的時間性に立脚せず、太古の時間を生き続けるシーラカンスの生存のメタファーになっていると感じられる。
生と死の二重の物語性を想起させるゆえに、シーラカンスという語は特別な意味を持ったテーマ語としてシンフォニーの主旋律を奏でることが可能となる。しかしながら、この語が句集の中で奏でられるものはポリフォニック (polyphonique) な対話性と言うよりも、ルードウィッヒ・ヴィトゲンシュタイン的な言語ゲーム (language game) の概念を思い浮かばせる。ある語の意味は、その語が語られるディスクール空間内でのパロール (parole) の中で、あるいは、言語ゲームの中で決定される。それゆえ、ある語の意味はその語が語られる度に、新たな意味を獲得していくものである。この点をヴィトゲンシュタインは強調した。ユーリー・トゥイニャーノフは、『詩的言語とはなにか:ロシア・フォルマリズムの詩的理論』の中で、詩的言語に関する興味深い指摘を行っている。そこには「(…) もし [詩的言語の] 諸要因の (…) 相互作用が感じられなくなれば、芸術的事情は消え。芸術は自動化するのである」(水野忠夫訳) と語られているが、語の意味が凝固してしまえば、言語の有する創造性は枯渇してしまい、語に内在するイマージュを呼び起こす力は衰退し、ドイツの言語学者ウヴェ・ペルクゼンの提唱した概念語を使えば、確固とした意味形成性を持たないプラスチック・ワード (plastic word) が氾濫することになってしまう。詩的言語の衰退を救済するために文学作品は存在している。オクシロモンの効果を巧みに用いている乾の『シーラカンスの砂時計』は言語ゲームという側面と詩的言語の救済という側面を兼ね備えている点でも特筆できる句集であるのだ。
ここまで三つの分析装置を使いながら、『シーラカンスの砂時計』というテクストの分析を行ってきた。この分析だけで、この句集の厳密な分析できたとは思えないが、この句集の創造的方向性と主要テクスト戦略に関してはある程度の究明ができたと考えられる。それゆえ、このテクストを終わりに導いていく作業を、つまりは、結論部分の論述を行っていきたいと思う。今語っている書評的なこのテクストの結論部分を論述するために、ここまでの考察では十分に検討できなかった「生と死を巡る動態性」と「エコノミー性とイマージュの広がり」という二つの問題を提示しながら探究を行っていく。
第一の問題について検討するために、先ずは、『吟遊 第102号』に掲載されている阿部日奈子の「細い道の途上で―乾佐伎第二句集『シーラカンスの砂時計』」という書評を取り上げてみたい。この書評全体は記号学的に見た場合、興味深い点はあまり書かれていない。だが、一点だけ注目できる問題が指摘されている。それは、シーラカンスの持つ「死のイメージ」への言及である。阿部は「水沫になっても泳ぐシーラカンス」という句に対して、「泳ぎながら水沫になって跡形もなく消えてゆくシーラカンスのイメージは、私の心に住みついてしまった。それはいちばん美しい死のイメージ、昇華のイメージでもある」と述べている。
イマージュ空間の拡大によって想起されるものは個人的自由の翼を有している。阿部のように語ることも可能であろうが、私はこのイマージュとは異なるイマージュを抱いた。それは上記したシーラカンスの別名の持つオクシロモン性と乾が用いたテクスト戦略とに連関したイマージュである。シーラカンスという名詞はその語自身に生と死との二重の存在が刻まれているゆえに、生だけではなく死の影に包まれていながらも、死ではなく生の活動性を漂わせている。ある一つの句を提示するまでもなく、語彙的にすでに死のイマージュを、あるいは、再生のイマージュを内包しているのである。これは静態的な側面での『シーラカンスの砂時計』の特質である。また、これはテクスト戦略上の問題とも絡むが、「水沫になっても泳ぐシーラカンス」という句は「シーラカンスはまた眠る」というセクションの中に置かれている。この配置がすでにシーラカンスの死、再生、死という連続性や、シーラカンスの眠りと昇華というイマージュの連鎖を思い浮かばせる働きを担っていると考えられる。
テクスト戦略上の問題は、ディスクールの動きに連関している。句集である以上、多くの句が掲載されているのは当然であるが (この句集のあとがきで乾は213句が掲載されていると述べている)、それらの句はテクスト構成という側面から、独立的なものではなく、相互に関連しているものである。さらには、ある句が他のある句に先行していることや、後続していることにはディスクール展開上の意味形成性の機能が提示されているということである。それゆえ、テクスト戦略を考える時、ある特定の句の印象が問題なのではなく、言表連鎖が問題となる。ここで、細かい分析を行っている余裕はないが、乾のこの句集の言表連鎖に関して、一点だけ検討を行っておくべきだと思われる。「ミュージアム」のセクションで、シーラカンスという語を用いた句を順番に取り出すと、「シーラカンス海底都市へ細い虹」、「夕日だけシーラカンスの目は映す」、「シーラカンス円周率ときっと友」、「永遠をシーラカンスは友とする」、「落日をシーラカンスは揺らめかす」の五句である。このセクションで映し出されるイマージュは、光に包まれる街、フォーカスされるミュージアム、夕暮れ、星に呼びかける天の声、追憶あるいは夢の風景、泳いでいるシーラカンス、失われた肉体と動きだすもう一つの生といったものであり、それらのイマージュが幾重にも重ね合わされ、シーラカンスという主人公の動きを通して、物語展開していくというブリコラージュ (bricolage) 的手法が取られている。こうして形成されたイマージュはファンタジー空間を明確に構築している。ディスクールの連鎖がなければファンタジー的な透明性や清涼感は脆弱化し、シーラカンスの死のイメージは濁り、昇華されず、腐敗した死骸のイマージュと化してしまうのではないだろうか。ディスクール連鎖がイマージュを支え、テーマを強化しているのである。
エコノミー性とイマージュの広がりという第二の問題の検討に移ろう。前述したように、散文における論証性と韻文における論証性とは大きく異なる。この論証性の違いは詩の有するエコノミー性とも密接に係わっている。ジャック・デリダは「詩とはなにか )」(in『[総展望] フランスの現代詩』:湯浅博雄、鵜飼哲訳) の中で、詩をエコノミー性と記憶可能性という二つの側面から定義しているが、ここではエコノミー性の問題に注目しながら、ディスクール空間のエコノミー性と論理の問題に関して考察していく。
詩は散文とは異なり必要最低限の語彙を用いて作成される言語芸術である。散文的論証を支える接続詞などの連結時は極力排除され、三段論法といった論理展開も優先されず、語と語との連続性や連結辞 (connecteur) もはっきりとは提示されない。それだけではなく、音楽性の重視した日本語の短歌や俳句、フランス語のソネットやオードなどといった様々な定型詩が存在している。この音楽性も散文では示すことができないものであるが、ここでは論証性の問題に絞って検討していく。
散文における論証性の厳格化は意味の拡散や曖昧性を防ぐディスクール効果がある。テーマを秩序立てて発展させ、論理展開を明確化するためにこの厳格化は必要なものであるが、韻文で語られたもののようにイマージュの自由な広がりを展開し難いという問題点がある。ジャンルが異なる以上、こうした差異は必然的なものであり、語りの世界をどのような形式によって行うかという問題はテーマ展開とも直結するものである。詩的テクストにエコノミー性がなければ、詩というジャンルが破壊されてしまうため、デリダと共に、エコノミー性がこのジャンルのテクストの絶対的存立条件であると述べ得る。だが、俳句や短歌はさらに語の音節の制限があるためエコノミーの法則は、口語自由詩などに比べれば、尚更強く作動する。「観念論的反実証主義方法」、「プラトニックな恋愛遊戯論」、「GDP優先による反実態経済分析」といった音節数の多い語句は最初から排除される。少ない語彙を用いて、より広く、より大きなイマージュ空間をどのように表現するかが重要なものとなる。
ここで注記したい点がある。それはテーマとして選択された語が繰り返される中で、その語は一定の意味を指し示すのではなく、同一の語でありながら、異なる意味空間を開示できるという問題である。この問題は『シーラカンスの砂時計』を分析する時にも核心的な分析装置となり得る。この句集のテーマ語であるシーラカンスは何度も繰り返し語られている (213句中46句でこの語が登場し、全体の句における出現率は約21.6%である)。同一の語と言うことはシニフィアンが同一であるということであるが、ここに登場するシーラカンスという語のシニフィエはまったく同一ではない。ディスクール内での配置やディスクールの動きの差異によって、シニフィエは大きく異なるものとなっている。記号学的な用語ではなく、より文学的な言い方をすれば、シーラカンスという語が使用される度にイマージュ空間が広がっているのである。バフチンは「テキストの問題」(in 『言葉 対話 テキスト――ミハイル・バフチン著作集8』) の中で、「同じ発話内でも文の反復は生じるけれども (繰り返しにより、自分のことばの引用により、あるいは意図せずに) そのつどそれは発話の新たな部分になる。なぜなら、発話全体のなかでの文の位置と機能が変化しているからだ」(佐々木寛訳) と述べている (この言葉の「文」の部分を「語」に変えても、バフチンが主張しようとする内容は変わらない)。このバフチンの述べた意味の新たなる生成性を、『シーラカンスの砂時計』の中で見つけ出すことは容易なことである。すなわち、シーラカンスのイマージュ空間は語りの位置、ディスクール展開の中での配置によって更新されているのである。
生きた化石であるシーラカンスを巡る乾佐伎が織りなした物語。その物語空間への旅もいよいよフィナーレを迎えようとしている。このテクストに幕を下ろす前に、二つのことを語っておきたい。一つは、俳句と物語性に関する事柄であり、もう一つは句集と言表連鎖に関する事柄である。第一の事柄について、一句一句の俳句はその短さゆえに、物語性を有していると言うよりも、物語を構築するための要素であるモンタージュを形成していると述べられる。映画においてフィルムの一コマ一コマはある一シーンにしか過ぎないものである。その映像が如何に美しくとも、それは物語の一部であって物語全体ではない。それゆえ、一つの句によって句集全体を語ることには、テクスト論的分析を行う上では、無意味なことである。このことは第二の事柄に繋がる問題性がある。句集のそれぞれの句はディスクールの連続性の中で捉えるべきものである。テクストの全体の中での位置を考えることによって、それぞれの句は、その句だけでは想起することが不可能なイマージュ空間を形作ることも可能となる。そこには物語空間内での意味が現出するのである。乾のこの句集は、こうしたテクスト論的な、あるいは、記号学的な視点から読むことによってより豊かなイマージュ的地平を獲得すると共に、より豊かな間テクスト性も獲得する作品である。このことを強調すべきであると私には思われる。
ここで、『シーラカンスの砂時計』というテクストの可能性について一言だけ述べておきたい。生きた化石を中心に据えたことによって、この句集のテーマは必然的に死のイマージュと生のイマージュが二重写しになるものとなっている。そこに二項対立の止揚見ることも可能であろうが、この見方はあまりに哲学的視点を強めてしまう。多分、この句集はそうした視点から解読するよりも、より柔らかな、より透き通った形のアプローチを通して読まれるべきであろう。太古の海、緩やかな波間を泳ぐシーラカンス、生きた化石以前の生きた化石の記憶、生きた化石は現在に現れる。偏在性、いや、死の後の再生のドラマ。新たなる物語の始まりは、海から、星空へと向かう。時空を超えた生きた化石の語る昔話と現在の語りとが混じり合う。死の物語を生きたシーラカンスは星座となり、星空を遊泳する。そのシーラカンスが放つ光は救いの光だ。ベンヤミンへのオマージュ。バフチンならば、そこにクロノトポスのポリフォニーの調べを聞くかもしれない。『シーラカンスの砂時計』が語った歴史は物語となる。それゆえ、シーラカンスは生きた化石を超えて、星座として天空にアウラを輝かせる。私のイマージュは天空へと向かう。
宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
宇波彰現代哲学研究所 シーラカンスは生きた化石を超えることができるか (fc2.com)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13795:240714〕
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