ゾルゲ事件と漢学者の決断――熊谷直実、松王丸、政岡の伝統美学を拒否――
- 2024年 8月 13日
- 評論・紹介・意見
- ゾルゲ事件山崎洋岩田昌征
『山崎洋仕事集』(西田書店、2023年)を再読した。603ページの大著である。山崎洋の主要業績、すなわちセルビア諸古典の邦訳と日本諸古典のセルビア語訳以外の諸主要文章を収録した書物である。
本書は、
第一部 自主管理研究
第二部 内戦・報道
第三部 講演・エッセイなど
後 記 山崎洋君のこと/髙木一成、から成る四部構成である。
ところが、後記を通読した読者は、実は第〇部を含む五部構成である事を悟る。但し、第〇部はわずか1ページにすぎない。「はじめに」の前に収録されている「1963年春、著者の大学卆業に祖父が寄せた漢詩」「洋兮歌」がそれである。七言律詩六連は、すべて第一句「洋兮洋兮吾愛汝」で始まる。「はじめに」の直前、著者山崎洋の1941年・昭和16年一歳未満児写真の裏ページに毛筆の七言律詩六連が写真版で載せられている。
その意図は、「幼年時代からの知友で著者の分身」髙木一成による後記を読んではじめて読者に伝わる。つまり、第〇部と後記は連結している。
大東亜戦争の時代の国際スパイ事件として知らぬ者のない「ゾルゲ事件」の首領ゾルゲの片腕であったユーゴスラヴィア王国(首都セルビアのベオグラード)人ブランコ・ヴケリッチと日本人の妻山崎淑子の間に1941年・昭和16年に、山崎洋は生まれた。同じ年の十月、父親ブランコ・ヴケリッチは、スパイ団の主要人物として逮捕され、無期懲役の判決を受け、1945年・昭和20年1月網走刑務所で獄死する。
髙木一成筆の後記に従って、スパイ事件に巻き込まれた山崎家の様相を見てみよう。
――新聞に「国際諜報団事件」が報道されてからは、情況が一変した。淑子さんは「スパイの妻」の烙印を捺され、親族からも自殺して詫びるよう迫られたりした。――(p.492、強調は岩田)
――1945年5月25日夜の空襲のときには、……、……、……。翌朝、淑子さんは三軒茶屋まで焼け跡を歩いて行った。日本ハリストス正教会…、そこに網走から持ち帰った夫ブランコの遺灰が預けてあった。……。教会堂も宣教師館も跡形もなく焼け落ち、骨壺を探しても見つからなかった。(pp.494-495)
――「……パパの事件が発覚したときには、ママに子供を殺して自分も死んで詫びろと言う人もいた。ママが言うことを聞いてたら、終わりだったろう。巣鴨での面会のとき、パパが死刑になったら、自分も死ぬ覚悟だと言って、パパに叱られて、やめたそうだ。」(p.598、強調は岩田))
上記引用が示すように、友人の100ページ弱もある長い山崎洋伝(pp.491-599)は、山崎母子の生死のクライシスで語り始めて、同じクライシスで語り終えている。これを読んで、著者山崎洋が満一歳未満児の自分の写真の裏ページに祖父の律詩六連「洋兮歌」を誇示した気持が分かったような気がする。「国賊」一家への社会的風圧と親族からのスパイの妻子への自決要請に抗して、若き日本女性が生き抜く事が出来たのは、家父長制家族の家長たる祖父の断固たる意志、娘を守る、孫を守る、があったればこそであったと推量される。家長の決断に反して近親者達が自裁要求を貫く事は出来なかった。それを証示するが如くに、48行の長詩に登場する人物は、洋とその父母、両祖(祖父と祖母)だけである。
最初の一連で語られぬところにこそ深い意味があるように思われる。一連だけ引用しよう。
――洋兮洋兮吾愛汝
憐汝幼時乃父逝
況又遭戦災連亘
焼家々財又父偈
𬾘散紛々無䖏尋
母抱汝泣且努力
活無住所󠄁寢無被
拮据幾年待汝逮 (強調は岩田)
孫の洋が幼くして父をなくし、戦災に会い、家財を失い、その結果母が生活苦の中で子供の成長を頼りに生き抜く様―拮据幾年待汝逮―を歌う。「父逝」と「父偈」の特異具体的悲劇性を表に出していない。つまり、多くの日本人が戦中戦後に体験したと同類の苦労話になってしまっている。続く五連は母親と両祖の期待どおりに孫の洋がすくすくと成長し、欧州へ留学する物語である。
髙木一成後記の始と終が伝える淑子・洋母子が直面したクライシスは詩に表出していない。後記を読んでしまった者は、祖父が敢えて文字にしなかった真情に迫りたくなる。私=岩田が僭越ながら、律詩の作法も約束事も全く知らずして、擬似律詩をもって―資料的根拠はないが―山崎洋の祖父の真情を予想するとすれば、以下の如くとなろう。
――洋兮洋兮吾愛汝
憐汝幼時乃父逝
況又遭戦災連亘
焼家々財又父偈
近親恐々満巷憎
強迫母子剣自裁
両祖叱正反天道
御代後昭記真実
上四句は原詩に同じ。下四句、すなわち私=岩田の推量四句の含意は、次の趣旨である。外国人スパイへの怒りとスパイの妻子への不信が大日本帝国臣民の間に充満している。山崎家近親達も亦その感情を共有しており、当然のこととして母子に自決を迫った。漢学に素養の深いが故に、祖父は山崎家の当主としてそんな要請を非人道かつ反天道なりと叱正・峻拒した。かつ、この律詩を洋に贈る1963年は昭和38年、御代後昭=戦後昭和であるから、御代前昭=戦前昭和に山崎家に襲いかかった悲劇の真実を隠さず記す。
実際は、御代後昭の新憲法の時代、近親者達がかつて母子に自裁を迫ったなどと言う事実は、一転市民として不名誉なことになって、山崎家の当主として筆にしなかった。
日本に根付いた倫理思想=美意識は、忠と孝の葛藤に満ちている。忠ならんと欲すれば、孝ならず。孝ならんと欲すれば、忠ならず。忠は君臣の義であり孝は狭くは子の親への義であるが、一方通行ではなく広くは肉親間の情愛を本義とする。
歌舞伎で観客が最も感動する名場面は、この葛藤が前景化する所だ。「熊谷陣屋」の直実、「寺子屋」の松王丸、「先代萩」の政岡、すべて忠の大義のために最愛の肉親=自子をぎりぎりのところで犠牲にする。かくして大義は実現されるが、無情が残らざるをえない。
観客はかかる義と情の葛藤そのものよりは、忠義の実現とそれに伴う無情の重さ深さを受け容れ、それに感動する。
漢学の素養深き山崎家の当主は、日本的に忠>孝をアプリオリに優先するよりも、忠と孝の本来的葛藤を引き受け、孝>忠の選択を決断したと推量される。この場合は、忠>孝は母子の死、孝>忠は母子の生である。
その事実と自分の選択の苦悩を六連律詩に明記していない。慈顔の祖父の背後に決断の祖父が隠れている。自分が救出した洋=孫を「洋兮洋兮吾愛汝」と六回も強調する事で自分の選択の正しさを再確認している。伝統的日本思想の無情の入る余地なしである。日本の倫理思想史に特筆さるべき事件であろう。
『朝日新聞』(夕刊、2024年7月30日、第9面)「『敵国人なら』許された残酷さ イタリア人作家 幼い頃の記憶 戦後80年へ」を一読していただけるならば、私=岩田の論旨をより納得していたただけるだろう。
令和6年8月10日 岩田昌征/大和左彦
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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