リハビリ日記Ⅴ 53 54
- 2024年 8月 27日
- カルチャー
- 伊藤野枝日記阿部浪子
53 伊藤野枝と八木秋子、同い年の自由人
こんな所に白いヤマユリが咲いている。たった1本。小屋のすみっこに。いつの風が連れてきたのだろう。
8月。連日の「危険な暑さ」に、熱中症警戒アラートが発表された。浜松のふなぎらでは40度を超えるというのだ。ふなぎらって? インターネットで検索すれば、天竜区船明とある。浜松平野の北端の村だそうな。
リハビリ教室「佐鳴台南」。猛暑で欠席者がいる。せつこさんは出席。きょうは体重測定の日だ。伊藤先生の指示で行なう。あっ、増えた。ちょっぴり安堵する。先生はわが体重の推移を把握しているという。
せつこさんは背がぴんと伸びている。若いころ百貨店につとめていた。おしゃれな人だ。〈一生が学びだと思う〉としみじみ言う。どんな話のつづきであったか。明治生まれの父が戦死していると話す。せつこさんはどこか寂しげな感じがする。ふと、中学時代のきょうこさんの表情を、わたしは思いうかべたものだ。彼女の父も戦死している。
バイク運動はたのしい。足でペダルをまわす。日々の散歩をさぼれば脚は衰弱する。そのバロメーターみたいな運動だ。がんばれば少しずつ疲労はとれてくる。わたしは皆勤だ。そろそろ清水先生が褒めてくれるか。
先日、友人の、ただよさんときよえさんの暑中見舞いがとどく。あなたの「リハビリ日記」に励まされているとあった。びっくりする。患者のわが文章が彼女たちを励ますとは。そんなこともあるのか。うれしいことだ。
西隣のりえこさんがドーナツを持ってきてくれる。手製の大きめのふんわりしたもの。少女時代、姉が作ったおやつのドーナツは、黒っぽくてかたかった。油のせいだったか。りえこさんはこのドーナツのために3時間もかけたと、にこにこする。
*
うかつにもわたしは、伊藤野枝と八木秋子が同い歳とは気づかずに、さきごろ当日記に2つの文章を書いた。2人は1895年の生まれなのだ。
秋子の思い出話のなかに「青鞜」のことは出てきた。木曽福島町でのこと。姉たちの影響で同誌を読んで感動したと話した。わたしは秋子の80代のころ老人ホームで会っている。
関東大震災直後、野枝が官憲に虐殺されていなければ、彼女と会うチャンスもあった。野枝は昔の人ではない。生きていれば、その後、野枝はどのような発言をしたろう。そしてどんな肩書きで、どのような活躍をしたろう。28歳で他界している。
1988年12月、わたしは「信濃毎日新聞」に「八木秋子―人と文学」を発表している。伝記的作家論の連載だった。秋子は群馬の姪のもとで他界していた。
それ以来、同社文化部は秋子の肩書きを作家にしている。秋子は納得したと思う。64歳のころから、本格的に作家を志していたのだから。
ついでに書けば、この連載がきっかけで、秋子の郷里の女性から所三男の存在を知らされた。離婚後の秋子が熱愛した人だ。所は近世の林業史を研究して後年、日本学士院賞を受賞している。かれに電話取材したときのことは、拙著『書くこと恋すること―危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)を読んでほしい。
54 伊藤野枝と八木秋子、コミュ二ティの志向
高校の同級生、岸野春子さんがなくなった。2月9日。急死だったよう。岸野さんはわが「リハビリ日記」を毎回読んで感想をとどけてくれた。わたしは励まされてきた。
おだやかな人だった。いつであったか。母校のことを〈バカ学校〉と呼んだ。わたしは反論しなかった。内心そう思っていたから。ずばり言う岸野さんの生きる姿勢に感動した。エリート校として世間の評判はたかかったが、中身はお粗末。教師がいけない。教師たちへのくやしさが、岸野さんにはあったのだと思う。彼らは言葉をとおして生徒たちの自我の目覚めを触発しなかった。女だからこんなもんでいいかぐらいに思っていたかもしれない。〈男子大学にいくのか。ボーイハントできるぞ〉と、英語先生は言った。
「みさおはかたきおとめごわれら」と、女生徒は校歌をうたっていた。毎朝、校門の前で一礼する。反抗しないのだ。教師はそれを従順としていたのだろう。
岸野さんは目覚めた人だった。努力の人でも、勉学の人でもあった。奈良女子大学卒業後は障がいのある子どもたちを指導していた。弱者、貧者、病者によりそえる、あたたか
い人であった。
*
2人とも行動の人だった。その行動を追跡すれば、人生はドラマティックでおもしろい。パワフルな人生だ。時代を先取りしている。伊藤野枝と八木秋子。まず家を出て、東京で活躍した。因習を打破して「新しい女」をめざした。自由を求めて「自己の道」を推進したのだった。
野枝が28歳で他界したことは書いた。87歳まで生きた秋子は、後年「生きているかぎり人間でありたい」「しかも自由人でありたい」と、切望した。おそらく、野枝の切望もそうだったにちがいない。
さらに2人は、社会的視野に立っている。「初期社会主義研究」第32号を参考にすれば、野枝はこう主張しているのだ。
「やはり人は1人では生きて行けない。何らかの社会の中で生きていかざるをえず、そのためには、差別や排除のない相互扶助のコミュニティをつくればいいのではないか」と。
秋子はこう主張している。
「すべての母と子が貧乏の苦しみからのがれ、安心して生きられる、そして人民の中に溶けこみ、そこですべての家族とともに自信とよろこびをもって働く、自由の社会なのであろう」と。
社会とのむきあい方にかんする、野枝と秋子の主張は、けっして昔のものではない。今日に通じるものであろう。相互扶助など大切なものだと、わたしは思う。野枝と秋子の、人間への信頼を想わせるものではないだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture1340:240827〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。