小伝 宇野弘蔵(6)
- 2024年 10月 4日
- スタディルーム
- ヒルファディング大田一廣宇野弘蔵
第三章 日本資本主義の〈構造〉と経済学体系の模索
(2)ヒルファディング批判と「形態規定」の論理
宇野弘蔵の学術的な“処女論文”はR.ヒルファディングの『金融資本論』(1910年)、とりわけその「金融資本」概念の前提となる貨幣論を『資本論』に即して検討した「貨幣の必然性――ヒルファディングの貨幣理論再考察」(『社會科學』改造社、1930年6月)であった。
宇野がベルリン留学していたころ(1922-24年)、ヒルファディングは「ワイマール共和国」のシュトレーゼマン内閣のもとで財務大臣(1923年8月-10月)を勤め、通貨・財政改革に取り組んで破局的なハイパー・インフレーションの終熄に努力していた(「奇蹟」といわれた“苦肉”のレンテンマルクが発行されたのはヒルファディング解任の直後の11月だった)。宇野はそうしたヒルファディングを社会民主党大会や国会の廊下で直接眼にしたこともあったというが、革命(の敗北)以後の政治過程に積極的に関与し、金融資本の蓄積と帝国主義、ドイツ国家を構成すべき新たな秩序と「組織された資本主義」論など「ワイマール共和国」の存立に相応しい経済理論の構築を試みたヒルファディングに対して、宇野はどんな想いで接していただろうかーー。
ヒルファディングの『金融資本論』は、19世紀末以降のドイツ資本主義の展開(とくに関税/通貨問題、植民地政策)と社会民主党の政治綱領(E.ベルンシュタインと“修正主義”問題、革命と改良)をめぐる論争を背景として書かれている。ベルンシュタイン(『社会主義の諸前提と社会民主党の任務』1899年)によれば、ヨーロッパの資本主義(工業諸国)は19世紀末以降、社会的富の蓄積(資本の集積・集中)と株式会社形態の企業活動が経済システムの「適応力」を高め、信用制度や産業カルテルの〈組織化〉による経済圏の拡大を通じて市場の逼塞を調整し「一般的産業恐慌」の発生を“制御”しつつある。そしてこのような現代資本主義の到達局面においては「正統派」が一面的に主張するような、カウツキーを典型とするいわゆる社会主義的崩壊論は無効ないし誤謬であって、社会民主党の任務も資本主義の高度な「適応能力」に対応した「民主主義的・社会主義的な改良」を原則とする、云々。――このようなベルンシュタインの現代資本主義認識に対して、ヒルファディングは、「銀行資本と産業資本の緊密な結合」として事実的に存在する金融資本を「資本主義の最近の発展」段階における新しい資本形態と規定し、「組織された資本主義の支配的な資本形態」としての金融資本に特有の蓄積構造の分析を試みたのであった。
いわゆる“修正主義”論争の大きな争点のひとつはとりわけ資本主義の歴史的現在とその認識をめぐる『資本論』の適用限界の問題にあった。19世紀末から20世紀にかけて展開したドイツ資本主義の新しい“傾向”を従来の認識図式では必ずしも捉えられず、それが『資本論』体系の理論的射程と含意に妥当するかどうか、かりに妥当するとしたばあい『資本論』の適用限界をどのように考えることができるかにあったとすれば、 “修正主義”をめぐる争点は同時に『資本論』の理論体系と政治綱領、つまり経済理論の論点形成と政治的実践との離–接をめぐっていかなる立場が可能であるか、という宇野にとっての年来の課題にも繋がっていた。ここで詳述することはできないが、ヒルファディングは1907年前後から数年にわたって、M.アードラーやK.レンナーらとともにいわゆるオーストロ・マルクス主義者として、ヨーロッパ〔ウィーン〕に亡命中のL.トロツキーと親交を結び書簡も交わしている。『金融資本論』(刊行は1910年)がトロツキーとの交流の時期に書かれていることは、ヒルファディングにとっても、また「総括と展望――ロシア革命の推進力」(1906年)のなかで永続革命の理念を打ち出したトロツキーにおいても、留意しておいてよいと思われる。また、スターリンによって抹殺されたイサーク・イリイチ・ルービン(『価値論概説』初版、1923年)がヒルファディングからかなりの影響を受けていた事実も記憶されるべきかもしれない。〔なお、IISGの「ヒルファディング文書」には約20通のヒルファディングに宛てたトロツキーの書簡(1903、1907-13年)が所蔵されているー未見〕。
『金融資本論』は刊行直後から、ドイツ資本主義の性格規定(帝国主義とその根拠)をめぐってカウツキーによる批判やその後の貨幣(価値)論や恐慌論などドイツの左派内部の論争を惹き起こしていたから(例えば笠信太郎編訳『金と物価―マルクス主義貨幣論争』[同人社、1927年、増補1932年]によってヴァルガ、ヒルファディング、カウツキー、O.バウアー、F.ポロックの論攷――Neue Zeit掲載論文〔1911年11月~1913年1月〕――などが紹介されていた)、ヒルファディングの「金融資本」概念をいかに理解するかという問題は、マルクス経済学の理論展開にとどまらず、いわゆる社会化と共同体という理念の可能性とその実現条件をめぐって、ドイツ資本主義をいかに“組織”しそこにどのような社会的秩序をもたらしうるかーーこのような歴史的課題を負っていた。宇野が『資本論』研究を進めるにあたって重要な示唆と一定の影響を受けた福本和夫のばあいにみたように、「マルクス主義研究週間」のルカーチやコルシュ、M.ホルクハイマーやF.ポロックーー彼は「マルクスの貨幣理論について」(1923/28年)書いているが、「物神性」の指摘はあるものもの、貨幣を問題にしながら価値形態にはほとんど触れていないーーらを擁する初期「フランクフルト社会研究所」のマルクス主義研究も、こうした政治過程の流れの裡にあった。ドイツ資本主義社会が当面していたのは、第一次世界大戦以後における”戦後秩序“とその帰趨をめぐって生起したヨーロッパ近代の〈問題圏〉とは何かという事態であった。宇野が、ここではその当否は問わないとして、「真にマルクス的なもの」を求めて歴史的過程を理論的に捉えうる経済学の論理と方法を模索しこれに精力を傾けたのは、このような現代資本主義の世界史的な動向を背景としていたといってよい。
宇野がドイツで入手していた『金融資本論』(ドイツ語版、Marx-Studien、第三巻、1910年。恐らく再版だろうが初版との異同はない)を精読したのは、1924年秋に帰国して以降のことになるが、その頃、わが国ではドイツにおけるマルクス主義の動向をめぐって盛んに議論されていた。先に触れた福本和夫のケースもそのひとつであったが、ここでの文脈でいえば、猪俣津南雄がーーもともと翻訳を意図していたようだがーー、その名も『金融資本論』(1925年)と題する一書を出し、金融資本が主導する資本主義の歴史的現段階を会社企業・銀行資本・資本家的独占の「綜合としての資本帝国主義」と規定しつつ、ヒルファディングの『金融資本論』をその全体にわって解説的に紹介している。主要な邦訳を挙げれば、“修正主義”論争の発端となった先のベルンシュタイン『社会主義の諸前提と社会民主党の任務』が『マルキシズムの改造』(松下秀男訳、1928年)と訳され、カウツキーによるベルンシュタイン批判たる『ベルンシュタインと社会民主党の綱領』(1899年)も『マルキシズム修正の駁論』(山川均訳、1928年)というタイトルで翻訳されている(いずれも『世界大思想全集47』春秋社、1928年、所収)。さらにカウツキーの『金融資本と恐慌―ヒルファディング批判』1911年(笠信太郎訳、叢文閣、1927年)も紹介されるというように、左派の論壇を賑わせていた。
そのようにマルクス主義の導入と展開が盛んに行われていたのだが、ベルンシュタインの『諸前提』がマルクス主義の「改造」とされ、カウツキーの『綱領』も「修正の駁論」と表示されるといった、やや無理に邦訳されたタイトルはいかにも当時の左派論壇の公式的な正統派意識を窺わせるものがある。こうした後発意識にかかるマルクス主義の導入にはおそらく、日本の革命綱領がコミンテルンによって「日本に関するテーゼ」(「二七テーゼ」1927年)というかたちで発せられたこと、野呂栄太郎『日本資本主義発達史』(1930年、第一論文「日本資本主義発達史」の初出は1927年)やさらには『日本資本主義発達史講座』(全七巻、岩波書店、1932-1933年)などが矢継ぎ早に刊行されるといった状況のなかで、“変革への意志と権威”によるイデオロギー的な促迫と心理的な強制がその背景として働いていたにちがいない。しかもこの間に発生した1929年のニューヨーク株式市場の株価大暴落とこれに続く昭和恐慌(1930年)、つまり世界恐慌の衝撃がドイツとともにわが国においても経済と政治にわたって深刻な混迷と社会過程総体の攪乱を惹き起したこと、総じてこれら”社会的危機“がそうした“強制力”に拍車をかけたと推測してもそれほど不当なことではないだろう。
その一方で、雑誌『労農』の創刊(1927年)とともに、改造社の『資本論体系』全三巻[上・中・下](1928-31年、『経済学全集』第10-12巻)が刊行され、『資本論』(エンゲルス版)のテクストに即した研究も現われている。上巻はマルクスの生涯の簡潔な紹介とともに『資本論』第一巻の「資本の生産過程」(商品・貨幣・資本)について向坂逸郎が解説し、「通貨原理に関するマルクスの書簡」を櫛田民蔵が紹介している。宇野は中巻に『資本論』第二巻の「資本の変態とその循環」・「資本の回転」を「形態」の論理に焦点を当てて検討を加えているが、続く「再生産」論についてはなぜか当初の編集方針と異なって、先の『講座』の企画と準備に関与していた山田盛太郎が「再生産過程表式分析序論」を書いている(宇野弘蔵『「資本論」と私』2008年。山田盛太郎『日本資本主義分析』1934年、「文庫版への序」岩波文庫、1977年。)この「再生産」論について宇野は、『資本論体系』シリーズとはべつに、あたかも山田盛太郎に対抗するかのように「再生産表式論の基本的考察」[『改造』1932年]を執筆し、R.ルクセンブルクを批判しながら、マルクスの「再生産表式論」の課題は「商品資本の循環」形式に定位することによって「社会的総資本の再生産」の諸条件を自己の体系の内部に包摂しうる点にあるという理解を示し、あわせてF.ケネーをめぐるマルクスの経済学史的な理解が正鵠を射ていると指摘している。下巻は『資本論』第三巻の解説で向坂の執筆であった。宇野がこのように『資本論』研究を中心としたアカデミズムの論壇に登場しつつあるころ、旧友・西雅雄は『資本論』第一巻を素材にした『経済学』(無産者自由大学第八講座、南宋書院、1927年)を執筆し、「プロレタリア階級闘争の武器」としての「科学的な経済学」を主張していた(先にみたたように、西は『日本資本主義発達史講座』第三部「帝国主義の現状」にも「最近における階級諸運動」1933年で山川均を批判し『講座』派の立場を表明していた。)
こうした内外の理論的動向に眼を配りながら宇野は、河上肇・櫛田民蔵らの価値・価値形態論の研究、福本和夫が提唱する『資本論』体系の次元的・階型的な論理構造などを念頭に措きつつ『金融資本論』を検討したにちがいない。貨幣―価値形態論に関心を寄せる宇野がその過程で、マルクス経済学をめぐるおおくの論説のうち、たとえば「価値論の基礎」としての物象化論を標榜していたイー・ルービンの「マルクスの体系における抽象的労働と価値」という論文を読んでいたかどうかは不明である。ルービンは先に触れたようにヒルファディングを読み込んでいたのである(ソヴェート・ロシア経済学叢書(1)河野重弘訳『マルクス経済学の根本問題』共生閣、1929年、所収。なお、イー・ルービンの主著『マルクス価値論概説』初版、1923年は当時邦訳されていない)。
本稿(1)の冒頭に記したように、論文「貨幣の必然性」の末尾で宇野は「追記」を誌し、自身の抱懐する理論的関心を明らかにしていた。それは、長年にわたる貨幣論と価値形態論をめぐるわが国の論争に触発されて「価値形態論の重要性」を改めて考察するという控えめなものであった。当時のドイツ語圏やフランス語圏ではほとんど研究の対象とされていない『資本論』の価値形態論を、河上肇がすでに「資本論略解」(『社会問題研究』1923年から連載)や『資本論入門』(第一巻、1932年)において検討を加えていたのであるが、学生時代から『社会問題研究』を毎号欠かさずに読んでいた宇野にとって、河上の『資本論』研究(価値形態論)との対質はいわば“自己了解”のためにも必要な作業であった。しかしそれだけではなく、「貨幣の必然性」を原理的に問うという課題を「資本主義の最近の発展にかんする研究」を副題にもつ『金融資本論』(の貨幣論)において追究したことは、この時点での宇野の問題関心の所在をよく示している。それは端的にいえば、〈学の形成と資本主義的世界〉を世界史への開けをもつ歴史的現在においていかに問うか、というものであったにちがいない。宇野にとっては学生時代このかた〈唯物史観の経済学的基礎づけ〉が理論的な課題となっていたからである。のちに宇野は、資本家的商品経済に必然的な無政府性が好況・恐慌・不況を画期とする景気変動過程において生じる過剰資本の処理と過剰人口の調整を通じて“現実的に”解決されうるという『恐慌論』(1953年)を展開するのだが、この「恐慌論」の基礎的な構図を「大きく見れば人間の歴史の変化をうつしている」唯物史観の「縮図」(『社会科学と弁証法』1976年)と規定したのであった。
さて、この「貨幣の必然性」論文は、「純粋紙幣本位制」を想定して「社会的流通価値」から紙幣の価値を説くヒルファディングの貨幣論の理論構成が原理的にみて商品形態―価値形態の無理解に由来することを指摘することによって、マルクスの価値形態論が提示する方法的な課題を確認するという形式をとりながら、「商品形態」の展開を通じて貨幣の形態形成を解明するという理路を考察したものであるが、このヒルファディング批判論文はのちに、資本主義社会の体系的認識(「原理論」)を規定するいわゆる形態論の方法論的な視座が示された最初の論稿とみなすことができる。
「ヒルファディングにおける『貨幣の必然性』は、『商品生産社会の本質』から説かれる。マルクスは、これを交換過程が商品の二重性を展開するという点から観る。両者共に同一の事実を説くものであるが、この観点の相違こそ、実に、ヒルファディングをして価値形態の分析を軽視せしめたものである」――これが、宇野によるヒルファディング批判の直接の結論である。その際、宇野の批判は「商品生産の特殊性」そのものに絞られている。すなわち「商品生産が社会形態の一つであり、交換行為が社会の新陳代謝の一形態である」というヒルファンディングの「特殊性」規定はたかだか、「ロビンソンの世界」に典型的な労働一般が「あらゆる社会形態に共通ななる原則」として商品生産の社会にも認められるという程度の話であって、「商品生産の特殊性」そのもの、つまり商品生産をそのようなものとして存立させうる形態的な条件に重点をおいた観方ではない。「商品生産の特殊性」ではなくむしろ〈商品形態の特殊性〉、言い換えれば交換の可能性を成り立たせる商品の価値形態の分析が事柄の要諦なのである。それゆえ、貨幣の必然性については「貨幣形態の神秘」を解明しうる「等価形態の複雑なる規定」を展開することが必要となるのであって、そこにこそ、単なる貨幣使用の必要性とこれに応じた便宜性という貨幣観、貨幣を交換の便宜的道具と見做す古典派以来のいわば経験的道具主義の貨幣観とは異なるマルクスに特有の観点と方法があるというのである。
ところで、宇野が問題にした『金融資本論』冒頭の「貨幣と信用」と題された貨幣章については留意しなくてはならないことがある。貨幣の必然性に関するヒルファディングの立論は彼の意想においては、「商品生産社会」には生産の無政府性を解消する社会的機能を担う〈貨幣の必要最低限の流通〉が不可欠の条件であり、このことは現代資本主義において強制通用力を持つ「国家紙幣」についても同断であって、この「国家紙幣」においては、金貨幣の“価値”としての社会的性格は「商品生産社会の意識的機関としての国家」の意思による政策的な社会的規制のうちに開示されるというのである。「国家紙幣」はそのようにして、「生産共同体」の共同行為に根拠を持つことによって「一般的労働時間」を表示する「社会的流通価値」として機能し、ドイツ資本主義の現段階にいわば必然的な経済的・社会的制度なのだというわけである。誤解を畏れずにいえば、「商品生産社会の無政府性」から必然的に生じるとされる貨幣形態(強制通用力をもつ国家紙幣)によって当の無政府性そのものが一定程度排除されうること、そしてそこに「社会主義社会における社会的意識」のいわば予兆形態が可能的に醸成されうること――これが「純粋紙幣本位制」を想定した貨幣の必然性に関するヒルファディングの言説なのである。そのばあい、ヒルファディングはE.マッハを援用して、近代の「自我」なるものを世界像のネットワークを形成する諸感覚の「無限の糸」が織りなす一結節点として捉えている。そして、この感覚の束の一結節としての「自我」と類比的に貨幣を、無数の交換行為によって形成される「商品生産社会」のネットワークの結節点として、ただし「自我」とは異なって社会諸関係の対象的形態たる「神秘的に輝く物」として規定していることに注意すべきだろう。ここでヒルファディングは、生体組織ー「生産共同体」を母型とした感覚―自我/交換行為―貨幣の類比関係に定位して、国家紙幣を発行する主体としての近代国家をいわば「自我」をもつ有機体として捉えようとをしていると言い換えることができるだろう。ヒルファディングの言うさきの「一般的労働時間」は価値規定にかかわる「社会的に必要な労働時間」との異同とともに、価値論の理路と価値形態論の意義をめぐるひとつの論点をなすはずであるが、宇野は「貨幣の必然性」論文ではこの点に積極的な関心を示していない。
カウツキーとともに、“価値の測定問題”をめぐる価値と価格の混同というヒルファディングの価値論を批判する宇野ではあるが、それと同時に金融資本の存在構造を捉えるにあたって「純粋紙幣本位制」なるものの想定が論理的に可能かどうかについても検討すべきではなかったかと考えられる。資本主義社会の学問的な認識にとってこのようなモデルの想定ないし仮設は方法的にみて、いわゆる「純粋資本主義社会」の想定と「原理論」の法則的根拠に関する宇野の問題設定が妥当かどうかという問題構制に及ぶにちがいないでからである。
それはともかく、「商品生産の特殊性」は貨幣形態とその神秘性(「物神性」)を生成させる「特殊な形態的機構」そのものに存するという理解が、この宇野の論考の基調であったとみるべきだろう。『資本論』における「商品生産」概念を“単純な商品”の歴史的な生産過程と見做し、「価値形態」をこの単純な商品の歴史的な交換形式と規定するエンゲルスやカウツキーの〈解説〉がそのまま踏襲されていたかに見られるわが国の論壇においては、貨幣–価値形態に固有の形態そのものの意義と構造を問う宇野の関心は独自のものであったと思われる。やや先回りすることになるが、「商品生産」を存立させうる「形態的機構」の体系的な解明、言い換えれば資本主義社会の「全過程が商品形態によって処理される」構造とその叙述が、これ以後の経済学体系、とりわけ「原理論」の体系構成を規定する基本的な課題になるのであった。ただし、「原理論」の構想が資本主義の歴史的発展段階に見合った経済政策の理論的基礎づけという試みと並行して進められたことは、銘記すべきであろう。
予断ではあるが、宇野の謂う「形態規定」の論理はある種のゲシュタルト・プロセスとして捉え返すことができるかもしれない。その「全過程が商品形態によって処理される」形態的機構が資本主義的商品経済の基本性格をなすという観点からみれば、宇野の「形態規定」はいわゆる流通形態として展開する狭義の「商品形態」にとどまらず、資本の循環=回転過程(資本の姿態変換過程)をへて資本–利子/労働-労賃/土地-地代なる分配形態にいたるまで、商品–貨幣–資本の社会的諸関係が “ゲシュタルト・プロセス”として展開するロジックと見做すことも可能ではないかと思われる。それは、私見では、「体制化の原理」(村田純一)として機能する “構造の概念”へと拡張することにほかならない。とはいえ、宇野自身はのちに『原理論』体系における「形態規定」の体系的な意義を、資本―賃労働を規定する資本制的な「生産関係」を“捨象”した〈流通形態〉一般として限定的に規定するのだが、そのかぎりでは、「形態規定」は叙述の方法として『原理論』体系を整合的に展開させる論証の手続きとしての機能的な操作概念という性格を負わされている。それはともかく、前記の『資本論』第二巻の解説たる「資本の変態とその循環」の始めのところで宇野は、資本の本質は「その生産過程における内容と共に、その流通過程に於ける形式をもきわめること」によって充分に理解できるといっているが、宇野が『資本論』第二巻の「姿態変換と循環」(Metamorphose―Kreislauf)を「資本の生産過程における内容」に対する「その流通過程に於ける形式」として理解したことーーこの生産-流通/内容―形式という対概念をめぐる宇野の思考は、貨幣–価値形態論に対する関心と並行していることは、ここで確認することができるだろう。
1930(昭五)年前後に至る過程で、宇野が『金融資本論』に取り組んだのはたんに価値形態の論理を追認するという自己了解のためだけであったとは思われない。繰り返しにはなるが、「貨幣の必然性」を原理的に問うということは事柄そのものの性格からして、『金融資本論』を一定の観点から捉え直すという課題意識を示している。それは、ヒルファディングを「流通過程の偏重」=流通主義と批判するエルスナーの公式主義的対応(『金融資本論』1949年、新版「序文」)とは異なって、『金融資本論』の問題関心を活かす方向でこれを内在的に検討するというものであったにちがいない。戦後のことではあるが、宇野弘蔵監修『経済学大系』の第一巻をなす自著『経済学方法論』(1962年)に収められている「Ⅱ 経済学研究の分化 補論B ヒルファディング『金融資本論』における原理論と段階論との混同について」という論考で改めてヒルファディングの方法を編別ごとに検討しているのをみれば、宇野の関心はおのずから明らかであろう。ベルンシュタインの「修正派の主張の実質的根拠をなす、十九世紀末以来の資本主義の新たなる発展段階」の事態的な認定から出発して、貨幣一般を端緒とし、信用、株式資本を経て金融資本の概念を導出するヒルファディングの体系=理論構成は、貨幣の原理的規定と金融資本の特殊歴史的な段階規定とを混同するものであって、この混同は『資本論』の「機械的な援用」に根拠をもつというのであった。
だが、ヒルファディングが「修正派」に正面から対峙し、カウツキー以下の“古典的な”資本主義世界像のたんなる機械的拡張ではなく、資本主義の新たな発展段階の次元を経済学の理論的対象として改めて設定したこと、つまり「帝国主義の段階的性格の解明に迫ろうとしたはじめての理論的・体系的労作」(星野中)を宇野は「劃期的な研究」と評価したのである。したがって『金融資本論』の検討はこのかぎり段階論を着想させる芽を育んだといってよい。そこには、マルクス以後のヨーロッパにおける資本主義システムが開いた歴史的過程にヒルファディングが向き合った“経験の現在性における歴史感覚”というべき態度に対して、宇野における“後発性の歴史意識”が呼応しつつ働いていたにちがいない。この“後発性の歴史意識”は、宇野が愛読した萩原朔太郎の言う「日本の青春性」に呼応する社会的意識の一班と見做すこともできるだろう。
しかし「貨幣の必然性」論文を執筆する1930年に至る過程で、宇野が帝国主義の段階認識の条件と資本主義の原理の理論的根拠を一応の纏まりをもって体系的に対象化しえていたかどうか、微妙なところである。むしろこの論考によって段階認識の方法的な重要性が宇野の思考圏に入ってきたとみるべきだろう。わが国の後発的なマルクス研究の可能性の条件と「資本主義の最近の発展」というヨーロッパ資本主義の歴史的現在とが交叉する〈世界史的な場〉、言い換えれば資本主義の世界史的な現段階にいかに対峙しその歴史的過程をいかに把握するかーーこのような領域に宇野弘蔵が立ちつつあったということだろう。「貨幣の必然性」を原理的に問うという主題の設定そのものが、事柄の性格上、世界史的な歴史的課題に向き合う宇野の姿勢を物語っているといってよい。
ところで、昭和初期の価値論論争やその後の日本資本主義論争に注意を払っていた宇野が、マルクス経済学の〈科学〉としての“客観性”を意識していなかったとはまず考えられない。宇野にとって『資本論』の研究は、歴史過程を理論的にとらえることが可能な“経済学”の自立とその根拠をめぐる社会科学の方法の探究と並行して行われたからである。明治以来の“近代国家”の政策形成を理論的に基礎付けることを使命とした国家学としての「社会政策」[学]からいかにして〈経済学〉が一個の学問として自立しうるか、その条件は何かという課題が、『資本論』研究の進展とともに必須の条件となっていたのである。その作業には当然のことに〈イデオロギー一般〉に関していかなる立場を採るかという選択を伴っていた。東京帝大の在学中に宇野が遭遇した「経済学部」の分離・独立をめぐる「森戸事件」の経験は、『資本論』の経済学を“科学”として読むことの必要性を若き宇野に自覚させ、それが彼の思考の地として勁く働いていたにちがいない。因みに付け加えれば、東京大学法学部(法学と政治学)の学術機関誌は「国家学会雑誌」(1887年創刊)と銘打たれ、現在も引続き存続している。
社会科学の学問性をめぐってヒルファディングは『金融資本論』の「序文」で、「価値判断」から自由な「客観的な科学としてのマルクス主義」を標榜し、その「法則科学」の根拠を因果的諸関聯としているが、その際盟友M.アードラーの「因果性」論の参照を求めていた。方法に敏感な宇野が新カント派に棹さすような社会科学の“科学性”をめぐるヒルファディングの「客観性」論やアードラーの「因果性」論【「社会的-ア・プリオリ」論】に対して、なんらかの判断を施さなかったはずはない。現に『金融資本論』はアードラーとの共同編纂によるMarx-Studienの第三巻(1910年)として公刊されたもので、先にも触れたことだが、宇野が留学中にベルリンで購入したというDas Finanzkapitalも、おそらくこのMarx-Studien版(初版と再版に変更はない)であろう。しかも、アードラーのStudien第一巻所収の“Kausalität und Teleologie im Streit um die Wissenschaft”,1904 (『マルキシズム方法論』福田次郎訳、改造文庫、1932年)とDas Staatsfassung des Marxismus,1922(『マルキシズム國家觀』山本琴訳、改造文庫、1927年。井原糺訳、『世界大思想全集42』春秋社、1931年)が邦訳されていて、アードラーの謂う「社會科學の認識論的基礎づけ」は昭和初期から当時のマルクス主義運動の内部では知られていたはずである(例えば、平野義太郎「マックス・アドラー『唯物史観に於けるテレオロギー』」『社會科學』創刊号、改造社、1925年6月)。宇野が新カント派マルクス主義のアードラーを読んだ可能性は十分に考えられるが、そうだとすれば、そのとき宇野は社会的諸関聯を「社会的–ア・プリオリ」と看做すアードラーに対してどのような世界=社会観に立つことになったのだろうか。たとえばアードラーは、カントにおける「実体的な自我表象[仮象]」の超越論的批判とマルクスによる「商品形態の呪術性」に関する「社会批判的分析」との「類似性」を示しながら、そうした「商品形態の秘密」へといたる通路としての「経済的価値」概念が資本主義的生産一般を分析する体系の「出発点」であると指摘していた(M.アードラー『思想家としてのマルクス』〔1908年〕第三版1924年、山田秀男訳、1928年、日本評論社)。だが「社会科学の基礎づけ」をめぐる宇野の思考は、新カント派科学論の系譜に連なるM.ウェーバーの批判に関聯して、『經濟政策論 上巻』の「序論」にいたって一定の輪郭を見せはじめるが、この「貨幣の必然性」論文の段階ではそれらは主題的に考察されていない。(続)
〔「小伝 宇野弘蔵」(4)の訂正:シュトライザント書店に関する記述のなかで、
ハイネとあるのは間違いで、正しくはリルケです。お詫びして訂正いたします。〕
2024年10月2日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1321:241004〕
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