ネット時代の行政権力―滋賀県による論文批判事件控訴審判決を受けて
- 2011年 9月 12日
- スタディルーム
- 早川洋行滋賀県論文批判事件
はじめに
2011年9月8日、大阪高等裁判所第6民事部(渡邉安一裁判長)は、控訴人(筆者)の訴えを棄却する判決を下した。私は、学会出張があって法廷には行けなかったので、昨日(10日)夕方に文書が届き、そのことを確認した次第である。判決主文だけをとれば残念な結果に終わったが、判決理由については了解できるところもある。また、この裁判を通して見えてきた社会学的論点もある。これらのことについては、そのうち紙媒体で詳論するつもりだが、これまで筆者は、「ちきゅう座」に事件に関連した自分の意見を発表してきた経緯もあるから、判決結果をちゃんと報告することが必要と考えて、現時点での考えを記述することにする。
1.これまでの経過
事件は、筆者が平成21(2009)年7月、滋賀大学環境総合研究センター研究年報第6巻第1号に論文「地方自治体における諮問機関-滋賀県RD最終処分場問題対策委員会を事例にして」を発表したことをめぐるものである。
この論文は、地方自治体の諮問機関について指摘されてきた問題点を①公開性の問題②議員と行政職員の参加問題③委員の選任問題④非能率という批判⑤情報の制約⑥答申の拘束力問題⑦委員の能動性問題に整理したうえで、滋賀県が設置し、筆者も委員の一人として参加した諮問機関を事例にして分析を行ったものである。
滋賀県は、とくに後半の事例分析の内容に不満を持ち、9月29日に滋賀大学環境総合研究センター長(以下、センター長)あての琵琶湖環境部長を発信元とする滋最特対第70号をもって、当該論文の再審査を要請した。これに対して、滋賀大学環境総合研究センターは、11月5日付滋大環第40号をもって、次号年報への反論論文の掲載と筆者の意見等の同時掲載を認めるとの回答を行った。ところが、滋賀県はこの滋賀大学環境総合研究センターの方針に満足せず、琵琶湖環境部長を発信元とする12月25日付滋最特対第87号をもって、滋賀大学教育学部長(以下、学部長)に「論文の事実についての十分な検証」を行うように要請し、また筆者に対しても同日付で別の、滋最特対第87号を送付し、学部長あて「本論文における事実の検証をお願いし、抗議を行」ったことを伝えるとともに、「自ら適切かつ誠実な対応」を求めた。さらに滋賀県は、同日付「県政eしんぶん」に論文が「事実に反する」もので「県民の安心と安全の観点から容認できないもの」なので、「別紙のとおり滋賀大学教育学部長あてに本論文における事実の検証をお願いするとともに、著者あて抗議を行」った、として、筆者の実名をあげて「公表」した。
筆者は、翌日12月26日になって、友人からの電話で、初めて、滋賀県庁のホームページ上の「県政eしんぶん」において、自分自身に対する抗議が掲載されているのを知った。そして同日夕方、滋最特対第87号が届き、その事実を確認した。学部長宛て文書、ホームページ文書、筆者宛ての文書は別物であるが、同じ通し番号(滋最特対第87号)が付けられていた。そして、これらは同時決済されたものであることが後に判明する。
なお、滋賀県がセンター長と学部長に渡した文書には、「率直に申し上げて今回の論文は、誤解や偏見、さらに申し上げると悪意すら感じる内容であり、当方といたしましてはとても受け入れられる内容ではありません。一つひとつの木々をねじ曲げ、脚色し、虚構のドラマを想像した社会正義に反するものと受け止めています」との記載がある。また、地元自治会で開催された県主催の産廃処分場問題についての説明会で行った際の議事録が、筆者のみ「住民(早川)」と実名付きで記載された形で提供された。
その後、筆者は、12月29日、抗議に対し反論する論文「行政のバルネラビリティ~滋賀県の批判にこたえる」を、この「ちきゅう座」に発表し、そのことを滋賀県に通知した。また、12月30日付で滋賀県総務部長宛てに「行政対応検証のお願い」を送付し、さらに、1月29日付で、「知事への手紙」を提出し、少なくとも12月30日付の「行政対応検証のお願い」への返答をしてくれるように頼んだ。滋賀県側からは、2月1日に文書受領の連絡があったものの内容に関する返答はなかった。これ以外にも電話で返答の督促を1月18日、28日の2回行ったことは、県側の記録にも記載されている。またこの記録文書には、ホームページでの抗議文書について「知事にもみてもらっている」と記載されている。
滋賀県は、こちらの苦情に全く取り合わなかった。そこで仕方なく、筆者は2010年2月17日、慰謝料300万円と謝罪広告掲載を求めて、国家賠償法に基づく訴訟を起こしたわけである。
2.裁判の争点と判決
裁判の争点は、大きく分けて4つあった。第一は、名誉と信用、そして名誉感情の毀損。第二は、「学問の自由」の侵害。第三は、プライバシーの侵害。第四は、苦情に応えなかったことによる行政手続の権利権益の侵害である。
2011年1月25日、大津地裁(石原稚也裁判長)の判決が下った。結果は、原告の全面敗訴である。判決は、滋賀県による論文批判の行為が原告の社会的評価を下げるものではない、と評価した。その上で、批判は原告本人ではなく論文へ向けられたものであり、「地方公共団体だからといって、このような反論が許されないわけではないことは、本件訴訟のように、地方公共団体が当事者となって訴訟活動をする場合を想起すれば、容易に理解できる」とした。
行政体が自らのホームページで実名をあげて「県民の安心と安全の観点から容認できない」論文を書いた、と述べ、学部長へ「誤解や偏見、さらに申し上げると悪意すら感じる論文」を書き、「一つひとつの木々をねじ曲げ、脚色し、虚構のドラマを想像した社会正義に反する」論文を書いたという文書を渡したことを「原告の社会的評価を下げるものではない」と評価したのである。このような判断が成り立つとは、正直言って、全く考えもしなかった。また、論文に向けられた批判だから名誉毀損にあたらないかのような記述は、研究者にとって論文が人格と一体になったものであることを全く理解していない。そして、何よりこの判決の問題点は、今回の紛争が行政体と私人の間で起きたものであるにもかかわらず、私人間の紛争と同様な法理で裁いていることである。公正さが担保される裁判の論争と実社会における行政体と私人の論争を疑問もなく同一視する発想には、正直なところ「司法の劣化」を感じざるを得なかった。この判決を受けて、当然のことながら、筆者は即刻控訴した。
控訴審は、事実上書面のみの審議であった。しかし、大阪高裁の判決は、判決文こそ同じであるが、そこにいたる理由については地裁判決と大きく異なるものであったと言ってよい。
高裁判決は、判断基準を次のように明確化している。
「名誉感情の侵害について国賠法上の違法性の有無については、私人間の外部的名誉の保護と表現の自由との調整原理である真実性・相当性の法理をそのまま当てはめることはできず、その行為が被控訴人の公務の円滑な遂行に必要であることのほか、侵害された権利権益の内容及びその程度、侵害行為の態様、前提とした事実の真実性ないし真実と信ずるについての相当な理由の有無、その他諸般の事情を総合考慮して個別に判断されるべきものである」。
高裁判決は、この観点から、「学者が、間接資料ではなく、自ら経験的に認識した事実を基礎に執筆した論文の事実関係の中に真実と異なる部分があると言明されることは大きな問題であり、その名誉感情を害されたであろうことは容易に推認できる」として、筆者の名誉感情の侵害を認める。そして、滋賀県の行為について「論文執筆者である控訴人に直接対峙して正面から問題の解決を図るというより、学内行政上の上下関係を利用して解決を図ろうとした行為と指摘されてもやむを得ない」とする。しかしながら、学部長は「論文に対する抗議(異議申し立て)が所属学部長になされること自体が筋を違えた行為であるとの冷静な判断をしていたことが推測」されるので、(学問の自由の侵害など)控訴人に被害が及ぶ危険性が生じていたとは解しにくい、とする。
またプライバシー問題については、「教育学部長に本件議事録を交付したことは同条例8条1項に抵触する可能性も否定できない」としつつも、情報が不特定多数に対して公表されたものではなく、学部長宛てに送付されたに過ぎないと述べる。
さらに、県がこちらからの苦情に取り合わなかったことについては、「控訴人の主張する意見陳述の機会なるものが、いかなる法律上の利益であるか不明である上、そのような機会を保証するために、被控訴人代表者が控訴人の質問に対して回答すべき作為義務を負う法律上の根拠も見当たらない」ので、請求は理由がないとしている。
大阪高裁は、これらの判断の上に控訴を棄却したのである。
この判決について全体的な印象を述べるならば、滋賀県の行為は、けっして誉められたものではないが、被害もあまりなかったことだし、道徳上の問題があるとしても、法律に照らして賠償を認めるほどではない、という内容だろう。
そう言われてしまえば、筆者としても反論しづらいのは、たしかに事実である。じつは事件後に、滋賀大学教育学部教授会は、筆者を教員の採用・昇進にかかわる権限を持つ人事委員長に任命したし、某市にいたっては、職員研修の講師を依頼してきた。それらが、権力に媚びないことが評価されたとか行政組織の問題点に卓見をもっているから、というつもりは毛頭ないが、たしかに、筆者はこの事件によって取り返しがつかないダメージを受けたわけではない。むしろ、個人的には大変良い勉強になり、少し得をしたところもあると思っている。そのことについて、次の章で論じよう。
3.控訴審判決の意味するもの
今回の事件において確認できる事実として、まず行政広報の地位低下という点を指摘することができる。控訴審判決は、県庁のホームページで論文批判がなされたことについて次のように述べる。「控訴人は、被控訴人のような行政等は、一般のメディアと比較して高い信用性があるとか、インターネット上の公表は不相当であったなどとも主張しているが、前記の通り、控訴人自身も対策委員会に委員として参加した上で本件論文を作成したものであるから、読者から見て直ちに本件文書2(滋賀県の主張…筆者)の方が高い信用性があると判断されるものではないし、控訴人自身もセンターを通じて本件論文をインターネット上に公開することを承諾していたことからすると、控訴人の上記指摘は、上記の判断を覆すに足りない」。
これは、行政の広報(県庁ホームページ)を他の言論メディアと同等のものとして位置づけた画期的な判決ではないだろうか。もちろん、この評価には異論もあるだろうが、情報化が進み、原発問題等での政府発表への不信が残る今日的状況においては、たしかに一定首肯しうる主張である。こうした判断は、ネット時代とも言える時代状況を背景にして出てきている。以前なら、このような言明はなされなかったに違いない。
高知地方裁判所の判決(昭和60年12月23日:昭和56年(ワ)第311号)判タ612号66頁・判時1200号127頁)は、土佐清水市の市報に掲載された記事が原告会社の社会的信用を低下させたのは明らかであるとして、国家賠償法に基づく損害賠償請求を認めた。その判決は次のように述べている。
「地方公共団体の反論を広報として配布する場合には、広報に名を借りた個人攻撃とならないよう、前提事実の認定及び差別性の判断は慎重になされるべきである」。「地方公共団体が広報に掲載する記事を作成する際には、少なくとも、当事者双方、とりわけ、問題があるとされた側から事情を聴取し、これに基づいて内部で十分に検討を加えるなど慎重な配慮をしたうえで事実を確定すベきである」。
また広島地方裁判所支部の判決(平成5年3月29日:平成元年(ワ)第10号 判時1479号83頁)は、某市内の小学校に勤務する教諭(原告)の職員会議での発言が、その市の広報紙および教諭が居住する別の市の広報紙に掲載され(ただし、仮名による)、名誉を毀損されたとして損害賠償および謝罪文の掲載を請求したものであるが、判決は、市の広報紙が「その公共性から市民にとって正確で、重要な情報を提供すべき使命を有していると同時に、市民からも高い信頼性を勝ち得ていること」から「格別の真実性が要請されているといわねばならない」ことを理由にして、「原告の損害の回復は慰謝料の支払いだけでは十分でなく、同一の媒体を通じて名誉回復措置がとられなければならない」と述べた。
これらの判決には、行政広報は他のメディアとは違い、特別のものであるという認識がある。しかし、もはや今日、それは通用しないのかもしれない。行政への信頼が低下してゆき、それと同時に行政広報に求められる注意義務も緩む傾向にある。
判決から考えさせられる第二の問題は、「不特定多数」という言葉の意味にかかわっている。控訴審判決は、筆者の地元で行われた説明会の議事録について、学部長へ渡したことについて「不特定多数の者に対して公表されたものではない」として認容している。このことについては、中国要人の講演会に参加した学生の氏名・住所を警察に提供したことの是非が争われた「講演会参加者名簿提出事件」についての最高裁判決(平成14(受)1656 平成15年09月12日最高裁判所第二小法廷)に照らして疑義が残る。その判決は次のように言う。
「同大学が本件個人情報を警察に開示することをあらかじめ明示した上で本件講演会参加希望者に本件名簿へ記入させるなどして開示について承諾を求めることは容易であったものと考えられ,それが困難であった特別の事情がうかがわれない本件においては,本件個人情報を開示することについて上告人らの同意を得る手続を執ることなく,上告人らに無断で本件個人情報を警察に開示した同大学の行為は,上告人らが任意に提供したプライバシーに係る情報の適切な管理についての合理的な期待を裏切るものであり,上告人らのプライバシーを侵害するものとして不法行為を構成するというべきである。原判決の説示する本件個人情報の秘匿性の程度,開示による具体的な不利益の不存在,開示の目的の正当性と必要性などの事情は,上記結論を左右するに足りない」。
このように最高裁判例は、プライバシーを個人が特定される情報として広くとらえ、その管理についての「合理的な期待」を重視している。現代社会は、個人がマスメディアのように不特定多数に情報を送ることが可能にするツールをもった社会である。そうであるならば第三者に渡すことは、常に「不特定多数」に流される可能性があることを覚悟すべきだろう。ましてや、この文書は公文書である。当然、情報公開の対象になるだろうし、その際、すでに第三者に公開している実名を非公開とすることに理由づけするのは難しいに違いない。すなわち、ネット時代にあっては、行政情報を特定の者に開示することと不特定の者に開示することに大きな違いはない。最高裁判例の示す通り、そもそもの情報提供者の合理的期待を基準にして、是非を判断すべきではないだろうか。
4.国家的秩序と社会的秩序
筆者は法律の専門家ではないが、自分に降りかかった火の粉は、基本的に自分で振り払うものと考えていたので、1審が敗訴した時と控訴理由書の作成の際の2回(時間の相談)を除いて、弁護士に依頼することなく本人訴訟で闘ってきた。国家賠償法に基づく以外に別の法律を根拠にする手があったかもしれないが、素人には思いつかなかった。その限りで理解したのは、裁判所は法律違反を判定するところであって、正義を判定するところとしては限界がある、ということである。
判決では、滋賀県が学部長へ苦情を申し立てたことについて、「論文執筆者である控訴人に直接対峙して正面から問題の解決を図るというより、学内行政上の上下関係を利用して解決を図ろうとした行為と指摘されてもやむを得ない」としている。また滋賀県が、こちらからの苦情を無視したことについて「控訴人の主張する意見陳述の機会なるものが、いかなる法律上の利益であるか不明である上、そのような機会を保証するために、被控訴人代表者が控訴人の質問に対して回答すべき作為義務を負う法律上の根拠も見当たらない」としている。市民社会における規範に照らして、職場に文句を言いつけることや勝手に批判しておいて逃げるかのような行為は、卑怯で下劣なことであることは、明らかであろう。しかし、こうした卑怯で下劣な行為は、それを禁じる法律がない以上、裁く対象ではないのである。
裁判所というのは、国家機構の一つであって法に基づく国家的秩序の維持を担っている。しかし、われわれの社会は、それだけでは十分に機能しない。そうした国家的秩序としての法を補って、道徳の領域がある。これは社会的秩序の領域と言ってよいだろう。ではこうした社会的秩序の維持を担うものは何だろうか。筆者は言論だと思う。「法律的には妥当かもしれないが、道徳的には不適当な行為」を顕在化させ、正しく指摘するのは、学問とジャーナリズムの責務だろう。行政権力を正義へと導くものは法と言論であり、両者は車の両輪でなくてはならない。
今回の訴訟において、筆者が真に求めていたものは賠償金ではもちろんなくて、今回の行政運営が正義にかなっていないという判定である。これは、そもそもの筆者の論文の主張でもあった。この点からすれば、高裁判決は、一定程度満足できるものだった。
しかしやはり、裁判所と法は片方の車輪でしかない。このことを痛感したことは、訴訟を提起したことで得られた最大の成果であった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study415:110912〕
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