「年収の壁」見直しを考える
- 2024年 11月 24日
- 時代をみる
- 「年収の壁」松井和子
10月の選挙で国民民主党が掲げ、多くの支持を得た給与を増やす「103万円を178万円」が連日報道されている。しかしその報道には肝心のことが出てこないと、私は首をかしげていた。そうした折、23日(土)TBS報道特集「当事者は「年収の壁」見直しへ 働き控えの根底に何が」の報道は、働く女性たちの今を知ることができるものだった。
私は、女性が学校を出て仕事を得ても、結婚したり子どもが出来ると直ぐ辞めてしまう時代に子育てをしながら働き続けた一人だった。私のそうした経験も、日本社会での女性の有り様を知り考えるひとつかなと思い、振り返ってみた。
1960年代、1歳未満の子どもを夕方まで預かってくれる保育所はほとんどなかった。岐阜市にはひとつだけだった。役所に届を出し、何度もお願いに通った結果、実現し、子どもを育てながらの生活が始まった。
保育所のある場所に近い大学勤務の夫が子どもの送り迎えをしてくれ、借りていた隣の大家さん家族が助けてくれるなど、3人の子どもたちは地域の方たちや家族の協力で無事成長していった。お兄ちゃんが学校から帰った夕方、下の弟を保育所に迎えに行く、両親がどちらも会議などで夕食の時間に帰って来られない時は、用意してあった夕食を子どもたちで食べる・・・など、今では許されない、考えられないことだろう。それが出来た隣近所、地域や行政の人たちの温かい眼があったと思う。子どもたちも洗濯物を取り込んでたたんでおいてくれたりした。土曜午後からの休み、夏や冬の休みは、家族そろって川や山や海へと出かけたり地域の人たちとの楽しい時間だった。
また1970年代、80年代全国的に労働運動も活発で、話し合って要求を出したり交渉をしたりして勝ち取ってきたことも大きかった。一か月だった産後休暇が延長されたり、一日1時間の育児時間が出来たり、私は恩恵に預かれなかったが育児休業が出来たりした。
退職してから夫の経営する小さな事業所の経理事務も短期間であったが行い、所員の福利厚生にも携わった。少ない知識ではあったが、そんな中で女性たちが所得制限をしながら働く姿に考えさせられていた。悪い言い方をすれば「夫の付属物」のような生き方だと思えた。妻の収入が一定以下だと、扶養家族として配偶者手当が出る。税金の控除もあってその方がよいと大方の人は思っていた。
だけど・・・と、いつも考えさせられていた。
そう考える背景には、「自立しなさい」と私を送り出した母親の言葉がある。
ひと昔前の母たちの時代は今よりもっと男中心の世の中だった。商売をやっていたので朝早くから夜遅くまで働き通しの母の姿を見ながら育った。父は母を思いやる人だったが、女性にかかる負担は大きく、あまりの辛さに母は実家の親に離婚したいと話したこともあったという。でも離婚したら親に頼ってしか暮らせない。自立する術がなかったのだ。だれにも頼らないで自立できる、それには自分の職業を持つことだ。人生何が起きても自分で暮らしていけるように、母の言葉を忘れないように生きようと家を後にしたことを覚えている。地方で女であって大学に行くのはまれであったその頃、他県への進学は許してもらえなかった。大学卒業後、選んだ仕事で、多くの人に出会い、たくさんのことを経験し学ぶことが出来たことを感謝している。
やがて年を取り、今は年金生活者だ。
この79年、戦争をしないできた平和な社会がそれを支えてきたと思う。
日本の女性の地位は低い。賃金の格差すらある。雇用均等法が出来ても変わらず、女性たちの多くが甘んじてきた給与の壁・配偶者としての働き方、育児・介護などの様々な壁をそのままにすべきではない。
時代は大きく変わってきている。
女性の7割以上がもっと働きたいと考えているという。持てる力を生かし、いろんな人といろんな場面で生きる一人の人間として、子どもたち若者たちのこれからをも含めて考えるときに来ているのではないか。憲法や法律、国会はそのために存在する。男女共々、声を上げる時だと思う。
2024/11/23
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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