アジサイの季節になって―長めの論評(六)
- 2010年 6月 17日
- 評論・紹介・意見
- 三上治吉田茂安保岸信介
アメリカ追随と言われていた吉田がアメリカの軍事協力要請に消極的であり、ときに抵抗もしたのに、日本の独立派と目された岸が逆に積極的であったことは注目しておいてよいことだ。要するにアメリカは吉田よりは岸の方が組みやすいと見ていたのだろう。これには冷戦構造や日米関係の政治情勢的判断の差異とともに戦争についての判断や認識の差異があったのだと思う。だが、何よりも岸は戦後占領政策の清算派であった。これには日米の安保条約への対応と占領下で進められた戦後改革への対応があった。清算派の眼目は戦後憲法の改正と自主防衛強化であるが、同時に戦後諸改革の清算ということがあった。ここでも吉田と岸は対照的であった。吉田は憲法改正や戦後諸改革の清算に消極的であるのに対して岸は積極的であった。新憲法制定や戦後諸改革がアメリカ占領軍の日本弱体化政策であると同時に、戦前―戦中の日本国家の在り方を反省する側面があった。吉田には戦後諸改革の必然を認めるところがあったが、岸には国家主義者という要素が強くてこの後者に対する認識は薄かった。
新安保条約の制定は岸の政治的プログラムとすれば第一歩であり、憲法改正―自主防衛の本格化がめざすものだった。これの次の段階として本格的な新新安保条約の制定を構想していたのかもしれない。占領政策の清算は岸にとって戦後の清算を意味していたけれど、これは保守派の内部でも一致はしてはいなかった。憲法改正の中心は9条にあり、本格的な軍備化がその目標ではあったが、同時に憲法の国民主権的要素の制限が構想されていた。国民の権利の制限と義務の拡大である。これは政治権力の集中と強化をめざすものであった。この当時、戦後の民主化政策の清算は歴史の逆コースと語られ批判されていた。
岸は学生時代に国体論者の上杉慎吉に師事していたが、美濃部達吉の天皇機関説も評価していたし、北一輝に傾倒もしている。彼は革新官僚として活躍していた。彼は国体(天皇主権)の回復による日本主義的な戦前回帰ではなく、官僚を中心にした権力の再編強化を意図していたように思われる。敗戦に伴う国体の変更には手をつけずに、官僚主導の政治・社会権力の強化をやろうとしていたのである。これはアメリカ主道で行われた戦後諸改革を名目的には残し、官僚体制の強化による強い国家の復権をめざしたものと言える。教育現場への勤務評定の導入や警職法改定(警察官職務規定改正案)はそれを現わしている。
彼の憲法改正論には9条の改正だけではなくて、国民の権利の制限と政治・社会的な権力集中の意図が存在していたのである。
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〔opinion023:100617〕
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