(続々)あらためて問う、毛沢東とはなにものか ――チベット高原の一隅にて(83)――
- 2010年 6月 17日
- 評論・紹介・意見
- 中国毛沢東阿部治平
この4月、北京の高校教師袁騰飛がネット授業で、毛沢東に対する批判を行ったため、毛沢東主義者(保守派=「左派」)をいたく刺激し、いまもネット上で激しい論争がおこなわれている。
袁は遠慮なく毛沢東をこき下ろしただけでなく、中国は「国家の上に党があり党の上に人がある」といったように、現体制批判ともとれる発言をしている。それで私は自分のまわりを見て西北では国事を論ずることなどいささかもないと書いたが(「チベット高原の一隅にて(78)」)、私の周辺で国政が話題にならないだけで、印刷物の上では青海でも袁騰飛よりも一年もまえに杜導正の毛批判論文が紹介されていた。
杜導正の論文「新民主主義への回帰と発展」は昨年の「青海蔵族」(2009・2)に転載された。原載誌は「炎黄春秋」(2009・4)である。
杜は、1949年の革命以後1978年までの毛沢東型支配に対する批判にとどまらず,現体制の課題として政治体制改革を要求する。主な道具は1949年の革命前の中共路線であった「新民主主義論」、対象は1949年以後。
(杜導正は1923年生まれ。14歳から抗日戦に参加した「老紅軍」。「炎黄春秋」社社長。「炎黄春秋」誌は91年創刊の月刊誌。歴史評価に独自見解が多い。「青海蔵族」誌は青海蔵族研究会の機関誌。同会は1998年発足の研究・ボランティア団体)
以下、杜の論文を要約する。( )は阿部。
1949年以前の毛沢東は基本的によい人物といえようが、政権掌握後は重大な間違いを犯し中国人に大きな災難をもたらした。原因は彼の品格、「帝王術」にあるという人もいるが、それを一応認めるとしても毛沢東問題の本質ではない。
権力掌握後の毛沢東の悲劇は、第一に社会主義建設にあたっての誤認、第二に「新民主主義論」からの背理、第三に(新中国の)国家体制の欠陥などによって生まれたものである。
第一の問題。毛は非常に強い「ユートピア」思想の持主だった。それは「村々で働く人々は、自由で、権利をもち、平等で、教養があり、さらには農村ごとに大学があり、兵隊と人民は一体で、学校はすなわち工場である」という状況である。これは劉少奇のいう「農業社会主義」思想だ。のちに胡縄(党理論家、国家社会科学院院長、1918~2000年)はこれを「ナロードニキ主義」と概括している(ナロードニキとは、19世紀後半、ロシアでミール<農村共同体>を基盤とした社会主義を構想し啓蒙活動をした革命家たち)。
第二の問題。1940年1月、毛沢東は「新民主主義論」のなかで、「中国革命勝利ののち、かなりの長期間新民主主義社会と新民主主義共和国を経過しなければならない。そののち初めて社会主義に入ることができる」とし、また、共産党は資本主義の発展のために条件を作り出す革命をやるといって、(都市工業を視野に入れ)ナロードニキ的な農村を基礎に据えた社会主義に反対していた。
ところが1953年から「新民主主義論」に決別し、あらゆる私有の経営を共有化した。胡縄は毛の建国後の重大な過ちにこの「新民主主義論」の放棄をあげている。
第三の問題。毛沢東は1944年に中国に最も欠けているのは民主だ、いま最も必要なのは民主だ、民主があって初めて抗日戦に勝利できる、いい国家をつくるためにはやはり民主が必要だ、と説いている。44年2月「新華日報」社説では「徹底して十分に有効的に普通選挙制を実施しなければならず、人民に実際に『普通』『平等』の選挙権・被選挙権を享有させなければならない」ともいった。
だが、彼が全国執政の地位にのぼると状況は一変した。彼自身も変った。毛沢東は自分の「ユートピア」社会主義を追求し、意見が異なる人々をほしいままに叩いた。どうしてこんなことができたのか。これこそ政治体制の問題だ。彼を制約する政治体制がなかったからだ。
さて、杜導正がいうように毛沢東が「ユートピア」社会主義者だったというのは、「大躍進」を見ただけでわかる。しかし「毛沢東思想」とは革命前は「新民主主義」にほかならなかった。それは革命に成功しても、すぐ社会主義をやるのではなく私有財産と単独経営の保護、工業の育成を図るとし、社会主義へは国民の合意が前提で、ずっと先のこととしていた。だが、この構想には肝心の経済学を欠き、どの段階で社会主義に移行するか明らかでなかった。
杜は毛沢東が権力を握ってから変わったというがそれは事実と異なる。彼はすでに革命根拠地の延安において軍・党の権力を握り、1942年整風運動(党内再教育)から中国の「救いの星」として崇拝され、「毛沢東思想」は絶対のものとなり、革命勝利後はほとんど神格化された。文革のときエドガー=スノーに語ったことでわかるように毛沢東はこれを自覚していた。
毛沢東が「民主」といっても主権在民のデモクラシーとは一緒にはならない。彼の「民主」は「君主主権」に対するもので、性善にして正義の中共が「人民主権」の権力を代行すること、それが彼の「民主」だったのではないかと私は考える。
「チベット高原の一隅にて(79)」で、高校教師袁騰飛に対する批判として「北京日報」社長梅寧華の論文「旗幟鮮明に歴史ニヒリズムに反対しよう」を紹介した。これをもう一度見ると、梅の主張では、1949年の革命について唯物史観に反する観点は二つあるという。
ひとつは(革命直後の)社会主義改造の必然性を否定し、中国は社会主義への過渡を急ぐべきではなかった、毛沢東が民主革命の時期に提起した『新民主主義社会』の構想に照らして、資本主義を十分に発展させ、条件が成熟するのを待って社会主義に進むべきだったとするもの。
もうひとつは全面的に(49年からの)30年を否定し中国が社会主義をやったのは「歴史の誤り」だとするものだという。(以下では全面否定論は議論しない)
梅は杜のいいぶんは間違っているとし、「新民主主義」路線でやるといっていたものを、いきなり社会主義集団体制に突っ込んだのは必然だというが、そうすると何十万の知識人を抹殺した「反右派」闘争、千万単位の餓死者を出した「大躍進」運動、千万単位の悲劇を生んだ「文化大革命」をどうみるか。
梅は「(1949年から文革の終わりまでは)新中国の歴史上もっとも複雑曲折に富んだ時期である。社会主義改造・大躍進・人民公社運動・文化大革命はわかりにくい(繞不開)重大な事件であった」という。
いかにもわかりにくい表現である。杜導正や胡縄の議論を否定したら、毛治世を肯定しなければならず、そのようにすれば数々の失政を肯定しなければならないが、それはできない。そこで苦し紛れになる。
杜はいう。
毛沢東と鄧小平の最大の違いはどこにあるか。毛沢東は新民主主義を否定した。鄧小平は(全人民所有とか)計画経済の迷信を打ち破り、「新民主主義への回帰と発展」をみちびいた。彼の社会主義初期段階というのはとりもなおさず新民主主義のことだ。
鄧小平は我々の改革が最終的に成功するかどうかは、政治体制の改革にあると強調した。80年と86年これについて極めていきいきとした講話をし体制改革の希望を語った。
当時、私のような老人たちは鄧小平に政治体制の改革を議事日程にあげるよう期待した。なぜかといえば、鄧小平には全党、全軍、全国においてきわめて大きな権威と人望があったからだ。
ところが残念なことに鄧小平はひるんだ。だから政治改革はわずかなものとなり、改革はずっと「びっこ」のままだ。すなわち鄧小平がやり残した最大のものは政治体制改革である。
「改革開放30年の今日、政治体制改革を進め、鄧小平がやり残した事業を完成しようという声は時代とともに強くなっている。私のような80数歳のものでも時代の呼声を感じる。中南海(中国首脳居住地)はこれを感じること我々の比ではないだろう」
私もたしかに鄧小平は経済改革を決断して危機に瀕した中共と中国を救った人だと思う。当時はらはらして中国内の社会主義か資本主義かの論争を見ていたことを思い出す。
だが彼はさらに「普選」をふくんだ民主主義体制の確立までを目指し、それを何らかの理由で中止したのだろうか。鄧のその後の政治行動からして私にはそうは思えない。むしろ鄧小平は政治体制改革によって一党支配が崩れることを懸念したのではないか。
以上見たところ、杜導正の毛沢東評価は中共の81年「歴史決議」から大きくはみ出すものではない。
「青海蔵族」誌がこれを転載したのも、杜の毛沢東論を是とするか否かはさておき、歴史を冷静に評価しようとしたものと理解できる。
軽率であったにしても高校教師袁騰飛の毛批判は杜導正の議論に内包される。言論界で毛沢東治世と政治体制の批判的見直しが進むなかで行われたものとすれば、袁の発言もそうとっぴなものではない。時代の声の一つかもしれない。
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