「原爆から原発、原発から原爆」の轍を繰り返さず、放射線汚染大国で生き抜く、新たな想像力を!
- 2011年 10月 3日
- 時代をみる
- 加藤哲郎原子力開発原爆
2011. 10.2 9月末までヨーロッパ4か国をまわって、帰国しました。まだ時差ボケがひどく、久しぶりの更新も遅れました。ドイツからスウェーデン、フィンランドは深い秋、セーター・コートなしでは肌寒い季節でした。イギリスに入ったら半袖で大丈夫で、日本に帰国したら、まだ夏でした。海外での日本は、率直に言って、普通の人々の関心外です。世界金融危機が続き、中東革命につづいてパレスチナの地位が問題になっているもとで、国連総会に野田という新しい首相が出たそうですが、またどうせ来年は別の顔でしょうからと、注目もされません。したがって、野田首相国連演説の「東京電力福島第1原発事故は着実に収束に向かっている。年内をめどに原子炉の冷温停止状態を達成」「日本の原発の安全性を世界最高水準に高める」も、またいつもの空文句かという程度で、聴衆も少なく、信じた人はいないでしょう。3-4月の東日本大震災・津波・フクシマ原発事故時に比べて、すっかり日本関係のニュースは少なくなりました。CNNテレビで見れたのは、9月19日東京での「サヨナラ原発」5万人デモのニュースだけでした。それも、世界の世論の動きに比べれば、「ようやく当事国日本でも脱原発派が見えてきた」と、25万人デモですでに脱原発を果たしたドイツの報道は、辛口注釈付きです。デモなら、中東でもギリシャでも、アメリカでさえ当然の民衆の表現の自由であり権利ですから、日本に詳しい友人たちは、むしろ9月11日新宿脱原発デモへの警察の弾圧、12人の逮捕に驚き、あきれていました。すでに日本が、チェルノブイリ以上の放射線汚染大国になり、いまなおフクシマから空や海への放出を止めることができず、日本が「危険な国」になったことだけは、広く知られています。プルトニウムもストロンチウムも、やはり出てきました。除染も汚染水処理も、これからです。私自身は、8月アメリカでも9月ヨーロッパでも体験していませんが、日本からの旅行客への放射線特別チェックが続いている国や空港も、あるようです。無論、日本食品ばかりでなく工業製品の輸出も、世界中でチェックされています。風評被害ではありません。フクシマだけの問題でもありません。日本の全体が、3月中旬の1週間で、近隣諸国はもとより地球全体への核被害を与えたとイメージされています。1986年のソ連と同じです。ソ連の場合は、5年後に、国家そのものがなくなりました。関心のある親しい人々には、詳しい事情と資料の入ったPDFファイルを渡すと共に、手っ取り早く、ウェブ上のyou tube 画像と歌、「日本では放送できない 報道できない 震災の裏側」を、ホテルやカフェで見せて、解説してきました。
8月末からの、1か月ぶりの更新になりますので、少し長くつづります。海外の友人たちから質問され、うまく答えられない問題が、いくつかありました。一つは、東日本大震災での外国人犠牲者・被害者数。参院議員有田芳生さん「酔醒漫録」で4月12日付け23人までは把握していましたが、これはあくまで、外務省が在日各国大使館に問い合わせてまとめた公式の数。大使館の把握していない人々もいたはずですから、実際は、いまだに不明です。どなたかご存じの方は katote@ff.iij4u.or.jpにご一報を。もうひとつ。一時は「フクシマの英雄」とまで持ち上げられた、フクシマ第一原発心臓部で働く労働者たちのこと。次第にそれが「原発大国日本」を支えてきた危険な下請け最底辺労働であることが外国にも知られるようになりましたが、その「原発ジプシー」に、外国人労働者がどこまで入っていたかの問題。これも、いくつか事例は拾えますが、規模と全容が見えません。外国人ヒバクシャを、相当数産み出してきたのではないでしょうか? そして、3つ目は、予想通りの質問。「ヒロシマ、ナガサキ体験をしたはずの地震大国日本が、なぜ世界第3の原発大国になり、無惨なフクシマ原発事故でも脱原発できないのか?」と。今回の旅の主たる目的は、これと関連していました。ちょうど雑誌『未来』10月号に「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの記録から」と題して論じた発表したばかりの、「崎村茂樹の6つの謎 」についての調査でした。2007年「中間報告」に続く「国際歴史探偵」で、第二次世界大戦中の連合国対枢軸国の情報戦、いや枢軸国内独日、連合国内米英ソを含む戦時情報戦の主舞台は、中立国スイスとスウェーデンでしたから、その中で崎村茂樹の「亡命」の意味を考えてきました。今回は、日本の3・11を踏まえ、新たな視点を加えました。在独日本大使館嘱託で鉄鋼統制会ベルリン事務所のエコノミストであった崎村茂樹が、スウェーデンに「亡命」したのは、1943年9月から1944年5月、日独伊枢軸のイタリアはすでに脱落・降伏し、連合軍のドイツ空襲は激しくなっていました。これに原爆開発はからんでいなかったのか、と。
崎村茂樹は、44年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の2か月前に、ゲシュタポと在独日本大使館外事警察・在スウェーデン陸軍武官室にストックホルムの隠れ家を発見され、ベルリンへ強制送還となりました。太平洋戦線は、1943年9月学徒出陣で若者を総動員しても、日本の戦局は悪化するばかり、44年6月米軍サイパン上陸から北九州への空襲も始まり、44年7月18日東条内閣総辞職で、玉砕と特攻の無益な死を積み重ねるだけになります。連合軍の側は、1943年11月米英中カイロ会談と米英ソ・テヘラン会談で独日「無条件降伏」後の戦後世界分割支配の構想=抗争段階に入り、45年2月ヤルタ会談、7月ポツダム会談への最終勝利局面に入ります。この時期の米軍最終兵器、原子爆弾作成のマンハッタン計画に、独日枢軸の方はどう対応したのか、ドイツや日本にも核兵器開発計画があったのではないか、鉄鋼統制会の仕事でドイツのジーメンス社と近かった崎村茂樹は、どこまで日独の軍事情報を持ち、それを連合国側にもたらしたのか。そこに、英国諜報機関MI6 や米国戦略情報局OSSは、どう関わったのでしょうか? 当時の軍事情報戦のひとつの焦点は、ドイツと英米の原子力開発、ヒットラーとルーズベルトと、どちらが先に原爆を作れるかでした。
こんなかたちで、崎村茂樹の「亡命」を見直したのも、第二次世界大戦中の核開発が、もっぱら米国によるヒロシマ・ナガサキへの二つの原爆投下という結果の方から語られ、「唯一の被爆国日本」と、その日本にこそ「原子力の平和利用」がふさわしいとされてきて「フクシマの悲劇」にいたった謎を、解くためです。フクシマ=原発の悲劇の方から見ていくと、原爆をめぐる情報戦からも、違った歴史の流れが見えてきそうだったからです。結論的にいうと、「亡命者」崎村茂樹や、当時の欧州日本諜報活動のエキスパートであった在ストックホルム陸軍武官小野寺信らが、国際原爆情報戦に関わった資料は、見つかりませんでした。全く無関係であったのかもしれません。ただし、この間発表されたいくつかの日本側資料からして、第二次世界大戦中に日本も原爆をつくろうとし、そのための情報収集を行っていたこと、米英のマンハッタン計画にソ連が送り込んだような諜報ルートを持たなかったにしても、同盟国ドイツの核兵器開発にはひそかに注目していたことは、まちがいないようです。いずれも8月訪米中に日本で発表されたものですが、二つの資料がヒントになりました。一つは、今夏8月6日放映のNHKスペシャルで、ワシントンでYou Tube映像で見ました。日本は、1941年から陸軍=理研 仁科芳雄の「二号研究」、海軍=京大荒勝文策の「F研究」で原爆開発を開始しており、その関係者の多くは、戦後の「原子力の平和利用」=原発開発にもたずさわります。日本の成果は初歩的なものでしたが、ドイツから潜水艦によるウラン輸送も試みられました。だからこそ、陸軍特殊情報部は、8月6日のヒロシマの「新型爆弾」をすぐに原子爆弾と見抜き、9日のナガサキについては、投下の5時間前にはB29出撃情報をキャッチしていたと言います。そのプルトニウム爆弾を、空襲警報も出さずにナガサキに落とされ、膨大な犠牲者を出したのです。もう一つ、早坂隆「Uボート内に散った日本人技術者」(『中央公論』9月号)は、1945年3月にドイツからウラン235を運ぶUボート234号に乗り組んだ庄司元三海軍技術中佐を扱ったドキュメンタリーでした。庄司は、友永英夫技術中佐と共に、酸化ウラン560kgを日本に送り届けようとキール軍港を出発しましたが、45年5月8日、米軍に発見され降伏、二人の日本人技術兵士は服毒自殺しました。つまり、日本軍は、ナチス・ドイツの協力を得て、原爆開発を進めており、実際に国内でサイクロトロンをつくり、濃縮ウラン燃料を入手しようとしていました。 「原爆投下 活かされなかった極秘情報」
これを、鳥飼行博さん研究室は、写真入りの力作「日本の原爆開発:核兵器使用の可能性」のなかで、世界で初めての本格的都市無差別攻撃は1937年8月の日本軍による中国の首都重慶爆撃であったことと重ね合わせ、「日本は原爆を投下された直後から、それまで原爆開発していたことは棚に上げて、原爆の悲惨さ、非人道性を攻撃した。対照的に、米国では、原爆終戦和平説が常識化しており、原爆投下部隊は平和と勝利をもたらした英雄である」とされた経緯を述べています。3・11を踏まえた鹿児島大学木村朗さん「「原爆神話からの解放と核抑止論の克服?ヒロシマ、ナガサキからフクシマへ」も、原爆投下についての世界の学説状況を踏まえて、「新型兵器の実戦使用は、日本の侵略戦争で大義名分が立ち、ポツダム宣言も拒否し、1発目の原爆投下では降伏しようとする意思、動きを見せなかったからという理由づけで行われている。戦後のアメリカの核兵器はすべてがプルトニウム型なので、やはり2発の原爆、とりわけプルトニウム爆弾は、実際に落としてその効果、物理的な破壊力だけでなく、人体への影響力も含めて、データを測る必要があったのではないかと思う。そういった原爆投下の狙いについては、戦後の占領期、被害状況も含めて原爆に関するあらゆる情報を秘密にしてーー日本も原爆を開発していたので真っ先にそこを占領して破壊したということもあるけれど--そういった原爆関連情報が日本内外に伝わることを、厳重な検閲体制を導入して隠蔽した」事実を改めて問題にしています。これも力作です。
もっとも中立国スウェーデン、スイスを主舞台にした原爆情報戦の焦点は、日本の原爆開発ではありませんでした。ドイツの原爆開発と、英米マンハッタン計画の競争でした。これを詳しく描いたのが、トマス・パワーズ『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したかーー連合国が最も恐れた男・天才ハイゼンベルグの闘い』(福武文庫、1995年)です。上下1000頁を越えるノンフクションの大作なのに、邦訳では典拠や注が省かれているのが難点ですが、崎村茂樹や小野寺信、庄司元三、友永英夫らが介在する余地はなかったかと考え、旅行中に読みました。日本人の出番はありませんでしたが、英米のマンハッタン原爆開発が、もともとナチス・ドイツを標的としており、ドイツよりはやく原爆をつくろうと、亡命ユダヤ人核物理学者らを組織し、巨費を投じて実現されたという、おなじみの問題に関わります。亡命ユダヤ人科学者レオ・シラードが、アインシュタインを動かして、ルーズベルト大統領に原子力の軍事利用について手紙を書かせたのが、第二次世界大戦前の1939年8月2日、国家的プロジェクトとしての出発が42年6月、グローヴス将軍を最高責任者に、ロバート・オッペンハイマーを科学部門の責任者にして、ロスアラモス等で秘密裏に研究開発が始まるのが、42年11月でした。この時、グローブス将軍は、ドノヴァン将軍の戦略情報局OSS(CIAの前身)を使って、敵国ドイツの原爆開発情報の収集も、秘密裏に始めます。したがって、スイスのOSSヨーロッパ総局長アレン・ダレス(戦後CIA長官)も、一役買います。英米側軍人も、オッペンハイマー、ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミら科学者たちも、共に恐れたのは、ナチス党員ではないがドイツにとどまり原爆開発に動員されるであろう天才ヴェルナー・ハイゼンベルグの核研究の進展でした。ハイゼンベルグ自身は、ヒットラーには反対で、ドイツ原爆製造の国家的プロジェクト「ウラン・クラブ」を、なんとか膨大な被害が予想される原爆製造まで行かないところで、終戦まで物理学者の仕事場としてもたせようとしました。アメリカに亡命した核物理学者たちと、ドイツに止まったハイゼンベルグをつなぐ共通の友人は、デンマークでドイツ占領後も研究を続けるニールス・ボーアでした。1941年9月に、ハイゼンベルグが、コペンハーゲンのボーアを訪問して交わした会話の内容が、のちのちまでドイツの原爆開発の計画と進展状況を示唆したものとして、情報戦の中で、決定的役割を果たします。ハイゼンベルグは、ボーアに、「ドイツで原爆をつくることは可能」で原子炉を建設中だが、「技術的には多くの困難」があり、「このたびの戦争中に実現する可能性はない」と言ったとされます。しかし、英米側で秘密裏に進むマンハッタン計画を知らなかったボーアは、これに驚き、ドイツの原爆計画は進行中で、すでに具体化され始めたと受け止めます。ハイゼンベルグ自身は、「技術的には多くの困難」という表現で、自分はナチスのための原爆製造をサボタージュし、戦後ドイツ復興のための「原子力の平和利用」=エネルギー開発にたずさわっていることをボーアに伝えたつもりだったとされますが、この情報は、ただちに英米側に伝わり、ドイツの原爆開発計画に全ドイツの科学者が動員されている証左とされます。
後にニールス・ボーア自身も、アメリカに亡命して、マンハッタン計画にたずさわる科学者たちとこのハイゼンベルグ会見の模様を想起し、ドイツはまだ原子炉実験研究段階で、原爆製造では英米側の方が進んでいると結論づけますが、すでにマンハッタン計画は、デュポン、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウスなど民間大企業も加わる巨大事業になっており、フル回転していました。グローヴス将軍ら軍人・政治家は耳をかしません。もともとの発案者であったレオ・シラードなどは、ドイツの敗戦は原爆なしでも可能になったからプロジェクトを中断・廃棄すべきと進言しますが、軍人たちは、 OSSを使って、ドイツの原子力研究を率いるハイゼンベルグの誘拐・暗殺まで企てます。これが実は、崎村茂樹がスウェーデンに「亡命」し、ゲシュタポ・在独日本大使館により拉致・強制送還される時期と、ぴったり重なります。結局、実際には、ドイツ軍需相アルベール・シュペアや「ドイツ物理学」を唱える科学者たちは原爆製造を志しても、最高指導者ヒトラー自身が、時間と資金のかかる原爆開発には大きな関心を示さず、即戦力になるロケット弾開発などに投資をまわして、ドイツは原爆製造に失敗したといわれます。この話は、戦後日本の原子力開発の歴史を見るさいに、二つの示唆を与えます。一つは、故国ドイツを愛してもヒトラーを嫌うハイゼンベルグが、自分は将来の「原子力の平和利用」を見越して原子力エネルギーを開発しているが原爆をつくるつもりはないと、暗に主観的には伝えようとしたボーアへのメッセージが、連合軍側には、原子炉は原爆の前段階でやはり原爆製造のためと受け止められ、マンハッタン計画加速化の根拠ないし口実にされたことです。いくら「平和利用」と銘打っても、原発開発は原爆開発と一体なのです。もう一つ。科学者たちが「平和利用の研究」にとどめ「軍事利用には反対」したとしても、いったん国策となり軍部や巨大資本を巻き込んだ原子力開発の巨大システムは、科学者たちが専門的見地でどう反対しても、核兵器開発へと進行していったことです。そして、その効果の「人体実験」は、ヒロシマ・ナガサキで実際に行われ、放射性物質による膨大な被爆者と、後戻り出来ない核軍拡競争へと突き進んでいきました。湯川秀樹や武谷三男を含む日本の科学者たちも、「ヒロシマからフクシマへ」の長い道程をたどって振り返ってみると、反ファシズムの決意でマンハッタン計画にたずさわり、戦後は核戦争反対の先頭にたったアインシュタイン、シラード、オッペンハイマーらの苦悩の教訓を、十分にはくみ取り得なかったように思われますが、いかがでしょうか。
この「原発から原爆へ」の物語からは、もう一つ、科学者たちとは別の、民衆世界の想像力の問題が出てきます。マンハッタン計画の発案者レオ・シラードは、SF作家H・G・ウェルズのファンで、独訳までし、大きな影響を受けていました。そのウェルズこそ、「透明人間」や「宇宙戦争」と共に、「原子エネルギー(Atomic Energy)」と「原子爆弾(Atomic Bomb)」という言葉の創始者で、核兵器による世界戦争の危険と世界政府の必要性を、想像力と民衆文化の世界で、予見していました。科学小説『解放された世界』(岩波文庫)の中でのことで、第一次世界大戦直前の1913年の作品です。日本でも、想像力の世界では、大正9(1920)年『新青年』7月号に、「原子爆弾(ルビ:アトムばくだん)の威力は堂々たる大艦隊も木端微塵」という記述が現れます。日本SFの先駆者海野十三の作品では、青空文庫で読める、1927年の「放送された遺言状」、1944年の「諜報中継局」などが「プレ原爆小説」で、「海野十三敗戦日記」(中公文庫)は、ヒロシマ直後から放射線被曝に注目していました。鳥飼行博さん研究室は、『新青年』1944年7月号掲載立川賢の本土空襲科學小説「桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ」から、「日本が原子爆弾を完成し、原子力エンジン搭載の爆撃機で、米国本土サンフランシスコ(桑港)に原爆を投下し、ビルを壊滅させ、70万人を殲滅して、戦局を逆転する」ストーリーを抽出しています。「原子爆弾」は、戦前・戦時中でも、日本人の「夢」であったのです。ですから、海野十三の戦後1947年の小説「予報省告知」は、「人暦一万九百四十六年十三月九日、本日を以て地球は原子爆弾を惹起し、大爆発は二十三時間に亘って継続した後、地球は完全にガス状と化す」と始まりながら、「世界暦千九百五十五年 地球一周が十二時間で出来るようになる。原子エンジンの完成を見たためである。宇宙飛行の企業が盛んになる。世界暦千九百四十九年十月 日本の食糧欠乏問題が解決する。米を始め、食糧はすべて自由販売となる。世界暦千九百四十七年 飢餓のため日本人死するもの続出」という時代遡りの手法を採り、原子力による宇宙旅行と地球滅亡を逆引きにする、ユートピアになっています。この間 、20世紀メディア研究所の占領期新聞雑誌情報データベース「プランゲ文庫」をもとに、8月3日『朝日新聞』「被爆国になぜ原発? 問われる『だからこそ』の論理」を参照しつつ、本サイトで紹介してきた、1954-55年に原水爆禁止運動と「原子力の平和利用」を同時出発させる戦後日本の心性の両義性の原型は、どうやら戦前からマンハッタン計画まで遡りそうです。この辺の中間報告を、20世紀メディア研究所第63回研究会で、「占領下日本の「原子力」イメージーーヒロシマからフクシマへの助走」と題して発表します。「日本原発の父」正力松太郎とCIAの関係を暴いた同僚有馬哲夫さんも、「広島原発と沖縄原発」について報告します。10月15日(土)午後2時30分から、早稲田大学1号館401教室です。資料代500円ですが、一般公開されますので、ぜひどうぞ。
「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
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