やはりおかしいよね、この裁判は
- 2011年 10月 4日
- 評論・紹介・意見
- 三上治
10月4日
はじめから結論は出ていればそれを理屈づけることはどうにでもできる。日常的によく見られることだ。そうなるんじゃないかと予想していた。いくらか手の込んだ演出《検事側の証拠不採用》をしただけに余計に後味も悪い感がするが。小沢一郎の秘書らに問われた「政治資金規正法」違反の裁判結果である。小沢一郎の裁判もはじまるがこちらもこの延長上で展開されるのだろうか。
裁判は被告や弁護士と検察官、それに裁判官の三者で争われるように見えるが、多くの場合に検察と裁判官は一体であると印象を持ってきた。今回の裁判はあらためてそれを想起させた。喧嘩で不利にある弟に兄貴が競り出してきた感じである。この間の検察官への数々の批判に対してその声が鎮まるまで、裁判官が前面に出て補うという体制が考えられているのであろうか。この裁判に対する批判は多くあるがやっぱり「状況証拠」の積み重ねによる推論というのはどうみてもおかしいと思う。こんなことを許せば裁判官の独断と偏見の横行を許すことになるが、これでは権力に拘束され訴追されている被告にとって対抗するすべはない。法は権力の行使としての裁判官の恣意性や独断を制限しているのでありそのための手続きや規制をしている。この法の運用による規制には法的精神という大きな規定が背後にある。被告の立場と保護である。今回の裁判での「状況証拠」の乱用は法的精神からみても運用規定からみても逸脱である。もう一つ見落としてはならないのは裁判官を支配している「政治とカネ」についての理念である。裁判官がかなり強引な判決をなした背後には、裁判手続き的に批判があっても、金権政治批判としてはあるものがそれを許すだろうという判断があったように推察できる。裁判の支持は概ねこれによったものでもある。今回の小沢一郎の秘書らへの「政治資金規正法」違反の裁判には「金権政治批判」の流れが背後に存在していた。これは田中角栄の「金脈問題」暴露から「金権政治批判」へと展開されたものである。これに例の国策捜査なども加わる。この中で形成されたのは「クリーンな政治(綺麗な政治)」という理念である。前首相の菅はこれを使って小沢一郎を排除したことは記憶に新しい。金権政治批判=クリーンな政治というのは広く浸透してきた政治理念であるが、政治の中のカネの問題を解決する具体性を欠いている。この問題の現実的な解決策や道を欠いたままの政治理念(正義)である。通りのよい空疎な理念だが実際は政争の具や権力の他者排除に使われてきたものである。正義と現実を見てかからねばならない代物である。裁判官はこの理念を援用したのである。
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〔opinion0635 :111004〕
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