映画「ツレがうつになりまして。」をみる前に
- 2011年 10月 12日
- 評論・紹介・意見
- うつ病大木 保
うつ病はカゼなどではない、甘く見てはいけない観念の病
運動会や秋祭りがおわると、いきなり秋風が頬をなでてすぎゆくことに
子どももおとなも、、一抹の寂寥を感じたものですが、
みなさんはどのようにお感じでしょうか?
しかし、東北被災地のみなさん方が、どんな思いでこの季節をむかえられたかは
わたしたちの想像を絶することにちがいないとおもいます。
わたしたちの偽善としてしかあらわれることのない関係性にも礼を尽くそうとされながら、
語りたくもない無念のかずかずを抱えたまま、このような季節をむかえることになっています。・・・・・
こうしてこの国の行政は、国民をないがしろにするということでは、戦後から一貫しているとはいえ、
二十一世紀に入って小泉政権以来ますます露骨にその本態をあらわしてきているといえるでしょう。
きょうのサンケイ新聞が「欧州にせまる恐慌」といういく分高揚した見出しを掲げていたが、
利いた風な記事をのせるまえに、なぜ?
この国の国民の困難を、その本当のことを真摯にリポートしないのか。
売らんかなのお涙ちょうだい記事や米政権へのちょうちん記事ばかりでは、
スーパーのチラシより劣るというもの。そんなに書くことが無いならスーパーの下請けはどうか。–
さて、今回は
およそ二年まえにマスメディアで放送されたりした「ツレがうつになりまして。」という闘病記が、
今週から映画になって全国上映されるということを目にして、
エッ! まさか。 ほんまでっかー?と、おどろいたついでに
その当時、ブログに掲載したわたしの一文を、
それでは拙者も見逃すことはできぬゆえ いざ、まいられよ!
ということで、そのままふたたび掲載いたすことにしました。
今回の映画のコンセプトがどのようなものかはともかく、
二年まえのわたしの見解をあらためて読者のみなさんにおつたえしたいおもいから、
ここに禁じ手しょうちで再登場させることをご理解くださいますよう。・・・
—
「ツレがうつになりまして。」のその後!–
「うつ病」といわれたら、「?・・!」となるのは、
胃潰瘍が胃の潰瘍だと了解できるのとは違って、
“うつ病”が、観念の病気ゆえに、患者さんには本当に、「とらえようのない病気」だからですね。
先日、テレビで「ツレがうつになりまして。」という細川てんてんさんの「うつ病闘病記」が放映されていました。
また、雑誌「SIGHT」(2007年春号)には、「その後の『ツレがうつになりまして。』」という記事が座談形式で掲載されています。
編集の趣旨は、「うつの理解度は人によって大きな差があり、人格的な欠陥として扱われることがある。それに対し、うつは心のカゼのようなもので、薬で治るというメッセージは有効でそれによって認識が変わってきたこと。一方、薬万能説への異論もなくはない。心の問題を特別なものとせず、気軽に診断を受ける必要を“誰にもきけないうつのリアル”として伝えたい。」というよくある無知な見解でした。
さて、体験記をあらわす動機について、当のうつ病の望月さんが、
「専門の本に書いてあることとどうも違っていて、むしろ中島らもさんの体験記がすごく自分に近いと思って、僕たちも自分たちの体験で生々しかったことをちゃんと書こうっていうこと」だったとおっしゃっています。
すると、「患者さんの反応がすごく、薬代わりに読んでるとか、寝る前に読むと安心して眠れる。」という期待したレスポンスが返ってきたという。
たしかに、こうした「自分の気持ちを分かってもらえる」ことは、
うつの患者の底知れぬ孤立感情を癒すという意味では評価できるものとかんがえます。
ただ残念ながら、
この後の「回復に向かう」過程のお話からはまったくのシロート話になっているわけです。
心の病気は、「薬を飲んで休めば治る」といった身体の病気とはまったく違った、観念の病気ですから、
患者さんも勝手が違って、途惑うことばかりということになるものです。
ただもう、やれ死んだほうがましだという観念や、この薬が効くとか効かないとか、
マイナス思考や症状に疲れ果てることになります。
本当はうつ病というものと、心の病の自分というものをあらためて理解しなくてはならないし、
正しく理解することによって病のあら方が回復に舵を切ると考えていいわけです。
しかし医師もそんなに懇切丁寧にうつ病の本質の学習にまでつきあってくれないですから、
薬を出して、対処法を提示するだけになります。・・
さらに不興を承知で言わせていただくと、
うつ病の患者に対して、安易に抗うつ薬を処方することに重きをおいてきた医療の側ではいま、
大きな途惑いが起きていること。それは、
今年の5月に日本うつ病学会が、
SSRI系抗うつ薬のパキシル、ルボックス、デプロメール等の興奮、攻撃性などの強い副作用について,
とうとう警告を出したからです。
(1月15日のブログ「飯島愛さんの薬害死」にも薬害体験が載っています。)
わたしどもは田原理論に則り、抗うつ薬だけでなく、向精神薬全般について「薬が心の病を治すという信仰」に異議をとなえ、
「薬依存」症といえる、あらたなストレスを背負わすことになっている現状にも異議を唱えています。
そして田原先生[注]は、心の病気が人間の脳の働き方(観念)によることをあきらかにし、
現代日本人の心の病気の特性が「うつ病と分裂病が表裏一体になっている」ことを論証しています。
もっといえば、精神医学界は分裂病を統合失調症と呼称変更した時点で、DSM-Ⅳの疫学的分類思想に従属して、
学的な研究が止まったことが最大の患者の不幸であるとも田原先生は指摘しています。
ところで、望月さんは、もともと発病するまえから、
「ネクタイを曜日ごとに替えることが当然のことだとおもっていた。」と言っています。
「月曜日はつらいから月曜日のネクタイをしていかないと乗り越えられませんでした。ネクタイを間違えたら曜日も間違えちゃうくらい。」・・
実は、この話の内容が何を表しているのかといえば、
あきらかに強迫観念のことを話しているわけです。
かろうじて職場に行けているが、仕事は「行動の反復」レベルが精一杯というところ。
また曜日とネクタイを錯誤することは離人症傾向を現しているかとおもわれます。
したがって彼は元からこのような心的な問題をかかえていたということになるでしょう。
そのあげくに過労が重なって、一段と不適合を起こし、行動停止に至って、
自殺を許容するうつ病という観念の病にとりこまれたとかんがえられます。
また、彼はうつ病が概ね治ったように話されていますが、・・
自殺念慮が遠ざかったということで判断されているのではないでしょうか?
もちろん、それが大きな回復だと喜ばれるのは率直なお気持ちだし、祝福されるべきだとおもいます。
カウンセラーでなければその祝福の輪にご一緒したいところです。
ただ因果なことに、「スーパー主夫として大活躍の」望月さんの「家事も几帳面なんですよ。」という言葉が
カウンセラーには気にかかってくるわけです。
どうも、元々の強迫神経症的なものが居座ったままだとうかがえます。
「会社の仕事は90%から100%を求められ、体調が悪くてはできない。家事の場合はそれなりの形でやればいいから」・・
ここでは彼特有の考え方がみられます。
ふつう、勤め人は体調が悪くても仕事に行くものです。
彼はそこを強迫的な観念で“とても出来っこないよ”とかんがえています。
それは、はじめから社会に対して常に過緊張し、
孤立した自分の方だけを見ているといえば分かりよいでしょうか。
そして家事をする主夫のポジションにようやく安心している様子です。
むろんこのような生活のあり方も、いまの世間的には何も問題ないわけで、
たしかにそれで充足されれば結構なことだとおもいますが、
心の病という観点から拝察すれば、うつ病も未だ回復の半ばにあるとおもえるし、
強迫観念の方は変わりないのではといわざる得ないわけです。
それは、彼が未だ社会に十分には参加できていないこと。
家の中という非社会性に安住したい(依存)とおもっていること。
その考え方がうつ病と強迫観念の(脳の働き方)思考傾向にほかなりません。
彼に正しく舵を切らせるには、特有の観念をあらわす考え方を根本的にあらためるための学習が必須ではないかとかんがえます。
どうも、うつ病の方のお話にこのようなことを申し上げてお叱りを受けそうですが、
ご自身が公開出版されていること。
その記述の心の病気の理解の誤りに関して見解を述べてみることは許容されるとかんがえます。
まっ、大きなお世話だと言われればそれまでですが、
「心の病気を本当はどのように理解すればよいのか?」を
何とかして少しでも読者のみなさんに理解されますようにという願いのもとに、
つねに一貫して毎回ブログを書かせていただいています。
ブログ・心理カウンセラーがゆく!http://blog.goo.ne.jp/5tetsuより 転載.
[注] 田原克拓氏(全日本カウンセラー協会 ポルソナーレ代表 )――編集部
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0644 :111012〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。