日本知識人と中国問題
- 2011年 10月 13日
- スタディルーム
- 中国問題子安宣邦日本知識人
─シカゴ大学・ナジタ特別講演
2011年10月4日・シカゴ大学スイフト・ホールにて
1ナジタ教授との出会い
講演の始めにナジタ教授との出会いについて述べさせて頂きます。ここではいつものようにナジタさんと呼ばせて下さい。私がナジタさんと大阪で初めてお会いしたのは、“The Kaitokudo, Merchant Academy of Osaka”が刊行された1987年に先立つ84年であります。ナジタさんとこの本との出会いは私にとって大きな事件でした。
大阪大学で最初にお会いしたとき、ナジタさんは18世紀徳川社会における〈知のネットワーク〉について熱心に語りました。そして大阪の〈懐徳堂〉はこの〈知のネットワーク〉の重要な〈繋留地anchorage〉であったともいいました。私には最初、ナジタさんの話すことがほとんど理解出来ませんでした。彼は何をいっているのかと、怪訝な思いで聞いておりました。彼がいう〈知のネットワーク〉といった見方は、“The Kaitokudo”以降のものにはよく理解できることですが、それを知る以前の私などにとって、それはほとんど理解出来ない言語の登場のようでした。思想史をただ時間軸にしたがった思想系譜なり、議論の展開史としてきたものに、彼は知の空間的な展開相を突きつけたのです。私が最初怪訝な思いで聞いていたナジタさんの説は、やがて私の思想史の革新を促すような衝撃となりました。
2思想史の革新
ナジタさんは直線的な思想史を遮断して、社会の空間的拡がりにおける新たな〈知〉の形成の運動を見出したのです。その〈知〉の運動は、〈人〉と〈物〉の交通と重なりながら展開されます。徳川時代のことに18世紀社会は、〈人〉と〈物〉と〈知〉の全国的な交通が形成された社会であります。そして商都大阪とは18世紀日本における〈人〉と〈物〉の交通の要衝でありました。そのことは大阪が〈知〉の交通の要衝でもあったこと、すなわち大阪の学問所・懐徳堂が当然〈知の繋留地〉でもあったことを意味します。こうしてナジタさんは懐徳堂を再発見したのです。それだけではない日本の近世社会(徳川日本)を再発見したのです。かくて私の江戸思想史の書き直しは加速されることになりました。
ナジタさんが18世紀徳川社会の再発見の仕事を進めていたその同じ時期に、私は徳川思想史を方法的に革新することを考えておりました。それはまず丸山眞男の『日本政治思想史研究』批判としてなされました。丸山による近代主義的な徂徠解釈の批判を通じて、私は『「事件」としての徂徠学』(青土社、1990)を書き、新たな思想史の方法的立場を明確にしました。89年にシカゴ大学で講義したのは、この書の中心的な諸章についてです。私は18世紀初頭の思想空間に徂徠によって何かが新たに言い出されたという〈事件性〉をもって徂徠の言説をとらえようとしました。そのことは徂徠言説の〈意味〉を、その近代から遡及される言説の〈近代性〉によってではなく、その言説の〈事件性〉によって、すなわち何が新たに言い出され、いかなる波紋を同時代に、さらに後続する時代に及ぼしていったのかという〈事件性〉によってとらえることを意味します。それは〈近代〉から〈徂徠〉を見るのではなく、〈徂徠〉から〈近代〉を見直すことでもあります。この視点の転換は、江戸思想史の書き直し*を可能にしたばかりでなく、〈近代〉への新たな見方をも可能にします。すなわち〈江戸〉から見るという見方です。
*私の『江戸思想史講義』(岩波書店、1998)にまとめられている。
ナジタさんの18世紀的社会における多中心的〈知のネットワーク〉というとらえ方は、一極集中的な近代の〈知の一元化〉的変容を浮かび上がらせることになります。私もまた〈江戸〉を方法的な外部的視点としながら、〈近代〉を批判的に相対化する見方を成立させていきました。そこから〈日本近代〉を批判的に再検討する思想史的作業が生まれてくることになります。それはまず『近代知のアルケオロジー』(岩波書店、1996)であり、この世紀に入ってからの『国家と祭祀』(青土社、2004)、『「近代の超克」とは何か』(青土社、2008)、『和辻倫理学を読む』(青土社、2010)であります。そして今私は21世紀における大国中国の登場というインパクトを受けながら、近代日本における「中国論」を読み直す作業を始めています。
今回私は「日本知識人と中国問題」という主題で講演する機会を与えられました。私はそれを「近代の日本知識人にとって中国とはいかにあったのか」という問題としてとらえ、この問題をめぐる大きなアウトラインを描く形で述べてみようと思います。
3中国の〈異国〉化
18世紀日本の国学者本居宣長の著作に『直毘霊』があります。これは宣長の主著である『古事記伝』の序として書かれた文章です。この『直毘霊』には「この篇は道ということの議論である」という副題が付されております。議論というのは、儒家的教説としての〈神道〉を、日本固有の〈神の道〉として取り戻すための議論(論争)を意味します。ここで注意しなければならないのは、宣長たちが日本固有の〈神の道〉をいい出すまで、〈神道〉は儒家的教義で構成された〈儒家神道〉としてあったことです。〈神道〉とは儒教や仏教の教義的助力をえて初めて教説たりえたのです。したがって〈神道〉が〈儒家神道〉であることをだれも疑っていなかったのです。山崎闇斎が朱子学者でありながら同時に垂加神道家であることに誰も疑いをもっていなかったのです。
これに異議を唱えたのが宣長です。彼は記紀神話によって固有の〈神の道〉の存立をいおうとします。そのためには〈儒家神道〉の、あるいは神道を教義的に基礎付けてきた儒教そのものの解体的批判がなされなければなりません。宣長は「漢意」として儒家教説の〈異国性〉を徹底的に、悪罵ともいいうる言葉をもって暴き出していきます。日本の〈神の道〉を存立させるには、儒教を〈異国〉的思惟として、悪罵をもって追放する言語作業を必要としたのです。これが『直毘霊』における「道ということの議論」です。中国を〈異国〉すなわち自己から異別された他者とすることによって初めて文化的にも〈固有の日本〉が存立することになるのです。
宣長とは〈固有の日本〉の発見者です。同時に彼は〈異国〉としての〈中国〉の発見者でもあります。日本知識人の言説上に〈中国〉が登場するようになるのは、18世紀の宣長ら国学者においてです。その〈中国〉とは、自己(日本)から異別化された他者であります。この他者としての〈中国〉という意識は、近代以降も、ことに文化、言語上に持ち続けられます。それは何より日本の〈漢字〉観に見出されます*。漢字とは、それなくしては日本語という書記言語も成立しない最重要な言語的契機です。にもかかわらず、〈漢〉の文字という他者性の標を持ち続けているのです。
*私の著書『漢字論─不可避の他者』(岩波書店、2003)を参照されたい。
ここで大急ぎで付け加えておくべきことがあります。この「道ということの議論」は和文で書かれています。和文とは歌物語や随筆を記す文章であって、議論という理論的な展開なり主張を記述するものではありません。宣長はいま『直毘霊』を和文をもって書きました。その和文とは、わが内なる〈漢〉を異別化し、外に排斥することを通じて、固有の〈日本〉を見出すことをいう文章です。国学的という文章はここに成立します。
4停滞的中国
日本の為政者・識者の意識に中国が存在するようになるのは、19世紀の東アジアを襲ったウエスタン・インパクトを通じてです。1840年のアヘン戦争と中国の敗北は、幕末期日本に大きな衝撃を与えます。それは二重の衝撃でした。それはまず欧米の軍事力に代表される国力が与えた衝撃です。そしてその軍事力に脆くも敗れた大国清の実状が与えた衝撃です。この衝撃を危機意識をもって受けとめたのが、長州藩の若き改革者たちでした。この時期の東アジアの国際情勢にもっとも鋭敏であった長州藩が、日本の近代化革命の中心的な役割を果たすことになるのです。
明治維新という日本の近代化革命がひとまず成ったとき、日本の知識人はどのように中国を見出したのでしょうか。福沢諭吉の『文明論之概略』は明治8年(1875)に刊行されます。『文明論之概略』とは近代日本の黎明期に、はっきりとした文明論的な日本の設計を提示した書です。はっきりとした設計とは、近代日本が何に定位してみずからを文明国家として形成すべきなのか、その際、どのような骨格や土台を備えるべきなのかについて明白な指針の提示ということです。私は福沢の没後百年である2001年にこの書の読み直しの作業を始めました。福沢の設計の何が実現し、実現しなかったか。近代日本は福沢の設計を踏み越えて、あるいは設計とは別の何を実現してしまったのか。福沢の設計と近代日本の実現とを相互に問い合わせる作業は、私にとって意義深い作業でした*。
*私の作業は『福沢諭吉『文明論之概略』精読』にまとめられた。岩波現代文庫、2005。
福沢の文明論あるいは文明化論とは西洋の近代文明に定位した議論です。近代黎明期日本の議論は、「文明を本位とすべき」ことを福沢はいいます。すなわち「文明」を基準として議論を構成すべきだというのです。その「文明」とは理念型としての西洋近代文明です。福沢文明論の栄光は、西洋近代に定位した文明化の設計を、最善の設計として、いち早く日本国民に提示したことにあります。その意味で福沢は近代日本の父として日本の紙幣を飾るのです。
ところで福沢は、「文明とは相対したる語」であるといいます。それは遅速・軽重のようにつねに反対語(相対する語)を持っているということです。文明とは野蛮に対する語です。文明を進歩の同意語とすれば、文明は停滞あるいは退歩を反対側に持つということです。こうして福沢の文明社会の成立をめぐる文明史的記述は、反文明的な停滞的社会を一方に記述していくことになります。すなわち東洋的停滞をもっていわれる専制的帝国・中国を描きだしていくのです。その記述は、ヘーゲルの歴史哲学が原型的に構成していった反・歴史的世界としての停滞的東洋像をなぞっていかざるをえません。そのことは文明史的な記述がヘーゲルの歴史哲学の影響下にあるというのではありません。むしろヘーゲルの歴史哲学がヨーロッパの文明成立史を原型的に代表しているのです。ともあれ福沢文明論は、進歩と変化とを塞ぐ一元的な専制的支配の帝国という中国像をはじめて日本人の眼前に提示するのです。
「秦皇一度びこの多事争論の源を塞ぎ、その後は天下復た合して永く独裁の一政治に帰し、政府の家はしばしば交代すといえども、人間交際の趣は改まることなく、至尊の位と至強の力とを一に合して世間を支配し、その仕組みに最も便利なるがために、独り孔孟の教のみを世に伝えたることなり。」(『文明論之概略』第2章)
これを読むと、福沢の専制的中国論とは天皇制国家論への暗喩ではないかと思われてきます。神聖天皇を頂く明治国家は基本的に専制的帝国中国と変わりはないのではないか。まして中国に王朝の交代はあるが、日本では一系の天皇が存在し続けています。福沢文明論が抗争相手として水戸学的国体論や復古的天皇親政論をもっていたことを思えば、専制的中国論が天皇制国家論への暗喩でありえたことを否定することはできません。しかしその議論は福沢論の問題です。ここでは近代黎明期の日本人はいち早く、福沢によって停滞的、専制的帝国中国の像を与えられたことを見ておきたいと思います。
ところで専制的帝国としての中国の停滞性をいう福沢文明論とは、背後にギゾーやバックルの『ヨーロッパ文明史』をもった〈翻訳的言語〉からなるものです。そのことを私は否定的にいうのではありません。むしろ〈翻訳的言語〉として福沢は、西洋近代文明に定位した近代日本の文化的書記言語を創出したことをいいたいのです。かつて宣長の国学的和文は〈漢〉を〈日本〉から異別化し、排除しました。いま福沢の西洋に定位した翻訳的言語は、停滞する〈支那〉を記述し、文明的進歩のネガ像を構成していくのです。この福沢の翻訳的言語こそが、近代日本の正統的な言語です。それは近代日本の知識人の言語であります。
5〈東亜〉的世界
近代国家への離陸に成功した日本は、東アジアにおける文明的中心の位置を自分の側に移行させます。私は世紀の転換の時期に、〈東亜(東アジア)〉という地域的呼称について考えました。そして〈東亜〉の成立と文明的中心の移動とは深く関係していると考えるにいたりました。
中国を中心にして、かつて満蒙といわれた中国東北部、朝鮮半島、日本列島、さらに琉球から台湾を結ぶ島嶼、そして越南といわれたヴェトナムにいたる地域を〈東亜(東アジア)〉といい、この地域における文化によって〈東亜文化圏〉がいわれたりします。だが〈東亜〉とか〈東亜文化圏〉といったいい方はもともとあったのでしょうか。『言海』(明治24年・1891刊)を見ても、「東洋」はあっても「東亜」はありません。これは比較的に新しいいい方です。さきにこの地域を説明して「中国を中心として」といったように、〈東亜〉とはもともと中国を中心とした政治的、文化的世界でありました。政治的には、中華帝国に冊封関係をもって包摂される世界であり、文化的には、中国文化圏あるいは漢字文化圏と呼びうる世界です。ですから中国からは〈東亜〉という呼称は生じないし、ましてや〈東亜文化圏〉をいったりすることはありません。したがって〈東亜〉あるいは〈東亜文化圏〉とは、中国の周辺から、中華的世界を再構成するいい方なのです。すなわちこの地域の文明的中心の中国から自己への移動を自覚する近代日本からいい出されるものなのです。だから〈東亜〉的世界は日本帝国と同時に成立するといえます*。
*〈東亜〉という地域概念の成立をめぐっては、「昭和日本と「東亜」の概念」(『「アジア」はどう語られてきたか』所収、藤原書店、2003)を参照されたい。
この〈東亜〉の地域概念が、理念性を帯びて喧伝されるにいたるのは、昭和の日中戦争の時期にいたってです。
6日中戦争と〈東亜〉の理念
日中戦争とは日本が中国大陸に全面的に軍事介入した戦争でした。昭和16年(1941)、太平洋戦争が始められようとするその年に、中国本土に投入されていた日本陸軍の総数は約138万人であったといいます。それは陸軍の総動員数の65%にあたるものです(纐纈厚『日本は支那をみくびりたり─日中戦争とは何だったのか』同時代社、2009)。にもかかわらず日本はこの中国大陸への大規模な軍事介入を戦争といはず、〈支那事変〉と言い通しました。
中国を日本がはっきりと帝国主義的な野心の対象とするようになるのは、日露戦争(1904-5)後です。朝鮮を併合(1910)した日本は、満洲への進出の足場を築きます。経済恐慌とともに始まった昭和日本は、内外の閉塞状況を打開するようにして満洲事変(1931)に突き進みます。この事変を計画し、遂行したのは関東軍の青年将校たちでした。すでに昭和日本は何度かのクーデターを経て、軍部ファッシズムの様相を強めていきました。こうして1937年7月7日の蘆溝橋における発砲事件は、不拡大の政府の意図にもかかわらず、中国本土における全面的な戦争として展開されていきました。この日本側が〈支那事変〉と呼ぶ戦争は、いかなる意味でも正当性をもたない戦争でした。100万をこえる兵士たちが、理由も、目的も、そして終着点も分からない中国大陸の戦場に駆り出されていきました。
この〈戦争〉と呼ばない戦争の目的を、近衛首相は、「帝国の冀求するところは、東亜永遠の平和を確保すべき新秩序の建設にある」(近衛・東亜新秩序声明、1938年11月)という言葉をもって提示しました。近衛がいう「東亜新秩序の建設」という戦争目的とは、既に始められた帝国主義的戦争に後付け的に与えた正当化の理由です。この正当化の理由は、政権担当者近衛文麿を支える政策集団昭和研究会に集う知識人たちによって構成されたものです。その知識人とは政治学者の蝋山政道、哲学者の三木清たちです。彼らをサポートするものの中にはマルクス主義者尾崎秀実がおり、現代中国を最も知るジャーナリスト橘樸などもおりました。
戦争が遂行されている当該地域における新秩序の形成とは、戦争目的として常に唱えられることかもしれません。いま昭和10年代日本のもっとも良質の知識人によって、中国大陸における戦争目的の理論的な形成がなされていきました。彼らは〈東亜〉の新秩序からなる構成体を〈東亜協同体〉として説いていきました。政治学者はこれを第一次大戦後における世界的政治秩序の再編成の中に位置づけ、哲学者はヨーロッパ中心的世界の転換として世界史的にこれを意味づけました。しかし日中戦争期の日本の論壇を風靡したこの〈東亜協同体〉論には本質的なアポリアがあります。それは中国の民族主義という問題です。中国における日本の戦争の展開が、中国における民族意識を幅広く呼び覚ますことになります。
私は数年前、国会図書館で雑誌のバックナンバーによって〈東亜協同体〉をめぐる論説を求めていた際、意外な事実を発見しました。日本知識人の〈支那事変〉の意義をめぐる論説を掲げ、〈東亜協同体〉論を展開するその雑誌が、胡適の「抗日戦の意義」(『文藝春秋』1938年1月号)や毛沢東の「持久戦を論ず」(『改造』1938年10月号)*を載せているのです。胡適はそこで抗日戦を通じて中国は民族的統一を成し遂げたことをいい、毛沢東は抗日戦の正義が全国的団結を呼び起こし、それが勝利を確実にしていることを説いています。昭和13年(1938)とは、日中戦争が始まり、南京攻略(37年12月)の報に国民が歓呼したその翌年です。日本の雑誌は、その戦争を通じて抗戦主体としての中国民族が歴然として存在するにいたっていることを教えたのです。編集者の見識は、この時期まで辛うじてまだ紙上に示しえたのでしょうか。しかし彼らの見識と努力とによってわずかに紙上にもたらしえた日中戦争の事実、すなわち抗戦主体としての中国民族の歴然たる存在という事実は、ごく少数の識者を除いて、日本の知識人一般の注意を喚起することはなかったといえます。〈東亜協同体〉論者は民族相互の融和的協同を説き、近代的民族主義の超克を説いたりしました。それは彼らの〈東亜協同体〉論が中国における戦争の事実からはるかに遊離した、ただ自己正当化の論説にすぎないものであったことを示すものです。
*毛沢東の「持久戦論」を載せる『改造』のこの号は発行禁止され、店頭に出ることはなかったという。国会図書館でこれを載せる『改造』を見ることができる。
抗日戦を通じて形成される中国の民族主義に注意を払ったのは、コミュニストであった尾崎秀実やアジア主義者の橘樸らごく少数の知識人です。そして中国共産党の指導する反帝・反封建闘争を通じて強固な人民的民族主義戦線が成立していることを認識していたのもこの少数の人びとでした。
7日中戦争は終わったか
中国とは昭和日本の問題でした。昭和日本の国家的運命を究極的に規定するようにして中国問題があったように思います。昭和10年代には中国問題は日中戦争という最悪の軍事的な展開をみせるにいたりました。それは理由のない、見通しのない戦争でした。中国における日本の戦争は文字通り泥沼にはまりこんでいきました。中国大陸で軍事的に行き詰まったその事態のなかで、日本は1941年12月8日に米英に対する戦争を開始しました。この対米英の開戦は、中国大陸における日本のあいまいな、理由のない戦争を正当化したのです。この開戦をもって中国との戦争を正当化したのは政府や軍部だけではない、国民もまたそうでした。対米英の開戦が人びとの重苦しい気分を晴れ晴れとさせたのです。中国戦線の兵士も銃後の国民も1941年12月のその日に〈本当の戦争〉が始まったと思ったのです。中国との〈戦争〉は〈事変〉と偽称され続けました。日中戦争とは、国民の意識においても隠され続けた〈戦争〉であったのです。
そして1945年の終戦も、日本人にとって太平洋戦争の敗戦でした。日本はアメリカに敗れたのだとだれもが思いました。事実、アメリカは広島・長崎に原爆を投下し、ほとんどの都市を焼き尽くし、日本を占領し、その戦後処理にも当たったのです。それゆえ〈戦争〉の決着は国家においても、国民の意識においても、もっぱらアメリカとの間でつけられていきました。日本の敗戦とは、中国大陸における泥沼の戦争の敗北でもあることを政府も国民も見ようとはしなかったのです。〈戦争〉と呼ばれることのなかった中国大陸における戦争は、太平洋戦争の敗戦によって決着がつけられたのです。だがそれは日米間の決着であって、日中間の決着であったのではありません。日本の敗戦とともに激化した中国における内戦と、人民中国成立後の朝鮮戦争とが日中間の決着を先延ばしにしていきました。日中関係は決着の先延ばし状態の中に長くあったのです。だから1972年の日中国交回復も、本質的な決着をつけないままに、あるいはつけようとはしないままに両国間の関係の回復だけが急がれたのです。こうして日中の経済的な相互関係だけが、深く、そして広く進んでいきました。
日中間の本質的な決着とは過去の歴史認識にかかわりながら、将来におけるアジアの平和をいかに確立するかという問題についての合意であるはずです。われわれはどのような中国と、どのようにしてアジアの平和を確保していくのか。これが平成日本の国家的運命にかかわる本質的な問題であるはずです。だが日本は、そして中国もこの本質的な問題から目をそらしたまま経済的な相互関係だけを深めています。そしていま世界屈指の経済大国となった中国を眼前にして、われわれは途方に暮れているといっていいと思います。この大国中国とはアジアの平和をともに実現していく隣人でありうるのか。われわれはいま隣人中国の政治的現状に大きな危惧をもっています。だがそれが東アジアのわれわれの将来をも危うくするものであることを率直にのべうる関係を、中国との間にわれわれは作ってきていません。それは中国との本質的な決着をわれわれがつけずにきたことのツケであるかもしれません。中国との本質的な隣人関係を日本は作ってきていないのです。経済的関係を深めても、本質的にヨソヨソしいのです。なぜなのか?その問いからこそ中国問題をめぐる考察は始められなければなりません。私の歴史的な考察もこの問いをもって始められたのです。
近代日本の西洋先進文明国に定位した国家的建設は、中国を停滞するアジアの中に置き去ることでもありました。日清・日露戦争を経て、アジアにおける一帝国を形成していった日本は、中国を帝国主義的な野心の対象にしていきました。日中戦争とは帝国日本と中国との近代の関係史における最悪の帰結です。この日中戦争にいたる日本近代史の過程に、日中関係の将来に結びつくような、希望と呼びうるような何かを見出すことはできないのでしょうか。この過程はすべてわれわれにとって〈負の遺産〉としてあるのでしょうか。たしかに〈負〉を〈負〉として認識することは重要なことです。しかし私はその過程に、なおわずかにわれわれの希望をつなぎとめうる人びとの足跡を見出すことができると思います。それは辛亥革命に始まる中国近代化過程における困難と苦痛とを共にしようとした日本人の足跡です。〈共にする〉とは、中国の変革の苦難を共にすることであるとともに、その変革を日本の変革として共にするということです。私はこの中国と日本の変革を共にする人びとを、勝れた意味で〈アジア主義者〉と呼びたいと思います。それは北一輝であり、橘樸であり、尾崎秀実という人びとであります。
8戦後日本と中国
戦後日本には多くの親中国派というべき知識人がいるのではないか、彼らの存在こそ日本と中国との本質的な関係を築くためのものではなかったのか、という詰問ともいえる声が私にも聞こえます。中国研究者竹内好に代表される親中国派知識人は、冷戦下日本の日米関係を基軸にした戦後日本の国家計略へのオールタナティヴをなす道を提示し続けました。それは人民中国の承認とアジアの諸民族との連帯からなるアジア民族主義というべき道です。ことに竹内による毛沢東の新民主主義的革命とその成果として成立した人民中国との全的承認からなる中国観は、戦後日本の中国研究者をはじめとする革新派知識人に広く共有され、彼らの世界認識・歴史認識の上に大きな影響力をもちました。
この毛沢東と人民中国への強いシンパシーをもった中国観は、戦後日本における〈人民中国の特権化〉を導いたと思います。人民中国は彼らの世界認識・歴史認識における基軸として特権化されていったのです。この〈人民中国の特権化〉は、日本と中国との本質的な関係を築く上で果たして積極的な意味をもったのでしょうか。私はその点についてきわめて懐疑的です。戦後の冷戦構造が日本の革新派知識人にもたらした〈人民中国の特権化〉、そして今なおもち続けられているそれは、21世紀の現在、一党的支配からなる国家官僚主導の資本主義的大国中国の惰性的な承認をただ導くことでしかないと思います。それは日本と中国とが本質的な関係をもつことをむしろ妨げ、本質的な関係を要求している虚偽と抑圧の事態を見えなくさせているのです。それは私が20世紀の日中の関係史に継承すべきものとして見出す〈アジア主義〉では決してありません。私がいう〈アジア主義〉とは、日本と中国とが自己革新を共にすることによって見出していく真の連帯です。この連帯にこそ日本と中国との本質的関係はあるといえるでしょう。
初出:子安宣邦氏のHP http://homepage1.nifty.com/koyasu/remark.html より許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study419:111013〕
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