“独裁”よりも帝国主義を批判せよ!
- 2011年 10月 22日
- 時代をみる
- “独裁”宇井 宙帝国主義
唖然とするほど低劣なデマゴギーをマスコミが撒き散らすのは、もちろん原発問題に限らない。この国のマスコミによれば、カダフィ大佐が「死亡」して、リビア全土は「解放」されたそうだ。そしてこれは、「チュニジア、エジプトで始まった「アラブの春」の続きといえる」(朝日新聞10月22日社説)そうだ。はぁ~、そうですか!
カダフィ大佐は病気か何か自然的原因で「死亡」したのだろうか? むろんそうではない。これまで伝えられた情報によれば、NATO軍が20日早朝、シルト近郊でカダフィ氏の乗っている車列を空爆した後、反カダフィ派の部隊が負傷したカダフィ氏を拘束(拘束時に口論するカダフィ大佐の映像が衛星テレビ局カルカラビアに映っている)したが、その後、病院到着までの間に「死亡」したとされる。これは普通、「殺された」と表現される事態ではないのか。捕虜の殺害は言うまでもなく1949年ジュネーブ第3条約違反になるから、「死亡」時の状況の詳細は殺害者たちによって故意に隠蔽されたり歪曲されたりしているが、「反カダフィ派の兵士によって、連行の際に暴行され、殺害された」との情報も漏れている。他方で、「カダフィは自分の護衛に撃たれた」と語る反カダフィ派の兵士もいるそうだが、素直にそれを信じる人間は、日本のマスコミ以外、世界にいるのか?
拘束後の殺害、という反人道的犯罪は、オサマ・ビンラディン氏に対する手口と共通するが、生かしておいて裁判などになればどんな不利な事実を暴露されるかわかったものではない、という殺害者(ビンラディンのケースの米国、カダフィのケースのNATO=反カダフィ連合軍)の恐怖心がおそらく動機になっているのも共通しているであろう。その意味で、おそらく反カダフィ派の部隊には、カダフィ氏を拘束した場合は殺害するようにとの指示がNATO側から出ていたと考えてまず間違いないだろう。もちろん、カダフィ氏の殺害は、彼の親族や側近に対する殺害と、無数のリビア市民の殺害、リビアのインフラストラクチャーの大規模破壊をもたらした犯罪的侵略戦争の総仕上げにすぎない。
では、カダフィ政権の崩壊とカダフィ氏の抹殺は、チュニジア、エジプトに続く、「アラブの春」、すなわち民衆革命なのだろうか? はぁ~…。反論するのもバカバカしいようなことだが、「嘘も百回繰り返せば真実になる」(真実と受け止められるようになる)というナチスのゲッベルス宣伝相の洗脳手法をことのほか愛用する日本マスコミに洗脳されかけている善良な国民も少なくないと思われるので、ごく手短に反論しておこう。米国の支援を受けたエジプトやチュニジアの独裁者に対して若者を中心とする市民が反政府運動に立ち上がったのとは対照的に、リビアにおけるいわゆる「反乱軍」とは、CIAによって設立されたリビア救国国民戦線とアルカイダなどテロリスト集団と旧王党派などの寄せ集め集団であり、一般市民の支持を背景としたものではなく、彼らは当初からCIAなどの指示のもと、米軍やNATO軍の軍事介入を求めており、実際、NATOの空軍力と作戦計画・後方支援・偵察・資金援助・直接介入がなければ、反乱軍はカダフィ政府軍との戦闘でただの一度も勝利することはできなかったであろう。したがって、「反乱軍」から成立したリビア暫定国民評議会とは、NATOによる傀儡政権以外の何物でもない。そして、カダフィ政権の転覆という国際法違反の侵略・介入戦争を遂行した米国・英国・フランス・イタリアなどNATO諸国の狙いが、アフリカ最大、世界第8位という石油埋蔵量を誇るリビアの原油資源の支配であることもまた明白である。
カダフィ体制崩壊後、日本のマスコミはこぞって、カダフィ体制がいかにも極悪な独裁体制であったかのように描き出し、カダフィを「悪魔化(demonization)」することで、「カダフィ独裁体制=悪」、「悪の崩壊=善」という単純極まりない善悪二元論を振りかざす一方、NATO(とりわけ米英仏伊)軍の戦争犯罪は見て見ぬふりを決め込んでいる。しかし、はっきり言おう。ポルポト政権下のカンボジアのように自国民(の一部)を大量虐殺しているといった状況でない限り、独裁体制など大した問題ではない。(因みに、日本や欧米諸国の多くは自国民を大量虐殺したポルポト政権を支持し、ポルポト政権を転覆したベトナムのヘンサムリン政権を非難した。)独裁政権など世界中にたくさんあるし、その中でカダフィ体制は相対的にましな方であったし、それ以前の王制時代に比べて国民の生活水準が大幅に上昇したことは事実である。独裁体制を選ぶか否かはその国の国民自身が決める問題であって、外国が一方的にその善し悪しを判定して介入する権利など存在しない。仮に、独裁体制は武力を行使しても転覆すべきである、という哲学を首尾一貫して支持するというのであれば、国家主権の平等原則、内政不干渉、武力行使の違法化、といったこれまでの国際法原則はすべて放擲し、「独裁体制か否か」という判定権も含め、事実上、米国とNATOに無制限の軍事介入権限を与えることになるが、それを首肯しうる人は果たしてどれだけいるのか? 問題は、独裁体制ではなく、こうした帝国主義的介入主義にこそある、というべきである。1999年の旧ユーゴ空爆と2001年のアフガン戦争以後、米国とNATOが行っていることは、国際法を無視したこうした帝国主義的軍事介入であり、これこそが今日の国際社会が直面している最大の問題なのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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