問われる科学者の責任 「NHK特集シリーズ 原発事故への道程(前編)『置き去りにされた慎重論』」へのコメント
- 2011年 10月 23日
- 評論・紹介・意見
- 原発事故日本の原子力研究科学者の責任諸留能興
2011年9月18日に放送されたNHKETV特集 シリーズ 原発事故への道程(前編)「置き去りにされた慎重論」の再放送が、最近(10月23日PM16:00)、また再放映された。
隠されていた貴重な証言の数々が報道され、目下「文字起し」作業」中。近日中に皆様のお手元まで送信しますが、大切な箇所だけを、抜粋して、先にお届けします。
例によって、NHK報道は、あからさまな世論誘導の、意図的・露骨な報道姿勢が、随所に散見する。NHKが、こうした独断と偏見の報道を垂れ流す目的は、東電・政府・官庁など原発推進派(いわゆる原子力ムラ)の代弁者、援護射撃者たらんとする意図が透けて見える。
私(諸留)が、以下で問題にするのは、核エネルギーの平和利用における原子物理学者を始めとする、科学者・学者たちの責任の問題である。
—-以下が「文字起し」の一部抜粋——–
1985年7月11日に初会合の島村原子力政策研究会に講師として招かれたのが、東京大学名誉教授の茅誠司であった。茅誠司は戦前から原子力の研究に携わってきた核物理学者で、湯川秀樹と並び、進歩的民主的自由主義者として、戦後のわが国のアカデミズムの代表的人物であった。
そこで茅誠司はこう語った。
「昭和27年に講話条約が結ばれた。この条約発行で核分裂研究にゴーサインが出され、原子力研究が大きな問題となった。その時、私は学術会議の第四部長だった。原子力問題は、自然科学分野なので、責任が私にかかってきた。」
日本が独立した1950年に、茅誠司は、日本学術会議に参加し、いち早く、「日本は原子力の研究を再開すべき」と考た。茅は大阪大学教授の伏見康治と共に、政府に研究の再開の申し入れをしようと、科学者たちに呼びかけた。
伏見康治氏は、1934から大阪帝国大学理学部物理教室で原子核実験に携わり、湯川秀樹氏と並ぶ、わが国原子核物理学の草分け的人物。1942年の「確率論及統計論」は量子力学研究のための確率・統計論の名著。原子核物理学の啓蒙書「驢馬電子」の出版、ジョージ・ガモフの名著「不思議の国のトムキンス」も訳出。私(諸留)も高校生の時、この2冊を夢中になって読んだ懐かしい著書だ。
日本独自の原子力研究の重要性と、その平和利用研究に限るとし、「自主、民主、公開」の三原則を茅誠司と伏見康治は提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。
2011年現在、小出裕章氏の在職している、大阪府泉南郡熊取町の京都大学原子炉実験所を、不安に思う周辺住民を説得し、創設に骨折ったのもこの伏見康治氏であった。しかし、核エネルギーの危険性を十分世間に訴える事が希薄であった点では、茅誠司と伏見康治も、湯川秀樹博士と同様であった。科学者としての研究意欲の魅力に引きずられ、核の軍事利用と同様、その平和利用も「絶対悪」と認識するまでに至らず、国民の生命と安全最優先を軽視する傾向にあったことは、茅誠司、伏見康司、湯川秀樹ら、戦後の原子力研究学者グループの、厳しく問われねばならない点である。
終戦直後、GHQは日本の研究所にあった、大型の放射線実験装置、サイクロトロンを破壊した。理化学研究所(1917年設立)に戦中から設置されていた、粒子加速器装置である。NHKは、「日本の物理学者は、この装置で世界最先端の研究を行っていました」と、例によって、大ホラ報道を垂れ流している。その報道姿勢は、まさに戦前の、超度級巨大不沈戦艦「大和」や「武蔵」を生み出した日本の建艦技術水準を鼓舞賞賛した大本営報道そのものだ。
しかし、日本がこのサイクロトロンを使って「世界で最先端の研究を行っていた」とのNHKの解説は明らかに言い過ぎ。原子核構造を実験的に調べる程度のオモチャ程度のシロモノで、欧米のそれとは比較にならない程立ち後れていた。そのため当時の軍部も「新型特殊爆弾(原爆のこと)の開発要請」にも、予算的にも技術的にも不可能と、さすがに断念せざるを得ない程度の、核物理実験施設であった。
こうして戦時中、軍部から原爆開発の検討を命じられていたことから、戦後7年間、原子核物理の実験研究は禁じられていた。一方、原子力研究の再開に強く反対する物理学者たちが、終戦直後の当時は存在していた。
その急先鋒が、広島大学(当時は広島文理科大学)教授三村剛昴(よしたか)だった。三村は広島に原爆が落とされた時、爆心地近くで被爆し、九死に一生を得たが同僚研究者や多くの教え子を亡くした。その経験から、三村は原子力の研究は、原子力の研究が軍事利用されることを強く危惧し、「原子核研究は再開すべきではない」と茅誠司に真っ向から反対した。茅誠治は、「原子力研究の再開を巡り、三村剛昴と意見が真っ二つに分かれた」と語ってる。
東京大学名誉教授茅誠司いわく、
「アメリカとソ連の仲が平和になった時に、初めて原子力の研究はすべきで、それより前にすべきではない、というのが三村剛昴の提案だった。その男にすっかり一座はやられたってわけ」
・・と、あたかも三村の個人的被害感情が、当時の原子力研究開発を阻害したかのような、言い方をしている。
「それから、いろいろな議論が起こってね。結局、茅の提案は取り下げろ、となった。こんなに大勢の人が取り下げてくれと言うので、結局取り下げたんです」
当時の核に対する科学者を始めとする、国民全体の核エネルギーへの拒否感、嫌悪感が、まだ十分高かったことが伺われる。
茅と三村の論争の頃、米ソは東西冷戦に突入し、ソビエト核実験(1949年)、アメリカ核実験(1951年)など、米ソの核実験研究が始まった。茅誠司の主張した原子力研究再開の提案は、学術会議で圧倒的多数から反対され、却下され、時期尚早ということで、継続議論となった。
同じ頃、学者研究者とは別の立場、政財界の立場から原子力に注目する人々が生じた。島村研究会を母胎として。日本で最も早く原子力の導入に向けての動きが始まっていた。
元中央公論社の森一久の証言によれば、昭和23年12月の終わりに、後藤文夫氏が、巣鴨拘置所から出てきた。[この後藤文夫という人物は、戦時中、東上内閣の国務大臣を務めたことを問われ、戦後、A級戦犯として巣鴨拘置所に拘留さた人物。彼は、戦後日本の主力エネルギーとして、いち早く原子力に注目した。
日本が独立した1952年10月、(財)電力経済研究所が設立され、学会とは別に政財業界での原子力発電の調査が始まった。後藤文夫氏の発言を証言した、元中央公論社の森一久は、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹の門下生で、当時、科学雑誌で原子力分野を担当していた男。
当初、森一久は、政財界が研究者に先駆けて、原子力産業に乗り出すことに反発し、後藤文夫に抗議したという。それに対し、財団法人電力経済研究所で、原子炉開発の研究会を主催していた後藤文夫から「原子力が日本のこれからの復興にちゃんと役立と考えてやっているわけだから、外で文句なんか言わず、中に入ってこい」と言われ、ミイラ取りがミイラになる形で、その後、元中央公論社の森一久も、原子物理学の専門知識を買われ、後藤の下で政財界と研究者とのパイプ役を果たしていくことになる。
1951年9月、ソ連がオブニンスク原発建設を開始。世界初の大型原発建設に着したソ連は、原子力の平和利用を掲げ、東側陣営への拡大を図った。こうしたソ連の攻勢に危機感を深めたアメリカのアイゼンハワー米国大統領は、1953年12月に国際連合で、いわゆる「平和のための原子力」演説を行った。
アイゼンハワー米国大統領は提案し
「原子力技術を持つ各政府は、蓄えているウランなどの核物質を、国際的な原子力機関を創設して預け、平和のために使う方法を考えよう」
とぶちあげた。 このアイゼンハワー米国大統領の演説にこそ、2011年の現在に至るまで、国際連合や、IAEA(国際原子力機関)、それと密接に連動している国際放射線防護委員会(ICRP)や、WHO(世界保健機構)などなど・・一連の国際機関の政治的独善性、「まずはじめに核エネルギーの利用ありき」の、独善的姿勢が鮮明に示されている。アメリカを中核とする西側自由主義陣営大国による核エネルギーの、軍事及び平和両面での独占的支配と、その開発・推進の絶対的主導権、それには放射能の人体への影響度の基準値(モノサシ)を、いかなるモンサシにするかの絶対的決定権も当然含まれている!こうして核エネルギーの支配とコントロールがアメリカと、それに阿諛追従する国連の下にあることを、全世界に向かって明白に宣言したのが、このアイゼンハワー米国大統領の国連演説、いわゆる「平和のための原子力」演説であった。
アイゼンハワーの「国際的な原子力機関を創設し預け、平和のために使う」が「タテマエ論」でしかなく、「国際社会の普遍的正義と秩序」という衣を装った、大ペテン演説であったことは、その後の湾岸戦争、イスラエルによるイラクのオシラク原子炉空爆、イラク戦争での劣化ウラン弾の大量投下、イランや北朝鮮の原子炉開発への疑惑の強化とは裏腹に、核保有超五大国の最優先的待遇、イスラエルの核開発や、インド、パキスタンなどアメリカ友好国の核開発黙認、日本の97%純度のプルトニウム50kg~6kg保有にも黙認する国連やIAEAの「不公平」な寛大さとは裏腹に、イラクやイラン北朝鮮など非友好諸国へのIAEA核査察の締め付けや、あいつぐ国連制裁決などなど・・アメリカや国連の言う国際規範の不公平さ、偽善的国際正義論が、雄弁に物語っている。
以上の、アメリカの核戦略構想という国際的観点から見れば、3・11の福島第一原発事故も、東西冷戦対立やアメリカの核戦略が産み落とした「鬼子」の一人とも言えよう。
こうした戦後の国際情勢に敏感に反応したのが、1954年2月、改進党の衆議院議員、斉藤憲三を中心に、自由党、日本自由党の議員からなる超党派議員であった。その一人に、自由党衆議院議員の前田正男がいた。
前田正男本人いわく
「原子力の時代が来るから、できたら予算をつけようと言ったのは(改進党)の斉藤憲三君でした。昭和29年の予算時に補正(予算)でやることになり、特に中曽根康宏たちが中心となって原子力関係の予算を作った」
その証拠資料として、1954年3月の『朝日新聞』一面トップ記事に「予算折衝ついに妥結 三党で共同修正案」とあり、そのすぐ下のベタ記事にも、科学技術振興費三億円(原子炉製造費補助二億六千万円、ウラニウムなど新鉱床探鉱費千五百万円。ゲルマニウム精錬技術および応用研究費八百万円その他・・とある。
こうして、アイゼンハワーの国連演説から僅か三ケ月後に、斉藤憲三、中曽根康宏らが作成した二億六千万円の原子力予算案が国会に提出された。当時、通産省で科学技術の調査を担当していた堀純郎(すみお)によると、予算案提出は、政治家が研究者の議論に見切りを付けた結果だとの生々しい証言がある。その証言は「元通商産業省 堀純郎026」と書かれたカセットテープに収録されている。
「一部の人間が原子力の研究をやるか、やらんかで議論したのは確かです。論議の内容はやるべきだという人間と、やるべきじゃないという人間と、それから、やりようによってはやったらいいという、賛否中立といいますか、その3論に分かれて、小田原評定を繰り返した。これは、まさに小田原評定。時間だけが喰っていたので、中曽根康宏さんなんがやきもきして・・まさに、そういう現象だった」
”長引いて容易に結論の出ない会議・相談”、”長時間の会議をしても、いつまでたっても結論が出ないこと”を、「小田原評定」というが、こうした言葉を「現象」と称して、平気で表現使用する、元通商産業省官の僚堀純郎の見識不足もさることながら、国家の将来を左右する重大な議論に際し、原子力の危険性の専門知識を全く持たない政治家や官僚家の「鳩首会議」を「小田原評定」と揶揄し、高所批判するがごとき、NHKの報道姿勢も含め、かれらの無責任さが、現在の福島被爆者たちの悲劇を招いたことを銘記すべき。
こうした政財界の動きに、原子力行政の再開には慎重な議論が必要、と考えていた研究者たち、特に原子核物理学者たちは、その突然の予算案に愕然とする。研究再開を強く望んでいた大阪大学教授の伏見康治でさえ、政治主導のこの予算案に、ショックを受けたと語っている。
以下は「伏見(康治)先生001」と書かれたカセトテープの伏見氏の肉声収録記録から。
「朝目を覚まして新聞を見たら、中曽根予算が書いてある。ビックリ仰天してですね、学術会議で原子力問題を議論している時に、非常に思い上がったといえばそうなんですけれど。つまり、原子物理学者がイニシアティブ(主導権)を取らなければ物事が動くはずかないと、という大前提を、(原子物理学者の)みなさんが持っていたんですね。つまりアメリカのマンハッタン・プロジェクトは、原子物理学者のイニシアティブで始まったのですから」
ここでの伏見康司の指摘は、極めて需要な指摘だ。山本義隆の近著『福島原発事故をめぐって~いくつか学び考えたこと~』みすず書房(2011年8月)で、著者の山本義隆氏も明晰に指摘する通り、ケプラーに始まる「16世紀文化革命」と、それに続く17世紀のデカルト、ニュートンの力概念による機械論の更なる拡張で、「自然に秘められた自然の力を人間が使役しうる可能性」に目覚め、その「数学的把握、近代科学技術の自然からの独立」が飛躍的に深化した17世紀でも「科学理論に基礎づけられ技術は未だ誕生せず、18世紀後半のワットの蒸気機関改良と実用化に突入時でさえ、五感で感知可能な自然現象の力の技術的応用が常にまず先行し、その後から科学理論が追いつく状況が19世紀中頃まで続いた」こと。とりわけ、原子核エネルギーの場合、「まず最初に純粋理論的に原子核物理学理論として展開された最先端の科学理論の先行」があり、その後から「その理論成果を工業規模に拡大させ、原子核エネルギーの技術的利用が追いついたという点で、近代科学技術史上でも、極めて特異な技術体系。それが核開発技術(軍事および平和利用を問わず)である。
しかも、この技術は「官軍産一体の、技術者・労働者・科学者を国規模で総動員させた超巨大科学技術体系への移転」であり、巨大な利益と人名の殺傷を必然的伴う産軍複合体に依拠せざるを得ないものであった。このことは、単にアメリカのマンハッタン計画だけでなく、その後の現在に至るまでの、「財界・業界・官僚・学者・マスコミ」の鉄壁の五角形のスクラム、いわゆる「原子力ムラ」を伴って推進されてきたことでも雄弁に証明される。原子力の研究者を抜きにした、「原子力の平和利用」の美名で、国策として遂行される原発(平和利用)であれ、原爆(軍事利用)であれ、「両者は紙一枚すらの相違さえない」との山本義隆氏の指摘は、当時の学術会議の危機感にも一脈通じるものがある。
伏見康治の証言は更に続く。
「そのことが皆さん、日本の原子物理学者(や学術会議)の頭にあるものですから、日本では、日本の原子物理学者が始めなければ始まらないとの前提があったものです。ですから、研究開発から原子爆弾を作るまで全段階に対して、原子核物理学者に責任があって、原子核物理学者さえ動かなければ、一切動かないものだ、という前提でやってきていましたから・・ですから、中曽根康宏さんたちのやった原子力予算が、非常なショックになったわけです。」
しかし、この伏見康治(当時)大阪大学教授の発言を、私(諸留)は、そのまま肯定することは出来ない。学者(研究者)といえども、純粋学問的な、人間としてむしろ当然の、抑え難い真理探究という本能的な欲望、を犠牲にしてでも、政治的に間違った方向に、その科学技術が用いられる時は、身を挺してでも、それを阻止する義務があった筈である。政治家と違い、学者には国政の流れを左右する力は無いかもしれない。しかし、その当時の学術会議の全科学者が一斉に辞職してでも、原子力の平和利用の危険性を、国民に徹底的に説明する運動を展開していたら、国政の流れをくい止めることも可能だった筈。
学者としての生命を失ってまで、国政に抵抗し、核エネルギーの平和利用の危険性を、命がけで訴え、阻止する展開には至らなかった。所詮、学者といえども、サラリーマン化し、「飯の種」としての学問研究であり、大学教授と言えども、所詮は、目先の欲望に引きずられる。情けない人間であることは、「原子力ムラ」に群がった御用学者共の醜態を今更改めて確認せずとも、「変節漢教授たち」の生き様を見せつけられてきた私(諸留)たち大学紛争世代には、初めから解っていたこと。
学者や研究者として、真理探究の象牙の塔に閉じこもるだけで、社会や政治と没交渉の姿勢に対する根本的疑問が厳しく自己に問うことも、また周囲から問われる事も無いのは、いつの時代でもそうであった。核兵器の絶対悪を世に訴えた湯川秀樹氏ですら「曲学阿世の輩」として、右翼はもとより、原発推進派からも非難された。こうした研究者の姿勢が厳しく問われたのが、1970年代に激化した大学紛争であった。しかし、それにも関わらず、その後のアカデミズムは「原子力ムラ」、「産軍複合体」の圧倒的国家権力の津波に飲み込まれ、埋没し、沈黙していった。紛争当時「産学協同粉砕」と書かれた立看を見慣れてきた私たち大学紛争世代にとって、京都大学の稲森財団資金による潤沢な大学施設に代表されるような、今日の大学の産学協同路線ベッタリの、国公立私立を問わない、そのあまりのキャンパスの変容ぶりには、異次元空間に迷い込んだのでは?と、めまいを感じさせられる。すっかり様変わりした昨今のキャンパスだ。
変節漢は、学者・研究者だけに限らない。
「核エネルギーの軍事利用と平和利用は一体であるとの考えを私は拒絶する」
「科学的真理探究を制約することは、非人間的行為であり愚かでさえある。最新の科学技術を駆使し、原子力エネルギーの利用を押し進めるのが、私たち人間としての正しい道である」
と、傲然と業界紙産業経済新聞紙上で、言い放つ吉本隆明氏の、原発擁護発言の背後には、新左翼の教条主義的な硬直思考への嫌悪感があるとしても、明らかに原子力ムラへ迎合する思想であることは明らか。安全平常運転時ですら、全国30万人とも言われる原発ジプシー現場労働者が被爆され、労災補償すら無く、使い棄てられる現実を、最底辺の弱者の目線から見つめようとする姿勢は存在しない。
最新技術的を駆使して安全運転することで原発を進めるべきとする彼の姿勢は、評論家としての言論が保障されさえすれば何を言っても、構わないとする吉本隆明の姿勢は、小泉流の「新自由主義者」のインテリ版の典型である。核兵器は絶対悪であり、その廃絶運動に力を注いだ湯川秀樹でさえ、原子力の平和利用そのものに疑いを挟むことはなく、1960年代には原子力委員の核融合専門部会長を務めた。長年湯川秀樹氏の傍にいた慶応大学名誉教授小沼通二も「(湯川先生は)核兵器廃絶の決意は固かったが、原子力政策の批判を聞いたことはない」と証言している。
その点、同じ原子核物理学者でも、「武谷三段論法」で名高い武谷三男氏は「核エネルギーの平和利用は必ずその軍事利用に通じ、両者の区別は出来ない」と明確に指摘したのとは好対照。直接他国民を殺傷する兵器でなくとも、自国民や周辺諸国民の生命、財産、祖国の大地を破壊し、汚染し、殺傷し「根こぎ」にするという点では、原子力発電も、核兵器と全く同じである。それは、今回の福島第一原発事故で明らかになったではないか。湯川秀樹氏や伏見康治氏、学術会議学者の学者としての模で総動員させた超巨大科学技術体系への移転」であり、巨大な利益と人名の殺傷を必然的伴う産軍複合体に依拠せざるを得ないものであった。このことは、単にアメリカのマンハッタン計画だけでなく、その後の現在に至るまでの、「財界・業界・官僚・学者・マスコミ」の鉄壁の五角形のスクラム、いわゆる「原子力ムラ」を伴って推進されてきたことでも雄弁に証明される。原子力の研究者を抜きにした、「原子力の平和利用」の美名で、国策として遂行される原発(平和利用)であれ、原爆(軍事利用)であれ、「両者は紙一枚すらの相違さえない」との山本義隆氏の指摘は、当時の学術会議の危機感にも一脈通じるものがある。
茅誠司、湯川秀樹や伏見康治などなど、戦後の日本の学術会議に連なった学者たちの責任は極めて大きい。40年前に問われた問題が、福島第一原発事故を契機に、より深刻な状況下で、改めて問われている。この問いに、わが国の科学者も、また私たち一般市民も、どう答え、どう行動していくのか・・正念場である。
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0659:111023〕
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