外交でも、原発でも「いつかきた道」を繰り返さず!
- 2011年 11月 16日
- 時代をみる
- TPP加藤哲郎原子力
2011.11.15 日曜日の米国『ニューヨーク・タイムズ』は、書評やエッセイが充実し、読み応えがあります。日曜版だけ購入するファンもいます。その”The New York Times” では、11月13日付日曜版に掲載されたのでしょう。12日Fukushima発Martin Fackler記者の福島第一原発視察報告Devastation at Japan Site, Seen Up Closeが、大きく写真入りで、ウェブ版に出ています。事故後8か月もたっているのに、現場はDevastation =荒廃・破滅そのものだ、と世界に報告しています。14日の英国BBC放送ニュースサイトは、Japan farm radioactive levels probedという、東日本のみならず日本全土の土壌のセシウム137汚染レベルの地図を掲載し、In the wake of the accident at Japan’s Fukushima nuclear power plant, radioactive isotopes were blown over Japan and its coastal waters. Fears that agricultural land would be contaminated spurned research into whether Japanese vegetables and meat were safe to eat. と、日本の食糧の安全性を問題にしています。An early study suggested that harvests contained levels of radiation well under the safety limit for human consumption.と結んではいますが。New York TimesもBBCも、世界のエリート、アナリストが毎日目を通すメディアです。こんな国が、さらなる市場開放で、輸出を増やすことができるでしょうか。まずは福島原発事故原因を究明し、東電ほか「原子力村」の責任を明確にし、空・海・地上での放射能汚染の広がりをくい止めることこそ、世界の疑惑と不安の眼に応えることではないでしょうか。
BBCの放射性物質汚染マップは、本15日付『朝日新聞』掲載「福島原発の放射性物質、西日本にも 研究チーム解析」という記事で、「東京電力福島第一原発の事故で大気中に放出された放射性物質が、西日本や北海道にも拡散しているとの解析を日米欧の研究チームがまとめた。15日の米国科学アカデミー紀要電子版に発表する。文部科学省は長野・群馬県境で汚染の広がりはとどまったとの見解を示したが、以西でも「わずかだが沈着している可能性がある」と指摘した」という記事のもととなったデータと同じもののようです。しかし『朝日新聞』は、食糧汚染の可能性には触れていません。その日の『朝日新聞』1面トップは、日本の野田首相TPP参加意向表明で「TPP参加へ加速、各国、雪崩打ち表明」の大見出し。サブに「本社世論調査 TPP賛成46% 反対28%」のTPP参加への誘導報道で、日本全土セシウム汚染地図は、その下に小さく出ています。「雪崩」を打ってTPP参加という「各国」とは、カナダとメキシコのこと。もともと北米自由貿易協定(NAFTA) で、アメリカ経済に深く組み込まれています。メキシコ農業は、米国アグリビジネスの支配下に再編されました。日本のTPP参加がどういう方向に向かうのかを、暗示しています。
やはりというか、まだこの程度というか、野田佳彦首相の支持率が急落しています。9月発足時のご祝儀相場6割から、毎月1割づつ落として11月は4割、このまま行くと、来年早々には、早くも危険水域の3割割れです。「党内融和」「挙党一致」で選ばれたはずなのに、「強いリーダーシップ」「決断力」もあるぞと色目を使った途端に、与党内部からのTPP(Trans-Pacific Partnership、環太平洋戦略的経済連携協定)交渉参加への反対論、野党のほとんどと与党の半分が反対にまわったところで、決定を1日延ばすという姑息な迂回策。しかし結局、首相自身は何ら説明責任を果たさず、リーダーシップを発揮しないまま、予定通りのAPEC参加に合わせたTPP参加の意向表明。ところがハワイのAPECでは、アメリカが、待ってましたのボディーブロー、早速牛肉輸入規制の緩和、郵政優遇措置見直し、自動車市場開放を事前協議の対象にあげました。日米首脳会談で、米ホワイトハウスは、会談後「首相が『すべての物品やサービスを貿易自由化交渉のテーブルに乗せる』と述べた」とし、オバマ大統領がこれを歓迎した、と発表。日本側は、国内向けに、首相が政府の「包括的経済連携に関する基本方針」を説明しただけだと訂正を申し入れましたが、米国側は「発表を訂正する予定はない」と素っ気ない返事。このプロセス、確か「いつかきた道」と振り返ってみたら、何のことはない、1989年の冷戦崩壊期、日本のバブル経済絶頂期に「日米構造協議」を受け入れ、それを引き継いだ「日米包括経済協議」、そして1994年から現在にいたる米国「年次改革要望書」で、次々とアメリカの圧力に屈し、日本経済が「失われた20年」に突入し、脱出できずにいる、歴史そのものでした。もともとアメリカの貿易赤字解消のために始まったもので、今回TPPは、アメリカの国内産業保護・雇用創出・輸出拡大と中国へ対抗する「名前を変えただけの年次改革要望書」「日本改造計画」です。なぜなら、今年2月、アメリカ大使館は『日米経済調和対話』(別名「年次改革要望書2.0」)を公表し、膨大な市場開放要求リストを、すでに提示しています。牛肉も郵政も自動車も、もちろん入っていました。農業関連はもちろん、保険や医薬品・医療機器、化粧品なども具体的に要求しています。これを、TPPでは、他国の力をも借りて、日本に押しつけようというわけです。この民主党内閣は、沖縄の普天間基地移転問題ばかりでなく、TPP問題でも、完全にアメリカの世界戦略に組み込まれ屈服しようとしています。
「いつかきた道」は、TPPばかりではありません。ギリシャ国債からイタリア国債に飛び火し、両国の政権を交代させたヨーロッパ金融危機も、もとはといえば、アメリカのリーマン・ショックが火元でした。2008年9月のリーマン危機が、3年たってヨーロッパで火を噴いたかたちです。本サイトは幾度か書いてきましたが、1929年ニューヨークに発した世界経済恐慌の進行が想起されます。20世紀の1929年10月24日ニューヨーク株式市場の大暴落(暗黒の木曜日)が、ヨーロッパに広がって本格的な世界恐慌になったのは、1年半後の1931年5月11日、オーストリアの大銀行クレジットアンシュタルトの破産からでした。ただちにドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行が倒産、7月13日ダナート銀行が閉鎖すると、ドイツの全銀行が8月5日まで閉鎖され、ドイツの金融危機となりました。アメリカは、フーヴァー・モラトリアム、失業者は急増し年末ハンガー行進、イギリスではマクドナルド挙国一致内閣が金本位制停止、フランス、オランダも恐慌になり、ドイツでは大量失業の中からナチスが台頭し、左右の激突を経て、33年1月ヒトラーが政権につきます。すでに農業恐慌下にあった日本は、9月に満州侵略を開始し、15年戦争に入りました。奇しくも2008年9月のリーマン・ショックから1年半後の2010年5月にギリシャ財政破綻が始まり、それから1年半後のイタリアは、さしずめ1932年秋のドイツです。「いつかきた道」をたどるとすれば、世界中で左右の対立が激化し、ナショナリズムが台頭・蔓延する流れです。もちろん国連・G20を含む国際組織・機構の増大、中国などアジア経済の台頭で、国際環境は、20世紀と大きく異なりますが。アメリカ経済の復旧は、第二次世界大戦での軍需によるものでした。
ついでにもう一つ、「いつかきた道」を、おさらいしておきましょう。1954年の日本は、朝鮮戦争休戦から高度経済成長・保守合同55年体制出発への、インタールードでした。長く続いた吉田茂自由党内閣はすでに死に体で、2月23日造船疑獄発覚、4月に犬養健法相の指揮権発動で、佐藤栄作自由党幹事長が何とか逮捕をまねがれ、後に首相となります。その政局混乱のさなか、3月1日、米国のビキニ環礁水爆実験で、静岡県焼津市のマグロ漁船第5福竜丸ほか日本漁船が大量の放射線被ばくを受けます。ただしそれが「死の灰」とわかるのは、3月14日に第5福竜丸が焼津港に帰港してからです。その合間の3月2日の衆院予算委員会に、改進党の中曽根康弘らが、ウラン235をもじった2億3500万円の原子炉築造費を含む原子力予算を提案し、わずか3日の討論で、3月4日衆院本会議で可決されました。今日のFukushima Devastationへの直接の出発点となる、日本における「原子力の平和利用」の始まりです。当時「科学者の国会」である日本学術会議でも原子力研究再開が議論されており、4月23日の総会で、武谷三男の提唱に起源を持つ「公開・民主・自主」の3原則が採択されましたが、あとの祭りでした。当時の自主防衛ナショナリズムの青年将校中曽根康弘に言わせれば、「学者がボヤボヤしているから札束で学者のホッペタをひっぱたいてやった」政治主導の出発でした。後にこれは、前年53年12月の米国アイゼンハワー大統領国連演説「Atoms for Peace 」日本版と言われますが、正確ではありません。国会での提案趣旨説明には、「平和利用」どころか、最新の原子兵器を扱うための教育と訓練の必要、「新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またこれを使用する能力を持つことが先決問題である」と公言されていました。アメリカ自体、1月にダレス国務長官の大量報復戦略(ニュールック政策)発表、2月17日の大統領特別教書で核物質・核技術の2国間協定供与方式に転換していました。吉岡斉さん『新版 原子力の社会史』(朝日新聞出版、2011年)が、「日本の原子力開発を立ち上げるための決定的な一歩」とし、科学者たちや日本共産党の「3原則」に依拠した「あるべき姿からのズレ」から原発を批判する「3原則蹂躙史観」の無力を説くゆえんです。ここからCIA エージェント正力松太郎による『読売新聞』、日本テレビを動員した「平和利用」プロパガンダ、55年原子力基本法、56年原子力委員会発足、57年東海村原子炉完成・臨界まで、左右社会党統一、保守合同、鳩山内閣発足、日ソ国交回復など政治環境の変化はありますが、原発一直線です。
他方、ビキニの第5福竜丸被ばく、「死の灰」の恐怖は、日本の原水爆禁止運動の出発につながります。1954年3月27日の焼津市議会は、「第5福竜丸原爆被災事件に因る放射能の脅威を痛感し、恐怖する市民の意思を代表し、人類幸福のために左の事を要求する。一、原子力の兵器としての使用することの禁止、二、原子力の平和利用」を決議します。武谷三男の『だからこそ』の論理に似て、この出発点から「平和利用」是認が入っています(藤田祐幸『隠して核武装する日本』影書房、2007年)。反対運動も、すぐに盛り上がったわけではありません。「水爆マグロ」騒動を背景に、杉並区の主婦・婦人団体を中心とした原水爆禁止署名運動は5月7日「杉並アピール」から始まり、8月8日広島での大内兵衛・賀川豊彦・羽仁とも子・湯川秀樹ら呼びかけの「原水爆禁止署名運動全国協議会」結成までに449万署名、9月23日第5福竜丸無線長久保山愛吉さんの被ばく死で一挙に署名は広がり12月2000万人突破、55年8月第一回原水爆禁止世界大会発足時に3286万署名です。ただし、この流れを詳細に追った最新の労作、丸浜江里子『原水禁署名運動の誕生』(凱風社、2011年)を読んでも、「原子力の平和利用」は出てきません。それどころか、かつて森滝市朗『核絶対否定へのあゆみ』(渓水社、1994年)が深刻に自己切開し、今日田中利幸さんらが論じているように、原水禁運動も被爆者運動も「原子力の平和利用」を「軍事利用」の代替案として受け入れ、56年8月10日被団協(日本原水爆被害者団体協議会)結成宣言にさえ、「人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません。破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向わせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」とうたわれるのです。なぜでしょうか?
私の10月早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会報告「占領下日本の『原子力』イメージーーヒロシマからフクシマへの助走」は、その背景に、「ヒロシマ・ナガサキ原爆体験の民衆的受容の仕方」の問題を見いだしたものです。幸い好評で、『東京新聞』10月25日「メディア観望」、『毎日新聞』11月2日「ことばの周辺」でも、大きく取り上げられました。もう一つの側面は、12月10日専修大学での同時代史学会年次大会で、「日本マルクス主義はなぜ「原子力」にあこがれたのか」と題して報告する予定です。ここでの「いつかきた道」とは、日本における原発導入と原水禁運動の不幸な同時出発、それ自体ではありません。3・11の衝撃から4月の「原発やめろデモ」、反原発アクションの盛り上がり、9・19日東京「さようなら原発」6万人集会・デモにいたる流れが、民主党政権の無策が「原子力村」の復活を許し、原発再稼働から原発輸出まで始まろうとしている現局面における、「これから」の脱原発運動の課題とテンポです。政治の争点自体が、マスコミの世論誘導・操作もあり、脱原発それ自体から放射能汚染に移ってきています。こどもたちを放射線から守ろうとする女性たちのネットワーク運動は盛り上がり、全国各地で多様な運動・学習会が開かれています。11月23日には、上野千鶴子さん、田中優子さんらがよびかけ、吉永小百合さん、竹下景子さんらを賛同人とする「脱原発をめざす女たちの会」が、正式に発足します。脱原発の「なでしこジャパン」です。9・19「さようなら原発6万人集会」の流れは、次の節目を、12月10日の日比谷野音集会、来年2月11日の代々木公園アクション、3月24日1000万人署名総括集会(日比谷野音)に設定しています。ドイツやイタリアの動きからするともどかしいですが、日本政治の鈍い動きからしても、おそらく2012年こそが、戦後日本のあり方をどう見直すか、ヒロシマ・フクシマ体験を踏まえて原発をどうするかの分岐点になるでしょう。1954年3月から55年の動きをじっくり学び、20世紀の日本を大きく回顧しながら、「いつかきた道」ではない、新しい道を踏み出したいものです。
「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
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〔eye1711:111116〕
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