自主管理社会主義の教訓――協議経済論・アソシエーション論の盲点と資本主義幻想の霧消――
- 2011年 11月 18日
- スタディルーム
- 岩田昌征
1.協議経済化過剰の無理
ソ連東欧の集権制計画経済の危機が表面化して以来,特にその全面的崩壊以後,資本主義に降伏せず,その批判者としての社会主義に思想的意味を認める人達の間に,資本主義市場経済と対置されるべきは,官僚的計画経済ではなく,労働市民的協議経済であるとの主張が響き始めた。哲学的に一般化されて,アソシエーション論としても提起されている。耳を傾けるに値する思想であるが,その最大の弱点は,ソ連東欧と同時に崩壊したユーゴスラヴィア自主管理社会主義の理念論的・制度論的基軸がまさしく協議経済であり,アソシエーションであったと言う歴史的事実・経験を殆ど完全に無視して立論されている所に在る。
ユーゴスラヴィア社会主義は,資本主義の企業の本質を私有財産のアソシエーション(連合,結合),ソ連型社会主義の企業の本質を国有財産のアソシエーション,それに対して自主管理社会主義の企業の本質を財産(所有)ではなく,労働のアソシエーションであると主張し,それを支える財産(生産手段)の所有形態を社会的所有であるとした。それ故に,1974年憲法・1976年連合労働法体制(アソシエイテッド・レイバー(ワーク))の下では,企業なる名辞・概念は捨てられ使用されなくなり,連合労働組織なる名辞・概念にとってかわられた。
ユーゴスラヴィア社会主義,総称すれば,自主管理(かんり)連合労働(アソシエイテッド・レイバー(ワーク))システムの形成については,岩田昌征著『社会主義の経済システム』(新評論,昭和50年・1975年)の第Ⅲ部「自主管理型社会主義」に,その最終形態については,岩田昌征著『現代社会主義の新地平』(日本評論社,昭和58年・1983年)の第5章「公共財の自主管理」に詳しい。参照されたい。連合労働システム,特に協議経済の具体的機能,と言うよりその機能不全に関する批判的観察は,岩田昌征著『凡人たちの社会主義』(筑摩書房,昭和60年・1985年)所収の「ユーゴスラヴィア社会主義を旅する」に詳述してある。
ここでは,協議経済が回転・作動しうる為には,殆ど必然的にインフレーションが要請されると言う私の主張を提起しておきたい。連合労働組織のメンバーは,職場で働く労働者であり,かつ家庭で生活を楽しむ消費者である。労働者としては出来る限り最新式の設備を用い,高生産性と高品質を達成したい。生活者としては最新式のカラーテレビを買ったり,ファーストハウス,あるいはセカンドハウスを建てたい。各人が生産者・技術者の魂と消費者・生活者の魂を兼ね備えている。企業長,技師長など旧ユーゴスラヴィアでいわゆる指導職(管理職・経営者のこと)は,職責上,第一の魂に従って発言することが多いし,平の事務職や現場労働者の多くは,第二の魂に従って要求することが頻繁であろう。けれども,両者ともに二つの魂を共有している。ある連合労働組織で100万ディナールの所得を投資と個人所得(消費)にいかに分配するべきか,が討論されている。第一の魂の合理的判断は,投資70万対個人所得30万であり,第二の魂の合理的判断は,30万対70万である。長い長い協議の時間をかければ,ある種の最適比例が発見できるかも知れない。しかしながら,実生活―それが経済であれ,戦争であれ―にとって本質的損失,すなわち回復不可能な損失は,決定不能=時間の損失である。かくして,この損失を回避する為に,第一の魂の強く要求する投資70万と第二の魂の強く要求する個人所得(消費)70万が共に協議的に是認される。総額140万ディナールとなって,現実所得100万ディナールを越える40万ディナールの不足分は,銀行システムから借りる。すべての連合労働集団が同じ様な問題に直面しており,従ってマクロ的有効需要が総供給をオーバーし,必然的にインフレーションとなる。これは,資本家的意志決定や官僚企業長的単独決定とは異なる労働者自主管理的協議経済に特徴的なマクロ的不安定性である。『凡人たちの社会主義』(pp.41-44)を参照されたい。
ユーゴスラヴィア社会主義内部の経営指導職と現場労働者それぞれによる協議経済の現実に対する体験的悲鳴とも言える具体的諸批判,1980年代前半に観察された諸批判は,岩田昌征著『ユーゴスラヴィア 衝突する歴史と抗争する文明』(NTT出版,平成6年・1994年)第3章「自主管理社会主義の矛盾と終焉」「2.自主管理体制の経験的批判」において詳述されている。
2. 合理的官僚制建設志向の欠如
自主管理連合労働の理論は,あらゆる財・サーヴィスの卸売・小売市場を積極的に肯定するが,労働市場と資本市場を否定する(労働力商品化の否定)。それ以上に鋭く否定されてきたのは,官僚制である(国家死滅論)。『凡人たちの社会主義』の中で,その様子を以下の如く描写しておいた。
やや長い引用になったが、ここから今日のユーゴスラヴィア社会において社会的性格・起源を異にする諸偏向がまず官僚主義的とレッテルをはられる知的雰囲気を理解することが出来よう。もともと言論活動を天職とする知識人たちは、自己の政治的イデオロギーがどうであれ、また体制の公認イデオロギーがどうであれ、生来反官僚主義気質の持主である。その上に、体制イデオローグたちが反官僚制、反国権の膨大な思想体系を構築している。
このような情況にあっては、リアリティに目ざめた社会科学者が正真正銘の官僚制を肯定的に論ずること、いかに心理的に困難であることか。経済システムの中で市場メカニズムと協議メカニズムは公認されているが、官僚メカニズムは公認されていない。官僚制は常に否定的文脈で語られる。ところが、現実に官僚制は、連邦、共和国、自治州、コミューン、各種の連合労働組織、自主管理利益共同体のそれぞれにおいて機能上必要であるから存在する。したがって、理論的に否定され、克服さるべきものが生きながらえているがゆえに、一層人々の目につく。そうすると、今日市場論者は協議経済の機能不全が官僚制・国権主義を膨張させている、と批判する。マルセニチ教授は私にこういう形で今日の経済危機の原因を説明してみせた。ところが、一〇年前に協議論者が意気さかんであった頃、市場メカニズムの暴走が官僚制・国権主義を肥大化させる、と批判していたのである。市場メカニズムの弱点や自主管理的協議方式の欠点をそれ自体として分析するよりも、悪者としての定評が不動である官僚制に結び付けて論難したほうがやりやすいという次第である。というわけで、ユーゴスラヴィアの新聞、雑誌を読んでいると、「アナルコ・エタティズム(無政府国権主義)」とか「ポリツェントリチニ・エタティズム(多元主義的国権主義)」とか、背景を知らないと、まったくちんぷんかんぷんな造語に出くわすことがしばしばである。
一九八〇年九月、コラチ教授の盟友アレクサンダル・ヴァーツィチ教授(ベオグラード大学法学部)にあった時、「ここにソ連の保守的なイデオローグがいて、ブラック・マーケットがとりしまられていないから計画経済がうまく働かない、といって、ソ連経済の機能不全をなんでも闇市場のせいにしたら、こっけいでしょう。経済運営上必要なマーケットが公認されていないから、闇でよみがえる。あなた方のところでは、官僚制がきちんと公認されていないから、それを必要とする事情がある限り、いわば闇でよみがえる。ブラック・アドミニストレーション、ブラック・ビュロクラシー、ブラック・ステイトがはびこる」と指摘したところ、「興味深い視角だ」と答えてくれた。(pp.48-49)
余談ではあるが,一言しておく必要がある。「失われた20年」が叫ばれる日本においても,中央・地方官僚制に対するポピュリズム的非難・批判が市民社会の左,央,右を問わずあらゆる所で聞かれる。私の耳にはかってのユーゴスラヴィアにおけるように,「期待感なき批判」であって,官僚制の健全な機能を阻害しているだけのようである。私は思う,「良い自主管理者と良い商人(ビジネスマン)が必要であるのと同様に,良い官僚もまた必要であろう。」(p.41)
3. 体制崩壊以後の自主管理社会主義評価
ユーゴスラヴィアにおける体制転換は,ソ連東欧におけるように集権制計画経済の解体ではなく,現実に存在する市場経済を協議経済の制約から解放し,労働市場と資本市場を全面展開させる事であり,連合労働概念とその所有的基礎である社会的所有概念,すなわち万人のものであり,かつ誰のものでもないと言う社会有規定とを共に放棄し,従って所有権に立脚する国有企業・集団所有組織・私有企業の概念を復権させることである。私有化プロセスは,社会有→集団所有→私有,あるいは社会有→国家所有→私有と言う大略二つの経路をたどる―ソ連・東欧の私有化においては最初の矢印が不在―。ミロシェヴィチ社会党政権下(1990年代)では前者の道が,ミロシェヴィチ打倒後の親欧米民主政権下(21世紀最初の10年代)では後者の道が主であると言えるが,いずれにしても圧倒的多数の一般勤労者は,私有化プロセスの絶対的敗者となる。前者の場合,企業(以前の連合労働組織)の従業員が自社株取得において優遇される仕組がつくられていたとは言え,当然の如く,企業の財務状態に詳しい経営専門集団が圧倒的に自社・他社の私有化プロセスの勝者となる。後者の場合,中央・地方の私有化担当政府機関が主導する競売・入札方式において,諸外国資本,90年代私有化の勝者達,そして民主政権に強いコネクションを持つ諸グループが一方的勝者となり,一般労働者層は,企業の新所有者の経営方針に従って,再雇用されるか,あるいは大量解雇の憂き目を見る。失職すると,再就職のチャンスは殆どない。要するに,私流に表現すれば,私有化とは階級形成闘争であり,すなわち,社会主義時代の半世紀に蓄積された富を誰が我が物となし,資本家に成り上がり,誰がその富から排除され,資本家にやとわれる賃金労働者に成り下がるのか,に関する社会的闘争である。
ここで,ゾラン・ストイリコヴィチ著『移行の迷路の中のセルビア』(Zoran Stojiljković, Srbija u Lavirintima Tranzicije, Službeni Glasnik, 2011, Beograd) から階級形成闘争―著者はかかる刺戟的術語を用いていないが―にかかわる世論調査を抜き出し,紹介しよう。
一般労働者が私有化の結果をどう評価しているのか。a,私有化は必要な改革プロセスであり,かつ大略良く実行されている。b,全く盗奪そのものである。c,必要であるが,間違った仕方で実行されている。d,分からない。2002年の調査では,aは12%,bは39%,cは23%,dは26%。2003年の調査では,aは12%,bは31%,cは35%,dは22%。2007年の調査では,aは16%,bは36%,cは33%,dは15%。2010年の調査では,aは3%,bは44%,cは27%。(pp.337-338)
社会階層別に私有化の支持率は異なる。専門家層の71%が支持,つまり25%(a)+46%(c)。事務職層の半分以上が支持。無資格・半資格労働者層はb(47%)であり,技手層の五分の二はb,有資格・高資格労働者の三分の一はbである。
要するに,ゾラン・ストイリコヴィチが書く通り,「様々な私有化モデルを20年間実験した結果は,私有化の創発者と受益者の狭小なサークルだけがそのプロセスと結果に満足しているという事だ。」(p.338)
ボジョ・ドラシコヴィチ『私有化の終焉』(Božo Drašković, ed, Kraj Privafizacije, Institut Ekonomskih Nauka, 2010, Beograd)所収のマルコ・セクロヴィチ論文「復讐者的私有化」は,タイトルがまことに挑発的である。著者によれば,セルビアにおける私有化を形容するに,これまで「タイクーン(大将軍,大君)的」,「盗奪者的」,「犯罪的」,「遊び友達的」なる修辞語が用いられて来た。著者は,ワシントン・コンセンサスを丸呑みする私有化改革論者達の志向性を「復讐者的」であると性格付け,かかる新形容詞を提案する。(pp.59-60)
最後に,スレチコ・ミハイロヴィチ編『セルビア市民は移行をどのように見ているか』(Srećko Mihailović, ed. , Kako Građani Srbije Vide Tranzic iju, Friedrich Ebert Stifutung, 2010, Beograd)所収のスレチコ・ミハイロヴィチ論文「移行に関するお話しと我国の終わりなき諸変化に関する語り」が提示する重要命題と興味ある世論調査を紹介する。
「セルビア市民は,前世紀の80年代末と90年代初に社会主義を脱正統化し,民族主義的戦時政権を正統化した。セルビア市民は,世紀交代の年,あるいはそれよりやや以前に民族主義的戦時政権を脱正統化し,セルビア民主反対派政権を正統化した。移行20年後,世論調査は,手続き形式上から見れば民主的である政権の脱正統化プロセスを示している。同様に,近年,私達は,セルビア市民が以前の脱正統化を否定して,事後的に社会主義に正統性を与えつつあると言うもう一つの重要な現象の目撃証人でもある。」(p.9)
どの時代がセルビアにとって最良であったか,と言う一択質問に,社会主義の時代81%,21世紀最初の10年代10%,20世紀90年代6%,第二次大戦前3%と言うショッキングな結果が得られた。質問をより複雑にして,生活水準,経済状態,政治システム・政治的自由を総合評価させると,社会主義3.6点で最高であり,ミロシェヴィチ時代(90年代)2.4点,そして今日の10年間2.5点となる。何点満点か説明が欠如しているので,あいまいさが残るにせよ,民主政権期とミロシェヴィチ「独裁」期の総合評価に僅差しかないのに驚かされる。ミロシェヴィチの時代は,内戦,民族主義的動揺,国際的全面封鎖,NATO空爆,そして億を越えるインフレ率等で苦々しく想起されるはずであるにもかかわらず。経済と生活水準に限れば,今日の民主政権期が最悪・最低と評価されており,政治的自由の面における高評価によって,かろうじてミロシェヴィチ時第を0.1点(=2.5-2.4)だけ上回った訳である。
上記のように,社会有・国有財産の私有化がそのプロセスと結果に関して,一般民衆の公平感・正義感からははるかに遠く,それゆえ社会主義が事後的に正統性を回復したとしても,かかる民衆感情は,あくまで世論と称される社会心理であって政治力や社会力に結晶してはいない。新興有産階級の不公正・不正義を非難し是正する力として,旧有産階級と彼等の相続権者が登場する。彼等は,社会主義政権が1945年3月9日以後に没収し国有化した私有財産(主に土地と建物)の返還と補償を正義の回復として要求する。何故なら,あの国有化は歴史的不正義であるから。一般民衆の中にある現私有化不正義感は,旧有産階級の旧国有化不正義論に回収される。かくして,2011年9月に財産返還法が採択され,10月に発効する。ベオグラードの日刊紙『ノーヴォスティ』(9月11日)には,早くも中心街―東京の銀座通りに当たるクネズ・ミハイロヴァ通り―の由緒ある建物五十数棟の写真と旧所有者家族の名前とが大々的に提示される。勿論,旧有産階級単独の力が新興有産階級より強くなったから,返還法が採択されたわけではない。何よりも,かかる法律の制定は,セルビアがEUに加盟するための諸必要条件の一つである。
私見によれば,60年以上前に私有財産権が国家権力によって不当に侵害されたと言う旧私有権者の主張が今日法律的に肯定されるとすれば,我が日本における占領軍による財閥解体も農地改革も私的所有権侵害として政治テーマ化され得るであろう。しかしながら,そんな時代錯誤の政治運動を日本社会で目撃することはない。私有観念に関する日欧比較論の課題かも知れない。
本論は11月6日に開かれた社会主義理論学会主催「『ソ連崩壊20年』シンポジウム」における報告の要旨である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study423:111118〕
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