日本の政治・経済・文化の転換とTPP(壱)
- 2011年 11月 24日
- 評論・紹介・意見
- 三上治
以前にあるところで「日本の文化にとって原発はどのような存在であるか」と題した文を送らせてもらった。恥ずかしながらこの文ではあの文脈では新嘗祭の替わりが文化の日と受け取られるようになっていたが、これは僕がうかつにも戦前の新嘗祭は戦後では勤労感謝の日であるのに文化の日との区別も曖昧になるためだった。ボケが始まっているのかも知れないが、どちらも印象の薄い休日だったこともあるのだろうか。
僕が日本文化についての考えを最初に論じたいのは最近、TTP問題などで売国奴と愛国とかのナショナリズムの言説が流通し、日の丸を掲げた右翼―保守派のデモが見られるようになり、その波紋が僕らの周辺にも及んでいるように思えるところがあるからだ。これは戦後の左翼の言説であったナショナリズムを超えるインタナシナリズム(世界―国際)という思想が影響力を失い、これにつれてナショナリズムという思想言説が浮上しているからだと考えられる。戦争を推進したナショナリズムへの批判が国際関係の変化の中で薄らいできていることもあると思う。あるいはグローバリズムの浸透に対する抵抗意識の拠り所としてナショナリズムを見直す気運が出てきていると言える。最近の思想的な動向を概括するとこういう図式になる。図式化すると言える。
僕の考えを述べればかつてのインターナシュナリズムとナショナリズムという近代的な思想基準が解体しているのであると思う。アメリカの新自由主義は思想の原理とすればこの枠組みにあり、これと対抗していたマルクス主義が力を失う中で一人勝ちのような場所を占めてきた。ただ、アメリカ流のグローバリズムが影響を失いつつあると思う。これらを超える思想は何処にあるのかという問いが当然ある。これは近代的言説を二つの方向で超えることがそこで問われる。そこで今、世界性とは何かということが一つであり、もう一つはナショナリズムとは何かということであり、近代的な思想の枠組みを超えていけるかという問いかけでもある。どちらから入ってもいいが、ここではナショナリズムの問題から分析を進めたい。僕は戦後の米ソ対立の形であらわれた国際性(世界性)をめぐる対立は同時にナショナリズムを内包しており、ナショナリズムと国際主義という近代の思想的枠組みにあり、二つの戦争の結果として国際面を強調する中にあったと見ている。これはナショナリズムや国際主義という枠組みを表裏として持つ近代の思想的基準を脱するものではなかった。(11月24日)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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