旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(1)
- 2011年 12月 9日
- スタディルーム
- ドゥシコ・タディチ岩田昌征
2010年の何月か忘れたが、見ず知らずのボスニア・セルビア人から著書が送られて来た。ハーグの旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷ICTYの第1番目の被告ドゥシコ・タディチ氏であった。
2011年1月14日付けの手紙をそえて、1月下旬その増補第二版も送ってきた。私は、旧ユーゴスラヴィア多民族戦争の諸相について4冊の著書を発表して来たが、ハーグ法廷について考える余裕はなく、ましていわんや個々の被告の運命について思いをめぐらす時間的余裕は全くなかった。
ドゥシコ・タディチは、ボスニアのある田舎町コザラツ(ボシニャク人=ムスリム人98%、セルビア人2%)で日本の格闘技の指導者をしつつ、「NIPPON」と言う喫茶バーを営んでいた平凡な一市民であった。そんな人物が戦犯ナンバー1となり、十四年間の獄中生活をすごし、釈放後一書をものし、極東の一日本人に送付して来た。2011年9月、私はベオグラードから列車で40分弱、ドナウ河の向うのパンチェヴォ市に彼を訪ねて数時間話し合った。
「どうして私の事を知ったのか」と問うてみると、第一版をセルビア正教会関係者の助力で出版した年の秋、ベオグラードの書物見本市に出品していた時、ある中年のセルビア人女性が「この種のテーマに関心を持つ外国人は殆どいないが、日本人のIWATAは別だ」と言って、私のアドレスをおしえてくれたのだと言う。私に心当りがあるとすれば、ベオグラードでよくかよう書店の女主人だったかも知れない。世界は狭くなったものだ。ドゥシコ・タディチは、無職で妻が看護師としてベオグラードで働いて生活を支えていると言う。彼なりの真実を外国人にも知ってもらいたいし、出来れば生活費の足しにしたいとの思いもあって、日本で翻訳出版されるチャンスがあるか、と問う。私はきっぱり実情を語った。日本の市民社会にとって、旧ユーゴスラヴィア戦争はもはや遠い昔語りであって、関心が薄いし、また関心が残っていても、それは善玉とされたボシニャク人=ムスリム人「被害者」に対してであって、悪玉とされたボスニア・セルビア人「加害者」が経験した不幸や悲劇に関してでは全くない。在京のセルビア人留学生にとっても話題にされたくないテーマだ。だから、出版の可能性はまずなかろう。しかしながら、私が知っているミニ電子メディアがあるから、あなたの著書の一部を抄訳紹介する事位は出来るかも知れない。努力してみよう。と約束した。と言う次第で、以下に『ハーグ囚人ナンバー1の日記:タディチ事件―No.IT-94-1-T』(Hriscanska Misao, Beograd, 2010)の部分訳を何回かにわたって ちきゅう座 で提示したい。
1.ハーグ法廷の誕生
私は、「民族浄化」の故に裁かれた世界裁判史上最初の人物となった。ハーグ法廷は、ポトコザリェにおいて人種的、政治的、そして宗教的理由で非セルビア人を迫害したかどで1997年5月7日に私を有罪であると宣告した。私を「黒いベンチ」に引き出して厳刑を課す事は第二次大戦後最悪の戦争犯罪に責任ある人々を裁く為に設立されたハーグ法廷の「法的誕生」を意味したのである。私を、あるいは他の誰かを最も重い罪、平和に対する罪で告訴し裁きもしなかった事はまさに奇跡であった。私の判決文は343ページあった。人道に対する犯罪―オマルスカ、ケラテルム(p.9)、そしてトゥルノポリェにおける諸収容所の被収容市民達を殴打し、殺害し、コザラツでムスリム人を虐殺した犯罪の故に私に有罪判決を下した。
これらの犯罪は、法廷の判断によれば、「大セルビア創設を目的として、市民に対する広範囲かつ組織的な攻撃の一部として戦争状態下に遂行された。」私の裁判は全世界に公知された。西側のメディアは、「コザラツのアイヒマン」の悪業の暴露を競い合った。私の写真が新聞紙面やテレビ画面から消えることはなかった。私に判決が下ったと言うニュースは、CNNにとってその年のニュースであった。10分毎に放映された。1994年2月12日にドイツで逮捕されてから2008年7月18日に釈放されるまで、14年4ヶ月と3日の期間獄中にあった。今日、私は妻と二人の娘と一緒にセルビアに住んでいる。私の両の手に他人の血はついていない。誰も殺していない、誰も虐殺していない、誰も暴行していない、誰も絞首していない。怪物だけが実行できるような犯罪の故に私は告発され、裁かれたのだ。強力な西側のプロパガンダによって恥辱の柱に打ち付けられた。「アラビアのローレンツ」にならって「セルビアの屠殺者」と名付けられた。長い間、私は一人ぽっちに放って置かれた。自分の国から適切な支援もなくて、ハーグの不正義の恐ろしいひき臼に抵抗する事が出来なかった。私がハーグ法廷のモルモットであった事は、ゴールドストーン検事の次のような発言で確認された。「ハーグ検事局の意図は、タディチのケースを通して、民族浄化に彼自身が参加した事だけでなく、彼と共に参加した人達、可能ならば、その命令者達にたどり着く事である。」(p.10)
2.虚偽の証言
私の足がオマルスカ収容所に向かったことは決してない。ケラテレム収容所にいたこともない。コザラツ攻撃のとき、私はバニャルカにいた。
検察官は、虚偽証言を用いて、私がそこにいたことだけでなく、被収容者たちの殺害、迫害、そして凌辱を指揮したことをも立証しようとした。「彼はセルビア人の子供を産ませるためにムスリム人女性を強姦するように看守たちに命令した。」検察官の主張によれば、私の指揮下で、被収容者たちが自分等の性器の一部をお互いに噛み切りあわねばならなかったという。
セルビア人とムスリム人の間の衝突を相互の了解で解決することに私には多くの個人的理由があった。私はコザラツ生まれだ。家族とともにここで暮らしてきた。戦争の二年前、喫茶店「NIPPON」を開業した。コザラツにはムスリム人の接客サービス業店舗が37軒あったが、セルビア人の店はこれ一軒だけだった。私の運命はこの場所に結び付けられていた。私たちの家族にムスリム人への憎悪感情は全くなかった。私の父はユーゴスラヴィア人民軍の将校で、友愛と団結の精神で子供たちは育てられた。私はここの空手クラブを十年間指導してきた。黒帯四段の指導者資格を持っていた。約三千人の少年少女に、主にムスリム人であったが、格闘技を教えてきた。多くの試合や合宿に彼らを連れて行った。私の指導の下で三十人が空手指導者の資格を獲得した。彼ら若者にとって私はスポーツ面の憧れではあっても、決して彼らの殺人者ではなかった。
戦争直前と戦争の最中、私が自分の民族の側に全霊を持って立っていたことは論ずるまでもない。SDS(セルビア民主党)のプリェドル地区指導部メンバー、プリェドルSO(防衛評議会)委員、コザラツ地域共同体議長、そして警察官であった。私はセルビア人たちが自分たちの組織づくりをし、自分たちの民族的かつ市民的権利を守るのを手助けした。しかしながら、戦時の混乱を利用して個人的至富に励む一部セルビア人たちを黙認することはできなかった。プリェドルSO委員として、諸個人の犯罪的所業(p.11)、そして社会有財産と私有財産の盗奪を公然と指摘した。すると彼らは私に黙っているように言ってきた。私は彼らの言うことを受け付けなかった。かくして仕返しが始まった。プリェドルの危機管理本部の若干名、とりわけ警察幹部のドゥシャン・ヤンコヴィチとシモ・ドルリャチャの二人が報復をしかけたのだ。彼らは私を二回前線へ送った。ポサヴィナ回廊へ送り出された。私の部隊の任務は、セルビア人共和国とセルビアを結ぶ唯一の回廊を防衛することだった。私たちは塹壕にこもっていた。交代は二、三週に一回であった。二回ばかり夜間に銃撃戦があった以外、戦闘はなかった。その期間中彼らは私の不在を利用して、母、妻、そして子どもたちをプリェドルの住宅から追い出した。コザラツの自宅が損傷を受けたので、そこに移り住んでいたのだった。他に行く所のあてがなかったので、母をバニャルカに連れて行き、妻と二人の幼い子供たちをまずベオグラードに送り、ついでドイツへ送った。
3.裏切りの攻撃
その後私の人生をぶち壊す事件が起った。オブシティナ(基本的行政区:岩田)の少数有力者たちが私を消す準備をしていることを掴んだ。ドゥシャン・ヤンコヴィチが私を殺す命令をある警部に下した。彼は後になって、被保護証人CTとなる。拒絶されたのでその任務はクラドゥシカ出身のある予備役にまかされた。ラパと呼ばれていた。ラパはコザラツのガソリン・スタンドで私を消そうとした。私に銃を向けて言った、「てめえはおれの!」左手で銃身を払いのけたので、弾丸は外れた。
ラパは逮捕されたが、すぐに釈放された。後日、彼が認めたところによれば、「ドゥシコ・タディチを殺害して最高の名誉を持って葬儀を営む。そしてこの殺人はムスリム人の仕業であると発表される。これが計画だった。その目的は、死んだタディチがムスリム人たちに対する脅しとなって、彼らが復讐のためにコザラツに戻って来れないようにすることであった。
数日後、私もまた牢屋に押し込まれた。そして再び戦場に向かうように命じられた。私を連行した憲兵から私に仕掛けられた罠であることを悟った。前線に向かう代わりに同日、プリェドルに戻って、諸個人文書をとってバニャルカへ行き、そこからベオグラードに旅発った。数ヵ月後、ミュンヘンの弟のところへ身を寄せていた。そこには妻と娘たちが私を待っていた。ドイツにはユーゴスラヴィア空手代表団の団員等と共に旅したことがあった。ミュンヘン滞在の数ヵ月後、ドイツ警察が私を逮捕した。やがて、彼らは私の身柄をハーグ法廷に引き渡すことになる。
牢格子の内側にあったとき、私は日記をつけていた。日記の中から最も興味深い部分をここに公表する。ただし、今日まで世の中に知られていない記録文書や証人達のオリジナル証言でもって補足しつつ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study426:111209〕
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